Vol. 6, No. 3を刊行いたします

最新号『フィルカル Vol. 6 No. 3』が、12月25日(土)に発売となりました。以下に、最新号の内容をご紹介いたします。(目次はページ最下部)

内容紹介

おかげさまで、フィルカルも6年目を終えようとしています。6年目のラストを飾る今号『フィルカルVol. 6 No. 3』では、巻頭小特集3本立てをお届けします。

小特集ひとつめは、今年はじめに刊行された話題書『闇の自己啓発』(江永泉・木澤佐登志・ひでシス・役所暁著、ハヤカワ書房)の書評記事特集です。本書が自己啓発をテーマとしており、かつ読書会の記録でもある点を捉えて、その底の知れない魅力に迫ります。

小特集ふたつめは「応用することの倫理」。前号でも特集した「緊縛シンポ」の問題を契機として企画されたシンポジウムを振り返るとともに、登壇者からの寄稿では日本における哲学を応用する試みの歩みを跡付け、哲学者が現実を生きる人々に関わる研究に取り組む際に直面する問題を考えます。

最後の小特集は「高校の探究学習における人文系研究者の役割」です。2022年度から、高校の学習指導要領の「総合的な学習の時間」が「総合的な探求の時間」に変更されます。この小特集では、先行して探求学習を行っている高校でTAを務める3名の研究者が、現場で生徒や教員に向き合った率直な実感をもとに、探究学習を実りある時間にするために何が必要であり、研究者がそこでできることは何かを探っています。

第2回となる特集「徳と教育」では、小特集でも取り上げた探求学習や、道徳教育、哲学教育における教育実践を徳の観点から批判的に吟味します。最終回を迎える特集「科学的説明論の現在」では、第1回で概観した因果的説明を超える「非因果的説明」を巡る議論を紹介しています。

新連載の「性表現の哲学入門」では、日常言語や裁判の判決における用法を手がかりに、「猥褻」概念を整理します。これは猥褻な性表現が悪いと言われるときの悪さを考える次回につながっていく予定です。

ほかにも、魔女裁判容疑者の体験を分析する論考「魔術的現象のリアリティ」や、舞台芸術の制作場面の会話分析を通して「アスペクト」の転換への理解を深める論文「アスペクトの転換と凝結」、教育現場での実践を報告する「丸山真男『「である」ことと「する」こと』を題材とした哲学対話の国語教育への応用研究」を掲載。好評連載の「#桜川ひかりに哲学のことをきいてみた」と「哲学と自己啓発の対話」に加え、レビュー記事もそろっています。

『フィルカル』は、Amazon のほか、一部大型書店、一部大学生協でお求めいただけます(お近くの書店でお求めいただけない場合には、philcul[at]myukk.orgまでご連絡いただければ、こちらから発送いたします)

年末年始のおともに、フィルカル『Vol. 6 No. 3』をお楽しみください。

目次

小特集1 『闇の自己啓発』
「もしもドラッカー読者が『闇の自己啓発』を読んだら」 (長門裕介)
「静止した闇の中で」 (倉津拓也)

小特集2 応用することの倫理
「〈応用〉することの倫理にまつわる問題を真摯に受け止めること ハラスメントとジェンダーと」 (佐藤靜)
「哲学者が安楽椅子から立ち上がるとき」 (奥田太郎)
「水俣の哲学者 市井・最首論争における概念と見方の問題」 (吉川孝) 

小特集3 高校の探究学習における人文系研究者の役割
「「きちんと」を疑い、上手に「ふざける」ための探究学習のありかたとTAの役割」 (田辺裕子)
「探究するための場 その現状と条件」 (倉田慧一)
「「問い」と自分の不可分な関係 とある高校における探究学習の現場から」 (三浦隼暉)

特集シリーズ1 徳と教育 第2回
「趣旨文:徳の教育実践を吟味する 総合的な探究の時間、哲学教育、道徳教育」 (佐藤邦政)
「「総合的な探究の時間」と知的徳の涵養 教育の限界と可能性が示す学びの沃野」 (山口裕毅)
「「考える人を育てる教育」はどのようなものであってはならないか 知的徳の教育の観点から」 (土屋陽介)
「哲学を学ぶことは「よく生きる」ことにつながるか P4C、林竹二、井上円了の教育理念から」 (神戸和佳子)

特集シリーズ2 科学的説明論の現在 第3回
「序言Ⅲ」 (清水雄也・苗村弘太郎・小林佑太)
「非因果的説明論の現在 多元説・還元的一元説・非還元的一元説」 (小林佑太・苗村弘太郎・清水雄也)

哲学への入門 
「性表現の哲学入門 第1回」 (八重樫徹)

シリーズ ポピュラー哲学の現在
対談「哲学と自己啓発の対話」第八回 (玉田龍太朗/企画:稲岡大志)

論考
「魔術的現象のリアリティ 魔女容疑者の体験分析」 (武内大)

論文
「アスペクトの転換と凝結 舞台制作場面の相互行為におけるアスペクト知覚の会話分析」 (鈴木南音)

報告
「丸山真男『「である」ことと「する」こと』を題材とした哲学対話の国語教育への応用研究」 (玉田龍太朗)

レビュー
「共に深海を潜るということ 永井玲衣『水中の哲学者たち』を読む」 (山野弘樹)
Hans-Johann Glock, What is Analytic Philosophy?, Cambridge University Press, 2008. (植村玄輝・遠藤進平)

コラム
「#桜川ひかりに哲学のことをきいてみた 第4回 哲学書を解釈してみよう」 (桜川ひかり)

#桜川ひかりに哲学のことをきいてみた(第2回)「哲学書をしっかり理解しながら読み進めるための4ステップ」

こんにちは! 桜川ひかりです。この連載では、哲学を勉強したい方向けのお役立ち情報を発信しています。第2回にあたる今回のテーマは「哲学書の読み方」です。

「哲学書の読み方」と聞いて、「そんなマニュアルがあれば苦労しないよ」と思った方もいらっしゃるかもしれません。もちろん、「これさえ知っていればどんな哲学書もスラスラ読める!」といった万能の方法をご紹介することはできません。それでも、今回お伝えする読み方は、「哲学書を読んでいると何も分からないうちに数ページが過ぎてしまう」といった悩みをおもちの方にとって、少しだけ役に立つかもしれません。

本記事は全部で3つの節からなります。第1節では、哲学書をゆっくり読む際の手順について、私がおすすめだと思う方法を4ステップに分けて解説します。第2節では、第1節でご紹介した方法を当てはめつつ、『純粋理性批判』の一部を実際に読んでみます。第3節ではそれまでの内容をまとめたうえで、哲学書を読む際の一般的注意点について、もう少し広い観点からお話しします。

1 哲学書を理解しながら読むための4ステップ1

この節では、哲学書を読むにあたって私が推奨する手順について解説します。なお、ここでは、数ページを何時間もかけて読むような、ゆっくりとした読み方が想定されています。今までそんなに時間をかけて本を読んだことがないという方も、以下の手順をしっかりと踏んでいけば、おのずと時間のかかる読み方になると思います。

今回は哲学書を読む手順を以下の4ステップに分けます。(1)1段落読み、文章の文法的な構造をおさえる。(2)段落内のそれぞれの文を自分が理解できる言葉で言い換える。(3)段落内のそれぞれの文が議論において互いにどのような関係にあるのかを考察する。(4)次の段落に進み、(1)から(3)の手順を繰り返した後、今の段落と前の段落は論述上どのように繋がっているのかを考察する。

これからそれぞれのステップを順に見てゆきますが、その前に段落について少し説明が必要ですね。この記事では、段落を哲学書を読む際の基本単位とします。その理由は、よく書かれた論述的な文章においては、段落は基準なく区切られているわけではなく、議論上のまとまりに対応するように区切られているからです。

少し抽象的に述べると、たとえばCという結論を出したい議論があったとして、Cを示すためにまずAを示し、次いでBを示し、最後にAとBからCが帰結することを示す、という戦略がとられているとします。この場合、Aを示すための議論は最初の段落に、Bを示すための議論は次の段落にまとめられ、AとBからCを結論するための議論が3番目の段落でなされる、といった文章構成を採用することは理に適っています。このように、段落は大きな議論の脈絡においてそれぞれの役割をもっており(上述の第1段落であれば、Cという結論を示すための補助的な主張Aを示すこと、など)、その役割に応じて段落内でなされるべきことが決まり、段落を構成する各文はその目的に寄与することが期待されます2

こうした仕方で、段落は議論という建物を造る際のブロックのような役割を果たしているため、哲学書をゆっくり読む際には、1段落ごとに立ち止まって内容を振り返るというのはよいやり方です。したがって、以下では1段落読む→内容を咀嚼する→次の段落に進むといったサイクルを前提します。

1.1 文章の文法的な構造をおさえる

それでは哲学書の1段落を読む際の最初のステップに移りましょう。まず大事なのは、今読んでいる文章の文法的な構造をおさえるということです。これは外国語の文献を読むときにはよく意識されることですが、日本語の文章を読む際にも重要なことです3。複雑な構文になると、普段話している言語でもちょっと考えないと分からなくなるようなことはしばしばあるので、主述の対応や、修飾節の範囲はどこまでで、その節はどの語にかかっているのかなど、しっかり確認しながら読むようにしましょう。

また、「それ」などの指示表現が出てきたときに、それがどの語を参照しているのかを確認するのも大事です。性・数など、代名詞が何の名詞を受けているかに関する情報の多い言語では、代名詞の参照先がかっちり決まることも多いですが、内容を考えないと決まらないときもあります。そういう場合は、文法的に許容される可能性を絞っておいて、「あとは内容の検討で考えよう」とするとよいでしょう。

1.2 段落内のそれぞれの文を自分が理解できる言葉で言い換える

文法レベルでの確認が終わったら、今度は内容の確認です。難解な古典などだと、段落を一読しただけでは何を言っているのかさっぱり分からないといったことも珍しくありません。そういうときにおすすめできるのが、パラフレーズという手法です。

パラフレーズということで私が考えているのは、ある文について、「つまりこういうことだよね」と、別の表現で言い換えることです。哲学書の内容理解に関してとりわけ大事なのは、この「別の表現」として、自分にも分かるような言葉のみを用いるよう努めることです。「自分にも分かるような言葉」というのも曖昧な言い方ですが、たとえば、意味を訊かれてはっきりと説明できないような言葉(とりわけ哲学用語)はなるべく使わないといった基準を設けるとよいでしょう。

こうしたパラフレーズを1文ずつという単位で行っていくことで、段落の内容をある程度咀嚼することができます。ここで「1文ずつ」というのは2つの意味で重要です。まず、段落が議論にとっての単位をなしていたように、段落内では文が論述上の単位をなすことが多いです。さらに、「1文ずつ」というペースを忘れると、自分が段落のどの部分を言い換えているか分からなくなったり、理解できなかったり自分の理解にとって都合の悪かったりする部分をつい読み飛ばしてしまったりします。文単位でのパラフレーズを心がけることで、論述の流れに沿った形で、かつ、段落で言われていることを網羅的におさえることができるようになります。

また、完全なパラフレーズが難しい場合には、具体例を挙げるという方法も有効です。たとえば「偶数同士の和は偶数になる」という文に対して、「たとえば、2と4はどちらも偶数で、足し合わせると6で、たしかに偶数だね」といったように、具体的なケースを考えてみるといった具合です。適切な具体例を挙げられるかどうかは自分がその文をきちんと理解できているかの試金石にもなりますし、具体的なケースに基づいて考えていくことで理解しやすくなることも多いです。ただし、例はあくまで例なので、自分で出した例に引きずられないよう注意することも大事です。たとえば、もとの文で言われていないことまでその例のディティールから読み取ってしまうといった危険は常にあります。

1.3 段落内のそれぞれの文が互いにどのような関係にあるのかを考察する

さて、段落内のそれぞれの文のパラフレーズが終わったとします。これが理想的に行われれば、段落内のすべての文を自分にも理解できる表現に置き換えたことになるので、段落の理解としてはこれで十分かと思われるかもしれません。しかし、そうではありません。たとえば、以下のような文章を考えてみましょう。

りんごは赤い。2たす3は5だ。私は今日気分がいい。

それぞれの文の意味は分かると思います。しかし、文章全体としては意味が分かりませんよね。それは、この文章には脈絡が欠けているからです。なぜ「りんごは赤い」と述べた後に「2たす3は5だ」と言うのか? 「私は今日気分がいい」とあるが、このことと前ふたつの文で述べられていることには何か関係があるのか?こうしたことが分からないため、個々の文は平易でも、全体としては奇妙な文章になってしまっています。

よく書かれた哲学書に関しては、このような脈絡の無さは無いと仮定してよいでしょう。この場合、「それぞれの文が言っていることは分かるが、なぜこの文の後にこの文が置かれているのか?」といった疑問が出てくる場合、その段落についてまだ理解すべきことがあると考えられます。このように、段落内での文同士の関係を考えるというのが次のステップです。

では、文同士の関係を考えるために何を手掛かりとすればよいのでしょうか。上では完全に脈絡の無い文章を例として出しましたが、実際には文同士の脈絡は接続詞などによって明示されていることが多いです。「Aである。したがってBである」とあれば、ふたつの文が根拠–帰結の関係にあると分かります。もうひとつ例を出すと、「Aである。たとえば、Bである」とあれば、後の文が前の文の具体例になっていることが分かる、などですね。

こうした手掛かりがあるので、接続詞などに注意して読めばそれで事足りると思われるかもしれません。しかし、実際にはこうした分かりやすい印がない文もあります。さらに、たとえばふたつの文が「それゆえ」で繋がれていることから、それらが根拠–帰結の関係にあることが分かったとして、なぜ「それゆえ」と言えるのかが一読して判然としないこともあります。したがって、それぞれの文がどのように結びつけられているのかを自分で考え、また、なぜそのように結びつけることができるのか、内容的に考えることも必要になります。

こうした考察が終わって、段落のそれぞれの文の意味を把握し、かつ、文同士の結びつきがどうなっているのかも明確にできれば、その段落を咀嚼する作業はひと区切りついたといえます。もちろん、段落の議論に対して批判的な検討を行うなど、哲学的に重要なステップはまだまだありますが、「とりあえず読んでみる」という段階であれば、これくらいのことができていれば次の段落に進んでよいでしょう。

1.4 段落同士の関係を考察する

こうしてひとつの段落が読み終わり、次の段落も同じ要領で読み終わったとします。じゃあさらに次の段落に……、と進む前に少し待ってください。上では段落内部での各文の結びつきに関する考察について述べましたが、同様のことは、段落同士の結びつきについても行う必要があります。

本記事第1節の冒頭で、段落は論述における基本単位をなしていると述べたことを思い出してください。よく書かれた哲学の文章では、段落のひとつひとつが議論におけるそれぞれのステップに対応しています。したがって、それぞれの段落は、自らの前後の段落との繋がりにおいて、独自の役割をもっています。こうした段落の役割について考察することで、精読した短い文章を長い議論の脈絡に位置づけることができます。

段落同士の繋がりを考えるためにやるべきことは、段落内の文同士の繋がりを考えた際にやったことと基本的には同じです。一段落読んだら前の段落を簡単に振り返って、今の段落はたとえば前の段落で主張されたことからの帰結を述べているとか、前の段落とは独立に、今後の議論のために示しておきたいことを述べているとか、そうした考察をしてゆきます。また、直前直後の段落だけでなく、数段落読んで、ここからここまでが議論のまとまりになっているなと感じたら、その範囲におけるそれぞれの段落の役割を再び考えてみることも有益です。このように、定期的に議論の大まかな流れを振り返って、それぞれの段落をその流れの中に位置づけることは、「木を見て森を見ず」を避けるために重要なことです。

2 『純粋理性批判』を数段落読んでみる

これまで、哲学書を理解しながら読み進めるための手順を解説してきましたが、実際にどんなことをすればよいのか、例がなかったので分かりづらい部分もあったかと思います。そこで、本節ではカントの『純粋理性批判』から数段落を引用して、第1節で述べたやり方に従って実際に読んでみようと思います。

テクストは第2版「序論」、「Ⅰ. 純粋な認識と経験的な認識の区別について」と題された部分の冒頭3段落です。普段の翻訳においては長い文は読みやすさを優先して適宜複数の文に分けることも多いですが、今回は段落内における文という単位を意識するために、あえて訳文における1文が原文における1文に対応するよう訳してあります。その結果、かなり分かりづらい文も出てきてしまっていますが、読み慣れた言語の文でも(ここでは日本語を想定しています)あたらめてしっかりと構文をとる訓練だと考えていただければと思います。

2.1 第1段落:ステップ1
―構文をとり、代名詞などの指示を確定する

まずは第1段落です。この段落はふたつの文からなります。とくに1文目が長いですね。落ち着いて、前述の1ステップ目、日本語の構文をとり、代名詞などの指示をはっきりさせることから始めましょう。

①の文から考えてゆきます。まず気づくこととして、この文はダッシュ(「―」)の前後で大きく分かれているようです。このダッシュは原文のゼミコロン(„;“)に対応し、文同士の区切りに次ぐ大きな区切りを表します。というわけで、まずはダッシュの前までを見てみます。ここまでは、それほど構文は複雑ではありませんね。「このこと」が直前の「私たちのあらゆる認識が経験とともに始まること」を指していることにだけ注意してください。次にダッシュの後です。ここはかなり複雑な構造をしているので注意して見てゆきましょう。以下、箇条書きでポイントを指摘します。

・ 「私たちの感官を」から「対象の認識へと加工させるような」までが丸々「そうした対象」にかかっていることをまずは確認します。
– つまり、「私たちの感官を刺激」するのも、「一方でおのずから諸表象を生じさせ、一方で私たちの悟性活動をはたらかせて[…]感性的印象という生の素材を[…]対象の認識へと加工させる」のも、「そうした対象」が行うということです。
・ 「私たちの悟性活動をはたらかせて」以下の部分も注意してください。
– ここは「~させる」という使役の表現が用いられているので、「そうした諸表象を比較し、それらを結びつけ、あるいは分離」し、「感性的印象という生の素材を、経験と呼ばれる、対象の認識へと加工」するのは「悟性活動」です。
・ さらに、指示表現にも注目しましょう。
– 「悟性活動をはたらかせて、そうした諸表象を」とありますが、この「そうした諸表象」は直前の「一方でおのずから諸表象を生じさせ」における「諸表象」を指します。
– また、「そうした諸表象を比較し、それらを結びつけ」における「それら」が「そうした諸表象」を指すことは分かると思います。
・ ダッシュの後半は「修辞疑問文」や「反語」と呼ばれるものです。
– つまり、「認識能力」を呼び起こして行使に至らせるのは「そうした対象」をおいてほかないということが述べられています。

②の文に関してはそれほど難しいところはないでしょう。「この経験」が直前の「私たちのうちのいかなる認識も経験には先行せず」における「経験」を参照していることにだけ注意してください。

2.2 第1段落:ステップ2
―各文をパラフレーズする

日本語に関する確認が終わったら、次は各文のパラフレーズです。耳慣れない言葉が並んでいると思うので、細かく確認してゆきましょう。

①の文についてはいきなり「私たちのあらゆる認識が経験とともに始まる」と言われていますが、いまいちよく意味が分からないと思います。「認識」や「経験」は日常的に使わなくもない言葉ですが、日常的な文脈で考えてみてもあまりしっくりきませんね。ここは天下り式に言い換えてしまいます。

「認識」とは、あるものについて、「これはしかじかのあり方をしている」と判断することです。たとえば目の前にあるリンゴを見て、「このリンゴは丸い」と判断することが認識の例として挙げられます。

「経験」とは、知覚4に基づいた認識のことです。上の例では、「このリンゴは丸い」という判断はそのリンゴを目で見るということに基づいていますね。このように、目で見たり耳で聞いたりして判断を行うということが経験です。

こうした仕方で「認識」や「経験」という語を理解するならば、「私たちのあらゆる認識が経験とともに始まる」とは、「物事に関して判断する際に私たちは、目で見たり、耳で聞いたりして、何らかの知覚を頼りにすることから常に始めるのだ」、と言い換えられると思います。そして、「このことには決して疑いの余地はない」とあることから、カントはこうしたことを当然のこととして認めていることが窺えます。

次に、①の文の後半、ダッシュの後について見てゆきます。2.1節で指摘したように、この部分は修辞疑問文になっており、大まかに言って「対象のみがかくかくの仕方で認識能力を作動させる」と述べられていることがまずは分かります。ここで対象は認識の対象、先の例で言えばリンゴなどを念頭に置けばよいでしょう。「認識能力」は、対象について判断するのに関わる能力を全般的に指します(リンゴを見る力や、リンゴについて「丸いな」と考える力など)。さて、この「かくかくの仕方で」の部分が問題ですね。順に埋めてゆきましょう。

まず、対象は「私たちの感官を刺激し、一方でおのずから諸表象を生じさせ」るとあります。また分からない言葉が出てきましたね。「感官」はさしあたり感覚器官を通じて情報を受け取る能力と考えればよいでしょう。たとえば、私たちは視覚や聴覚を通じて周囲から様々な情報を受け取ることができます。こうした能力が「感官」という言葉で表現されています。次に「表象」です。これはさしあたり、心の中で生じるイメージのようなものと捉えてよいです。ただし、「イメージ」というと想像のようなものを思い浮かべがちですが、リンゴを見ているときに生じる視覚像など、実際の知覚も「表象」に数え入れられ、この文脈ではむしろそちらが念頭に置かれていることに注意してください5。つまり、ここでは「認識対象が私たちの感覚器官を刺激し、心の中で知覚などのイメージを生じさせる」といったことが言われています。リンゴから発した光が目に入って、リンゴの視覚イメージが私たちの内に生じる、といったことを念頭に置けばさしあたりは大丈夫です6

次に対象は「一方で私たちの悟性活動をはたらかせて、そうした諸表象を比較し、それらを結びつけ、あるいは分離させ」るとあります。ここで分からないのは「悟性活動」ですね。とりわけ「悟性」の部分がなじみがないと思いますが、これは考え、判断する能力を指します。先ほど、認識とは、あるものについてそれがどのようなあり方をしているか判断することだと述べました。とりわけ、知覚に基づく認識においては、まず知覚を通じて認識の対象が固定されて(たとえばリンゴを見て、そのリンゴについて考える準備をする)、次に「このリンゴはこういうあり方をしているな」と判断する段階に入ります。ここで「このリンゴは丸い」と考える力が悟性です。

では悟性はどうやって判断を下すのかというと、「そうした諸表象を比較し、それらを結びつけ、あるいは分離させ」ると述べられています。2.1節で確認したように、「そうした諸表象」は、対象が感官を刺激して生じた諸表象を指します。では表象同士を比較したり、結びつけたり、分離したりするとはどういうことでしょうか。たとえば、「いくつかのリンゴは丸い」という判断を考えます。この判断にはリンゴと丸さの概念が登場します。リンゴの概念は、たとえば様々なフルーツを見て、その中でリンゴだけがもっている特徴を抜き出すことによって作られたと考えられます。ここでフルーツの視覚イメージまたはそれに基づく記憶は、互いに比較されたり(リンゴとミカンを見比べて色が違うと思うなど)、結びつけられてグルーピングされたり(リンゴであるようなフルーツだけをひとまとめにして考えるなど)、共通の特徴がそこから分離されて抜き出されたりします(リンゴであるようなフルーツが共通してもっているような赤さなどの特徴が抜き出されるなど)。丸さの概念についても同様です。また、「いくつかのリンゴは丸い」という判断においては、このようにして得られたリンゴと丸さの概念が一定の仕方で結びつけられているとも考えられます。これも表象同士の結合といえそうです。

さて、悟性の活動は上のような工程を経て、「感性的印象という生の素材を、経験と呼ばれる、対象の認識へと加工」するとあります。ここでは「感性的印象」という言葉が難しいですね。「感性的」とは、対象から刺激されて受動的な仕方でその対象に関わる能力に関する物事につけられる形容詞です。「このリンゴは丸い」という判断においては、リンゴを見るステップと、そのリンゴについて考えるステップがあると述べましたが、ここでは前者の見るステップに関わるような物事が「感性的」です。「印象」とは感官を通じて受け取られるようなバラバラのデータを指します。さしあたり、リンゴの赤さなどを思い浮かべるとよいでしょう。こうした印象はさらに「生の素材」と言われています。「素材」という言葉はその後の「加工」という言葉に対応していそうですね。つまり、感官を通じて赤さなどの印象を受け取るだけではまだ認識とはいえず、悟性が表象の比較・結合・分離を通じて判断を作り上げることで、初めて対象についての認識が成立するということです。

長くなりましたが、これまで述べたことを踏まえたうえで①の文を言い換えるなら、「私たちが対象について判断する際には、知覚に基づくところから始めるしかない。というのは、対象が感覚器官を刺激して私たちの心の内に知覚といったイメージを生じさせ、さらに思考能力を導いて、そのイメージを加工することによって判断を下させるという以外の仕方では、私たちの認識能力は作動しないからだ」などとなります。最初に読んだときよりは、何が述べられているのか、だいぶ把握しやすくなったのではないでしょうか。

②の文は手短に済ませましょう。まず後半の「この経験ともにすべての認識は始まる」は①の冒頭で述べられていたことの繰り返しです。検討すべきは「時間ということからみれば、私たちのうちのいかなる認識も経験には先行せず」という部分です。認識が経験に先行しないというのは、①で述べられたことの言い換えととれます。つまり、まず知覚を通じて対象に関わるというのが、あらゆる認識において最初の段階をなすということです。ただし、「時間ということからみれば・・・・・・・・・・・・」という但し書きがあり、それが傍点(原文では隔字体)によって強調されていることに注意してください。つまり、先に「最初の段階」と述べましたが、この「最初」は時間的な意味における順序を表しているということです。さらに言えば、あえてこのような強調がなされるということは、「時間的な意味以外における順序があり、その順序においては知覚の段階があらゆる認識に先行するわけではない」と今後の論述において続きそうだ、と予想ができます。というわけで、この文を言い換えると、「私たちのあらゆる認識において知覚の段階が最初に来るが、この「最初に」というのはあくまで時間的な意味における順序を表している」となります(ここで「認識」は先の説明によって理解可能になったと仮定します)。

2.3 第1段落:ステップ3
―段落内の文同士の繋がりを考える

ここまでで、段落を構成するふたつの文が何を述べているかについては、最初に読んだ時よりも明瞭になったと思います。次に、これらの文同士の繋がりについて考えましょう。

今回は②の冒頭に「それゆえ」とあるので、文同士の関係を特定するのは比較的簡単です。つまり、①の文で述べられていることを根拠として、②の文はそこからの帰結を述べていると考えられます。では、これらの文はどのような意味で根拠–帰結の関係にあるといえるのでしょうか。

①の文の、とりわけダッシュの後における主張は、「私たちの感官を刺激し、次いで悟性をはたらかせるような対象によってでなければ、私たちの認識能力は作動しない」というものでした。②の文の主張は「私たちのいかなる認識も時間的には経験に先行しない」です。ここで「経験」が知覚に基づく認識を指す語だったことを思い出すと、対象が感官を刺激することがあらゆる認識における最初のステップであると①において述べられていることが重要そうだと分かります。つまり、対象が感官を刺激するというのがあらゆる認識において時間的には最初の位置を占めると①で述べられており、この「対象が感官を刺激する」という段階が知覚の段階に相当するので、②では経験、つまり知覚に基づく認識が時間的にはあらゆる認識に先行すると述べることができる、といった関係になっています。

2.4 ステップ4
―段落同士の繋がりを考える

これで第1段落を理解するための作業はひと通り完了しました。次いで、第2、第3段落を読み、それらの段落同士の関係を考える作業に移ります。第2段落以降についても2.1節から2.3節までで行ってきたのと同様の手順を踏むべきですが、ここでは紙幅の都合で私が手短にそれぞれの段落を要約してしまいます。

第1段落では、時間的にはあらゆる認識に経験が先行すると述べられましたが、第2段落では、時間的でない意味においては必ずしもそうとは言えないと述べられています(これらふたつの意味における先行性が「経験とともに」と「経験から」という言葉で対比されています)。ではなぜそういえるのかというと、認識を構成する要素の中には、私たちが知覚を通じて受動的に受け取るもの以外にも、私たち自らがそこに付け加えるものがあるかもしれないからだと述べられています。もう少し踏み込んで言うなら、そうした私たちの側が付け加える要素がなければ経験も成立しないという意味で、それらの要素は―時間的な意味においてではないにせよ―経験に先行するかもしれないじゃないか、と述べられていると考えられます7

第3段落は比較的分かりやすいので、これまでに出てきた言葉を理解していればそれほど言い換える必要はないと思います。「経験や感官のあらゆる印象から独立した認識はあるのか」という問いが立てられ、この問いはすぐに答えが出るような簡単なものではないと述べられています。さらに、ここで「経験から独立し、感官のあらゆる印象からさえも独立した、そうした認識」を形容する専門用語として「ア・プリオリ」という言葉が導入され、これとの対比において、知覚に基づく認識には「経験的」という表現が与えられます(「ア・ポステリオリ」は「ア・プリオリ」の対義語です)。

さて、ここまでで3つの段落を順に見てきましたが、これらの段落は互いにどのように結びついているでしょうか。これに関しても今回のケースは分かりやすくなっています。まず第2段落の冒頭に「しかし」とあります。つまり、第2段落の主張は、第1段落で確認されたことと対比されていると考えられます。さらに内容を振り返ると、第1段落では「時間的には、あらゆる認識に経験が先行する」と述べられていたのに対し、第2段落では「だからといって、時間的でない意味においても、あらゆる認識に経験が先行するとは限らない」と述べられていたので、ふたつの段落は、第1段落が譲歩で、第2段落ではそれとの対比において主張したいことが述べられている、という関係にあることが分かります。

第3段落の冒頭にも「それゆえ」という印があるので、前段落との関係が分かりやすくなっています。すなわち、第2段落と第3段落は根拠–帰結の関係にあります。ではなぜこの関係が成り立つのでしょうか。第3段落の主張は「経験から独立した認識は存在するか」という問いはただちに答えられるようなものではない、というものでした。つまり、この問いに「イエス」とも「ノー」ともすぐには答えられないということです。ここではとりわけ、ただちに「ノー」と言えないということに重点が置かれていると考えてよいでしょう。というのは、第2段落はそのような認識が存在するかもしれないと考えるための理由を述べているからです。第1段落では、時間的にはあらゆる認識に経験が先行すると述べられ、それゆえ、経験から独立した認識などないとただちに答えられると思われるかもしれない。しかし、第2段落で述べられているように、時間的でない意味においては、あらゆる認識に経験が先行するわけではないと述べる余地がある。したがって、この問いにただちに「ノー」と答えることはできず、そのような認識の可能性についてはより詳細な研究が必要だということになる。このような繋がりがあると考えられます。また、とはいえ時間的には経験に先行する認識などないのだから、経験から独立した認識というものがどんなものであるかはちょっと考えただけでは分からないという意味で、第1段落はこの問いにただちに「イエス」と答えられないということの根拠になっているともいえるかもしれません。

3 本記事で紹介した方法のまとめとその限界

『純粋理性批判』の読解という実例を通して以前よりもイメージが明瞭になったところで、あらためて本記事で紹介した哲学書の読解手順について振り返ってみましょう。まずはひとつの段落について、日本語やドイツ語のレベルでどう読むのか―主述の対応はどうなっているか、修飾節の範囲はどこまでか、指示表現はそれぞれ何を受けているかなど―を確認します。それが済んだら、今度は段落を構成する各文について、それが何を言っているのか、なるべく自分にも理解できる言葉で言い換えてゆきます。各文の意味がとれたら、今度はそれぞれの文が論述においてどのような繋がりにあるのか―たとえば根拠–帰結の関係にあるなど―を考えます。このようにして1段落が読み終わったら、次の段落に進んで同じ手順を繰り返し、さらに、段落同士が議論においてどのような関係にあるのかを考察します。この一連の手順を踏むことで、哲学書の議論をステップバイステップでかみ砕くことができ、さらに議論の大きな流れも把握しやすくなります。

ただし、これまで述べた方法には限界もあります。とりわけ、各文のパラフレーズがどこまでうまくできるかについては、読者の知識や読者がそれまでに受けてきた訓練に依存するところが大きいです。たとえば今回私は「認識」「経験」「感官」「悟性」といった用語について天下り式に解説してきましたが、これはカントやその時代の哲学に関する事前知識がなければできません。また、議論の脈絡を追うにあたって、第2節で私が示した読みは極端に的外れなものではないと信じますが、そうした読みができているとすれば、それは『純粋理性批判』という本全体が何を目指しているのかとか、当時の哲学の議論の文脈はどのようなものだったのかとか、そうしたことについてある程度知識をもっているからというのが大きいです。こうした知識などにガイドされない場合、適切なパラフレーズができなかったり、的外れな仕方で議論を解釈してしまったりする危険があります。

このようなことを避けるには、一言で言えば勉強するしかありません。こうした勉強のためには、ひとつには概説書が有用です。哲学書の原典を読むのに合わせて、自分が読みたい箇所を専門家が解説している本を探し、分からないところがあればその解説を頼りに読み進めてゆきましょう。

また、この連載の第1回でご紹介した、読書会で哲学書を読むという方法もおすすめできます。とりわけ、その哲学書に詳しい人と一緒に読むというのは大きな助けになるでしょう。また、今回の記事で解説した読書方法は、実は読書会における基本的な手順としてもそのまま推奨できるものです。ひとりで読んで分からない本は、仲間を探して一緒に読むことを強くおすすめします。

したがって、この記事を読んでただちに哲学書が以前よりも読めるようになった、ということにはなりませんが、こうした実践を繰り返すことで、「何を言っているのか全然分からないまま数ページが過ぎてしまった」といったことは徐々に減ってくると思います。今回ご紹介したように、段階を踏んでゆっくりと読んでいくことは哲学書を読む際にとても大事なことなので、是非試してみてください! それではまた次回の記事でお会いしましょう。ばいばーい。


桜川ひかり

哲学を研究しているバーチャルYouTuber(VTuber)。2020年5月から動画配信サイトYouTubeにて活動中。初期はゲーム実況や雑談配信を行っていたが、最近は哲学を学ぶ上でのワンポイントアドバイス動画を主にアップしている。専門はカント哲学。

『フィルカル』Vol. 6 No. 2刊行記念イベントのお知らせ

最新号『フィルカル Vol. 6 No. 2』が、8月31日(火)に発売となりました(最新号のコンテンツはこちらから)。その刊行に合わせ、「ネタバレのデザイン@代官山蔦屋書店」以来、約2年ぶりとなる刊行記念オンラインイベント「哲学は人生の必修科目か? ―『ここは今から倫理です。』から考える―」を開催します。

イベント概要

  • タイトル: 「哲学は人生の必修科目か?―『ここは今から倫理です。』から考える―」
  • 日時:2021年9月26日(日)14:00~17:00(終了時刻は予定)
  • 場所:Zoomを利用したオンライン開催(リアルタイム配信のみ。アーカイブ配信はありません)イベント翌日から1週間(~10/3(日)、チケットご購入者さまを対象とするアーカイブ配信も行います。(公開後、アーカイブURLをメールにてご連絡いたします)
  • お申し込み方法 : Peatixのイベントページよりお申込みください。
  • チケット
    • イベント参加券 1,000円(税込み)
    • 『フィルカル』Vol. 6 No. 2号付きイベント参加券 2,980円(税込み、送料込み)

イベント趣旨

分析哲学と文化をつなぐ雑誌『フィルカル』の最新号 Vol. 6 No. 2が、2021年8月31日に刊行されました。最新号の目玉特集の一つが、『ここは今から倫理です。』特集です。高校倫理教師を主人公とした人気漫画で、今年1月にNHKでドラマにもなるなど、話題を集めています。本誌の特集では、原作者の雨瀬シオリさんへのインタビュー「優しい「こそ泥」の倫理」、そして、NHKドラマ制作陣の渡辺哲也さん・尾崎裕和さんへのインタビュー「ドラマを作ることは哲学することでもある」を掲載しています。合計60ページのたいへん読み応えのある内容になっています。

私たちが生きるなかで直面する問題には、哲学や倫理学に関わるものが少なくありません。そして、人は知らず知らずのうちに哲学や倫理学をしてしまっていることも珍しいことではないでしょう。『ここは今から倫理です。』は具体的な問題に悩む教師や生徒の姿を通して、「人生の必修科目」としての哲学・倫理学のあり方を描き出しています。それは、私たち一人一人が生きる上での哲学の意味を教えてくれるものでもあり、また哲学研究者にとっては、自分の仕事の社会的意義についてあらためて問いかけられるものでもありました。実際、哲学や倫理学を研究者やその卵だけのものにしておくのはたいへんもったいないことです。

この『フィルカル』Vol. 6 No. 2の刊行に合わせて、ドラマ『ここは今から倫理です。』の脚本を手掛けた劇作家の高羽彩さんをお迎えするトークイベントを開催します。哲学や倫理学の魅力とはなにか、哲学や倫理学には何が求められているのか、そして、哲学・倫理学はこれからどうあるべきなのか、といったことについて、ドラマでの哲学の描かれ方や、制作過程での工夫や苦労をヒントにしながらトークします。『フィルカル』編集委員でありドラマの高校倫理考証を務めた神戸和佳子氏と、『フィルカル』編集部から長田怜・稲岡大志の各氏が登壇します。哲学や倫理学の未来について、高羽さんを交えて徹底的に話し合いたいと思います。

漫画やドラマ『ここは今から倫理です。』のファン、ドラマ出演俳優のファン、哲学や倫理学の研究者やその卵、哲学や倫理学に興味のある人などなど、お気軽にぜひご参加ください。

登壇者プロフィール


高羽彩(たかは・あや)
劇作家・演出家・俳優。早稲田大学卒業。早稲田大学の学生劇団「てあとろ50’」を経て2004年に個人演劇ユニット『タカハ劇団』を旗揚げ、主宰・脚本・演出を手掛ける。緻密な構成と生々しくチープでありながら何処か叙情的な言語感覚が高い評価を得、近年ではアニメ・実写ドラマ・ゲームシナリオとジャンルを問わず脚本執筆の場を広げている。2021年には脚本をつとめたドラマ『ここは今から倫理です。』がギャラクシー賞を受賞。更なる活躍が期待されている。


神戸和佳子(ごうど・わかこ)
1987年、長野県生まれ。2012年にハワイで「子どものための哲学」(P4C)の実践に出会い、その後、中学校・高等学校を中心に、哲学的な対話の手法を用いた授業実践を行う。東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。現在は北陸大学経済経営学部講師。専門は哲学教育、日本教育思想史。共著に、『子どもの哲学』シリーズ(毎日新聞出版)など。NHKよるドラ「ここは今から倫理です。」および関連番組の「ここは “ぺこぱと”倫理です。」で高校倫理考証を担当。


長田怜(おさだ・りょう)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。現在は浜松医科大学医学部准教授。専門はルドルフ・カルナップの哲学、医学の哲学。論文に、“Realism in Carnap’s Aufbau vs Antirealism in Goodman’s The Structure of Appearance,” Review of Analytic Philosophy, 1(2021): 1–18など。


稲岡大志(いなおか・ひろゆき)
1977年生まれ。神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。博士(学術)。現在は大阪経済大学経営学部准教授。専門はヨーロッパ初期近代の哲学、数学の哲学、スポーツの哲学・倫理学など。著書に、『ライプニッツの数理哲学――空間・幾何学・実体をめぐって』(昭和堂、2019年)、共著に、『信頼を考える――リヴァイアサンから人工知能まで』(勁草書房、2018年)など。

Vol. 6, No. 2を刊行いたします

最新号『フィルカル Vol. 6 No. 2』が、8月31日(火)にいよいよ発売となります。以下に、最新号の内容をご紹介いたします。(目次はページ最下部)

内容紹介

今号の目玉は、巻頭特集『ここは今から倫理です。』。前号Vol. 6 No. 1に続く特集となる今回は、原作者の雨瀬シオリさんインタビュー「優しい「こそ泥」の倫理」、そして同タイトルのNHKよるドラ制作陣の渡辺哲也さん・尾崎裕和さんインタビュー「ドラマを作ることは哲学することでもある」を、60頁にわたって掲載しています。

「私は知識の泥棒をしているだけ」というやや驚き?のことばでスタートする雨瀬シオリさんインタビュー。青年誌で倫理を描くことになったきっかけからはじまり、「憑依型」としての自身のマンガの描き方やセリフの作り方、あるいは主人公高柳の造形の仕方や、『ここ倫』の今後の展開まで、フィルカルのほかではまず聞くことのできない貴重なお話をたくさんしていただきました。

倫理学書のなかに『ここ倫』に登場する問題を抱えた生徒の原型を何人も見つけたという雨瀬さん。(ときに理論偏重にもなりがちな)「倫理学」が、雨瀬さんが作中で描こうとする、生身の人間の生に根差した「倫理」とどのように手を携えることができるのか(あるいはできないのか)。そもそも哲学や倫理学って何だったっけ?とか、どうあるべきなんだっけ?といったところに立ち戻らせてくれるという意味で、哲学・倫理学研究者の皆さんにもぜひ一読いただきたいインタビューになっています。

つづくNHKよるドラ制作陣へのインタビューでは、演出・制作統括を担当されたお二人に、原作を解体して再構築する苦労や、専門家のドラマへの関わり方(※弊誌編集委員の神戸和佳子さんが高校倫理考証として参加されました)、主人公高柳役の山田裕貴さんをはじめとするキャスティングのポイント、哲学の力とフィクションの力、哲学の役割などについて存分にお話をしていただきました。ドラマスタッフが自身の手掛けた作品についてここまで多くを語ることはなかなかないはずですので、その点でこちらも非常に貴重かつ読み応えのあるロングインタビューになりました。

また特集後半では、『ここ倫』に刺激を受けた倫理学の専門家による充実の文献案内「倫理学」から見たドラマ『ここは今から倫理です。』も掲載しています。全体を通して、原作やドラマファンはもちろんのこと、研究者の皆さんにもぜひ目を通していただきたい、渾身の特集に仕上がっています。

『ここ倫』以外にも、今号ではふたつの特集をご用意しました。
特集「徳と教育」では現代の徳倫理学と徳認識論を踏まえた徳の教育論を、三氏の論文とともにご紹介します(次号Vol. 6 No. 3に続きます)。また前号に続く第二回となる特集「科学的説明論の現在」では、「物語的説明」と「説明的理解」というトピックに焦点を合わせ、それらの議論の発展経緯と現状を追いかける二つの論文を掲載しています(こちらも次号Vol. 6 No. 3に続きます)。

小特集「京大・緊縛シンポジウムを考える」では、2020年10月に開催されたシンポジウム「緊縛ニューウェーブ×アジア人文学」をめぐって、あのとき何が起きていたのか、そして何が問題だったのかを、臨床哲学とセクシュアリティ研究をご専門とするお二人にお話いただきました。哲学研究の在り方について考えるという意味では、『ここ倫』特集にも連なるテーマをもっています。

ほかにも、松林要樹監督インタビュー「戦争の記憶をよびおこす」や、モンロー・ビアズリーによる重要論文「美的観点」の翻訳と訳者解説、最終回となる「悪い言語哲学入門」、「#桜川ひかりに哲学のことをきいてみた」、対談「哲学と自己啓発の対話」、報告「ケンブリッジ滞在記」を掲載。後半には、全四本の哲学書のレビュー記事もそろっています。

『フィルカル』は、Amazon のほか、一部大型書店、一部大学生協でお求めいただけます(お近くの書店でお求めいただけない場合には、philcul[at]myukk.orgまでご連絡いただければ、こちらから発送いたします)

夏休みを過ごされている読者の方も多いと思います、フィルカル『Vol. 6 No. 2』が、皆様の夏のおともとなればうれしいです。

目次

特集シリーズ1『ここは今から倫理です。』第2回
序文(稲岡大志)
優しい「こそ泥」の倫理 雨瀬シオリさんインタビュー
ドラマを作ることは哲学することでもある NHKよるドラ『ここは今から倫理です。』制作陣 演出:渡辺哲也さん・制作統括:尾崎裕和さんインタビュー
倫理学から見たドラマ『ここは今から倫理です。』(杉本俊介)

特集シリーズ2「徳と教育」第2回
「趣旨文:徳の教育論の展望 その可能性と危険性を見定める」(佐藤邦政)
「現代徳倫理学について 理論の概要、日本における始まり、教育という論点」(立花幸司)
「人間形成と人間構築をともに視野に入れる知的徳の保育・教育論 解放的徳と認識的不正義を両輪とする展望」(佐藤邦政)
「徳はコミュニケーションを志向する英語教育の目的たり得るか」(榎本剛士)

特集シリーズ3「科学的説明論の現在」第2回
「序言Ⅱ」(清水雄也・苗村弘太郎・小林佑太)
「物語的説明論の現在 歴史学から歴史科学へ」(苗村弘太郎)
「説明的理解論の現在 把握・知識・理解」(小林佑太)

小特集 京大・緊縛シンポジウムを考える(河原梓水・小西真理子)

シリーズ:ドキュメンタリー映画は思考する
「松林要樹監督インタビュー②:戦争の記憶をよびおこす」(吉川孝)

シリーズ:ポピュラー哲学の現在
対談「哲学と自己啓発の対話」第七回 (玉田龍太朗/企画:稲岡大志)

哲学への入門
悪い言語哲学入門 第4回 (和泉悠)

翻訳
「美的観点」(モンロー・ビアズリー、銭清弘訳)

解説
「モンロー・ビアズリー「美的観点」訳者解説」(銭清弘)

報告
「ケンブリッジ滞在記」(八幡さくら)

レビュー
「池田喬「アメリカ哲学の体現者としてのハイデガー」」(古田徹也)
「映画を「解剖」するという身振り 北村匡平『24フレームの映画学―映像表現を解体する』(晃洋書房、2021 年)書評」(高部遼)
「佐藤陽祐『日常の冒険―ホワイトヘッド、経験の宇宙へ』(春風社、2021 年)」(上田有輝)
「河野哲也『問う方法・考える方法―「探究型の学習」のために』(筑摩書房、2021 年)」(田辺裕子)

コラム
「#桜川ひかりに哲学のことをきいてみた 第3回 勉強会における発表練習」(桜川ひかり)

今後の編集方針について

先日創刊された英文分析哲学ジャーナルReview of Analytic Philosophy誌(以下「RAP誌」と略)がエディトリアルボードにKathleen Stock教授を迎えたことに関して、若手分析哲学研究者を中心にSNSなどで現在多くの方が懸念を表明されています。また、こうした直接的な発信をされていないさらに多くの方々のあいだにも、この懸念が広く共有されていると考えられます。Stock教授は著名な美学研究者ですが、トランスジェンダー当事者への排除的な発言などで知られており、『フィルカル』編集委員でもある三木那由他氏は、RAP誌の体制が、日本の分析哲学研究者のコミュニティ全体が性的マイノリティの方々への差別を許容する一律な傾向をもつというメッセージとして受け取られ、若手の哲学研究者や学生、当事者の方々への不安を広げることになりかねないと危惧の念を表明しておられます。(https://www.facebook.com/nayuta.miki/posts/4189162281141725

このような不安を少しでも和らげるために、この度『フィルカル』も編集部として今後の方針を改めてこの場を借りて確認させていただくことにしました。『フィルカル』はあらゆる差別に反対し、性的マイノリティの方々を含め、マイノリティの方々の生活や権利を脅かす可能性をもった一切の記事を掲載いたしません。また、差別のない社会の実現に向けて、微力ながらも尽力していく所存でございます。

こうした方針は従来通りのものではありますが、『フィルカル』の発行元(株)ミューはRAP誌の発行元でもあることから、『フィルカル』の関係者、執筆にご協力いただいた方々、広告主の皆様、なにより読者の皆様に不安を抱かせてしまう可能性があると考え、今回改めてこの場で弊誌の立場を説明させていただきました。弊誌はみなさまのご支援とご協力でなんとか現在まで発行を続けてこられました。まだまだ未熟な、発展途上の雑誌ではありますが、よりよい誌面作りを目指して努力してまいりますので、今後とも『フィルカル』をよろしくお願いいたします。

『フィルカル』統括編集長 長田 怜
編集長   佐藤 暁