#桜川ひかりに哲学のことをきいてみた(第2回)「哲学書をしっかり理解しながら読み進めるための4ステップ」

こんにちは! 桜川ひかりです。この連載では、哲学を勉強したい方向けのお役立ち情報を発信しています。第2回にあたる今回のテーマは「哲学書の読み方」です。

「哲学書の読み方」と聞いて、「そんなマニュアルがあれば苦労しないよ」と思った方もいらっしゃるかもしれません。もちろん、「これさえ知っていればどんな哲学書もスラスラ読める!」といった万能の方法をご紹介することはできません。それでも、今回お伝えする読み方は、「哲学書を読んでいると何も分からないうちに数ページが過ぎてしまう」といった悩みをおもちの方にとって、少しだけ役に立つかもしれません。

本記事は全部で3つの節からなります。第1節では、哲学書をゆっくり読む際の手順について、私がおすすめだと思う方法を4ステップに分けて解説します。第2節では、第1節でご紹介した方法を当てはめつつ、『純粋理性批判』の一部を実際に読んでみます。第3節ではそれまでの内容をまとめたうえで、哲学書を読む際の一般的注意点について、もう少し広い観点からお話しします。

1 哲学書を理解しながら読むための4ステップ1

この節では、哲学書を読むにあたって私が推奨する手順について解説します。なお、ここでは、数ページを何時間もかけて読むような、ゆっくりとした読み方が想定されています。今までそんなに時間をかけて本を読んだことがないという方も、以下の手順をしっかりと踏んでいけば、おのずと時間のかかる読み方になると思います。

今回は哲学書を読む手順を以下の4ステップに分けます。(1)1段落読み、文章の文法的な構造をおさえる。(2)段落内のそれぞれの文を自分が理解できる言葉で言い換える。(3)段落内のそれぞれの文が議論において互いにどのような関係にあるのかを考察する。(4)次の段落に進み、(1)から(3)の手順を繰り返した後、今の段落と前の段落は論述上どのように繋がっているのかを考察する。

これからそれぞれのステップを順に見てゆきますが、その前に段落について少し説明が必要ですね。この記事では、段落を哲学書を読む際の基本単位とします。その理由は、よく書かれた論述的な文章においては、段落は基準なく区切られているわけではなく、議論上のまとまりに対応するように区切られているからです。

少し抽象的に述べると、たとえばCという結論を出したい議論があったとして、Cを示すためにまずAを示し、次いでBを示し、最後にAとBからCが帰結することを示す、という戦略がとられているとします。この場合、Aを示すための議論は最初の段落に、Bを示すための議論は次の段落にまとめられ、AとBからCを結論するための議論が3番目の段落でなされる、といった文章構成を採用することは理に適っています。このように、段落は大きな議論の脈絡においてそれぞれの役割をもっており(上述の第1段落であれば、Cという結論を示すための補助的な主張Aを示すこと、など)、その役割に応じて段落内でなされるべきことが決まり、段落を構成する各文はその目的に寄与することが期待されます2

こうした仕方で、段落は議論という建物を造る際のブロックのような役割を果たしているため、哲学書をゆっくり読む際には、1段落ごとに立ち止まって内容を振り返るというのはよいやり方です。したがって、以下では1段落読む→内容を咀嚼する→次の段落に進むといったサイクルを前提します。

1.1 文章の文法的な構造をおさえる

それでは哲学書の1段落を読む際の最初のステップに移りましょう。まず大事なのは、今読んでいる文章の文法的な構造をおさえるということです。これは外国語の文献を読むときにはよく意識されることですが、日本語の文章を読む際にも重要なことです3。複雑な構文になると、普段話している言語でもちょっと考えないと分からなくなるようなことはしばしばあるので、主述の対応や、修飾節の範囲はどこまでで、その節はどの語にかかっているのかなど、しっかり確認しながら読むようにしましょう。

また、「それ」などの指示表現が出てきたときに、それがどの語を参照しているのかを確認するのも大事です。性・数など、代名詞が何の名詞を受けているかに関する情報の多い言語では、代名詞の参照先がかっちり決まることも多いですが、内容を考えないと決まらないときもあります。そういう場合は、文法的に許容される可能性を絞っておいて、「あとは内容の検討で考えよう」とするとよいでしょう。

1.2 段落内のそれぞれの文を自分が理解できる言葉で言い換える

文法レベルでの確認が終わったら、今度は内容の確認です。難解な古典などだと、段落を一読しただけでは何を言っているのかさっぱり分からないといったことも珍しくありません。そういうときにおすすめできるのが、パラフレーズという手法です。

パラフレーズということで私が考えているのは、ある文について、「つまりこういうことだよね」と、別の表現で言い換えることです。哲学書の内容理解に関してとりわけ大事なのは、この「別の表現」として、自分にも分かるような言葉のみを用いるよう努めることです。「自分にも分かるような言葉」というのも曖昧な言い方ですが、たとえば、意味を訊かれてはっきりと説明できないような言葉(とりわけ哲学用語)はなるべく使わないといった基準を設けるとよいでしょう。

こうしたパラフレーズを1文ずつという単位で行っていくことで、段落の内容をある程度咀嚼することができます。ここで「1文ずつ」というのは2つの意味で重要です。まず、段落が議論にとっての単位をなしていたように、段落内では文が論述上の単位をなすことが多いです。さらに、「1文ずつ」というペースを忘れると、自分が段落のどの部分を言い換えているか分からなくなったり、理解できなかったり自分の理解にとって都合の悪かったりする部分をつい読み飛ばしてしまったりします。文単位でのパラフレーズを心がけることで、論述の流れに沿った形で、かつ、段落で言われていることを網羅的におさえることができるようになります。

また、完全なパラフレーズが難しい場合には、具体例を挙げるという方法も有効です。たとえば「偶数同士の和は偶数になる」という文に対して、「たとえば、2と4はどちらも偶数で、足し合わせると6で、たしかに偶数だね」といったように、具体的なケースを考えてみるといった具合です。適切な具体例を挙げられるかどうかは自分がその文をきちんと理解できているかの試金石にもなりますし、具体的なケースに基づいて考えていくことで理解しやすくなることも多いです。ただし、例はあくまで例なので、自分で出した例に引きずられないよう注意することも大事です。たとえば、もとの文で言われていないことまでその例のディティールから読み取ってしまうといった危険は常にあります。

1.3 段落内のそれぞれの文が互いにどのような関係にあるのかを考察する

さて、段落内のそれぞれの文のパラフレーズが終わったとします。これが理想的に行われれば、段落内のすべての文を自分にも理解できる表現に置き換えたことになるので、段落の理解としてはこれで十分かと思われるかもしれません。しかし、そうではありません。たとえば、以下のような文章を考えてみましょう。

りんごは赤い。2たす3は5だ。私は今日気分がいい。

それぞれの文の意味は分かると思います。しかし、文章全体としては意味が分かりませんよね。それは、この文章には脈絡が欠けているからです。なぜ「りんごは赤い」と述べた後に「2たす3は5だ」と言うのか? 「私は今日気分がいい」とあるが、このことと前ふたつの文で述べられていることには何か関係があるのか?こうしたことが分からないため、個々の文は平易でも、全体としては奇妙な文章になってしまっています。

よく書かれた哲学書に関しては、このような脈絡の無さは無いと仮定してよいでしょう。この場合、「それぞれの文が言っていることは分かるが、なぜこの文の後にこの文が置かれているのか?」といった疑問が出てくる場合、その段落についてまだ理解すべきことがあると考えられます。このように、段落内での文同士の関係を考えるというのが次のステップです。

では、文同士の関係を考えるために何を手掛かりとすればよいのでしょうか。上では完全に脈絡の無い文章を例として出しましたが、実際には文同士の脈絡は接続詞などによって明示されていることが多いです。「Aである。したがってBである」とあれば、ふたつの文が根拠–帰結の関係にあると分かります。もうひとつ例を出すと、「Aである。たとえば、Bである」とあれば、後の文が前の文の具体例になっていることが分かる、などですね。

こうした手掛かりがあるので、接続詞などに注意して読めばそれで事足りると思われるかもしれません。しかし、実際にはこうした分かりやすい印がない文もあります。さらに、たとえばふたつの文が「それゆえ」で繋がれていることから、それらが根拠–帰結の関係にあることが分かったとして、なぜ「それゆえ」と言えるのかが一読して判然としないこともあります。したがって、それぞれの文がどのように結びつけられているのかを自分で考え、また、なぜそのように結びつけることができるのか、内容的に考えることも必要になります。

こうした考察が終わって、段落のそれぞれの文の意味を把握し、かつ、文同士の結びつきがどうなっているのかも明確にできれば、その段落を咀嚼する作業はひと区切りついたといえます。もちろん、段落の議論に対して批判的な検討を行うなど、哲学的に重要なステップはまだまだありますが、「とりあえず読んでみる」という段階であれば、これくらいのことができていれば次の段落に進んでよいでしょう。

1.4 段落同士の関係を考察する

こうしてひとつの段落が読み終わり、次の段落も同じ要領で読み終わったとします。じゃあさらに次の段落に……、と進む前に少し待ってください。上では段落内部での各文の結びつきに関する考察について述べましたが、同様のことは、段落同士の結びつきについても行う必要があります。

本記事第1節の冒頭で、段落は論述における基本単位をなしていると述べたことを思い出してください。よく書かれた哲学の文章では、段落のひとつひとつが議論におけるそれぞれのステップに対応しています。したがって、それぞれの段落は、自らの前後の段落との繋がりにおいて、独自の役割をもっています。こうした段落の役割について考察することで、精読した短い文章を長い議論の脈絡に位置づけることができます。

段落同士の繋がりを考えるためにやるべきことは、段落内の文同士の繋がりを考えた際にやったことと基本的には同じです。一段落読んだら前の段落を簡単に振り返って、今の段落はたとえば前の段落で主張されたことからの帰結を述べているとか、前の段落とは独立に、今後の議論のために示しておきたいことを述べているとか、そうした考察をしてゆきます。また、直前直後の段落だけでなく、数段落読んで、ここからここまでが議論のまとまりになっているなと感じたら、その範囲におけるそれぞれの段落の役割を再び考えてみることも有益です。このように、定期的に議論の大まかな流れを振り返って、それぞれの段落をその流れの中に位置づけることは、「木を見て森を見ず」を避けるために重要なことです。

2 『純粋理性批判』を数段落読んでみる

これまで、哲学書を理解しながら読み進めるための手順を解説してきましたが、実際にどんなことをすればよいのか、例がなかったので分かりづらい部分もあったかと思います。そこで、本節ではカントの『純粋理性批判』から数段落を引用して、第1節で述べたやり方に従って実際に読んでみようと思います。

テクストは第2版「序論」、「Ⅰ. 純粋な認識と経験的な認識の区別について」と題された部分の冒頭3段落です(p. 391)。普段の翻訳においては長い文は読みやすさを優先して適宜複数の文に分けることも多いですが、今回は段落内における文という単位を意識するために、あえて訳文における1文が原文における1文に対応するよう訳してあります。その結果、かなり分かりづらい文も出てきてしまっていますが、読み慣れた言語の文でも(ここでは日本語を想定しています)あたらめてしっかりと構文をとる訓練だと考えていただければと思います。

2.1 第1段落:ステップ1
―構文をとり、代名詞などの指示を確定する

まずは第1段落です。この段落はふたつの文からなります。とくに1文目が長いですね。落ち着いて、前述の1ステップ目、日本語の構文をとり、代名詞などの指示をはっきりさせることから始めましょう。

①の文から考えてゆきます。まず気づくこととして、この文はダッシュ(「―」)の前後で大きく分かれているようです。このダッシュは原文のゼミコロン(„;“)に対応し、文同士の区切りに次ぐ大きな区切りを表します。というわけで、まずはダッシュの前までを見てみます。ここまでは、それほど構文は複雑ではありませんね。「このこと」が直前の「私たちのあらゆる認識が経験とともに始まること」を指していることにだけ注意してください。次にダッシュの後です。ここはかなり複雑な構造をしているので注意して見てゆきましょう。以下、箇条書きでポイントを指摘します。

・ 「私たちの感官を」から「対象の認識へと加工させるような」までが丸々「そうした対象」にかかっていることをまずは確認します。
– つまり、「私たちの感官を刺激」するのも、「一方でおのずから諸表象を生じさせ、一方で私たちの悟性活動をはたらかせて[…]感性的印象という生の素材を[…]対象の認識へと加工させる」のも、「そうした対象」が行うということです。
・ 「私たちの悟性活動をはたらかせて」以下の部分も注意してください。
– ここは「~させる」という使役の表現が用いられているので、「そうした諸表象を比較し、それらを結びつけ、あるいは分離」し、「感性的印象という生の素材を、経験と呼ばれる、対象の認識へと加工」するのは「悟性活動」です。
・ さらに、指示表現にも注目しましょう。
– 「悟性活動をはたらかせて、そうした諸表象を」とありますが、この「そうした諸表象」は直前の「一方でおのずから諸表象を生じさせ」における「諸表象」を指します。
– また、「そうした諸表象を比較し、それらを結びつけ」における「それら」が「そうした諸表象」を指すことは分かると思います。
・ ダッシュの後半は「修辞疑問文」や「反語」と呼ばれるものです。
– つまり、「認識能力」を呼び起こして行使に至らせるのは「そうした対象」をおいてほかないということが述べられています。

②の文に関してはそれほど難しいところはないでしょう。「この経験」が直前の「私たちのうちのいかなる認識も経験には先行せず」における「経験」を参照していることにだけ注意してください。

2.2 第1段落:ステップ2
―各文をパラフレーズする

日本語に関する確認が終わったら、次は各文のパラフレーズです。耳慣れない言葉が並んでいると思うので、細かく確認してゆきましょう。

①の文についてはいきなり「私たちのあらゆる認識が経験とともに始まる」と言われていますが、いまいちよく意味が分からないと思います。「認識」や「経験」は日常的に使わなくもない言葉ですが、日常的な文脈で考えてみてもあまりしっくりきませんね。ここは天下り式に言い換えてしまいます。

「認識」とは、あるものについて、「これはしかじかのあり方をしている」と判断することです。たとえば目の前にあるリンゴを見て、「このリンゴは丸い」と判断することが認識の例として挙げられます。

「経験」とは、知覚4に基づいた認識のことです。上の例では、「このリンゴは丸い」という判断はそのリンゴを目で見るということに基づいていますね。このように、目で見たり耳で聞いたりして判断を行うということが経験です。

こうした仕方で「認識」や「経験」という語を理解するならば、「私たちのあらゆる認識が経験とともに始まる」とは、「物事に関して判断する際に私たちは、目で見たり、耳で聞いたりして、何らかの知覚を頼りにすることから常に始めるのだ」、と言い換えられると思います。そして、「このことには決して疑いの余地はない」とあることから、カントはこうしたことを当然のこととして認めていることが窺えます。

次に、①の文の後半、ダッシュの後について見てゆきます。2.1節で指摘したように、この部分は修辞疑問文になっており、大まかに言って「対象のみがかくかくの仕方で認識能力を作動させる」と述べられていることがまずは分かります。ここで対象は認識の対象、先の例で言えばリンゴなどを念頭に置けばよいでしょう。「認識能力」は、対象について判断するのに関わる能力を全般的に指します(リンゴを見る力や、リンゴについて「丸いな」と考える力など)。さて、この「かくかくの仕方で」の部分が問題ですね。順に埋めてゆきましょう。

まず、対象は「私たちの感官を刺激し、一方でおのずから諸表象を生じさせ」るとあります。また分からない言葉が出てきましたね。「感官」はさしあたり感覚器官を通じて情報を受け取る能力と考えればよいでしょう。たとえば、私たちは視覚や聴覚を通じて周囲から様々な情報を受け取ることができます。こうした能力が「感官」という言葉で表現されています。次に「表象」です。これはさしあたり、心の中で生じるイメージのようなものと捉えてよいです。ただし、「イメージ」というと想像のようなものを思い浮かべがちですが、リンゴを見ているときに生じる視覚像など、実際の知覚も「表象」に数え入れられ、この文脈ではむしろそちらが念頭に置かれていることに注意してください5。つまり、ここでは「認識対象が私たちの感覚器官を刺激し、心の中で知覚などのイメージを生じさせる」といったことが言われています。リンゴから発した光が目に入って、リンゴの視覚イメージが私たちの内に生じる、といったことを念頭に置けばさしあたりは大丈夫です6

次に対象は「一方で私たちの悟性活動をはたらかせて、そうした諸表象を比較し、それらを結びつけ、あるいは分離させ」るとあります。ここで分からないのは「悟性活動」ですね。とりわけ「悟性」の部分がなじみがないと思いますが、これは考え、判断する能力を指します。先ほど、認識とは、あるものについてそれがどのようなあり方をしているか判断することだと述べました。とりわけ、知覚に基づく認識においては、まず知覚を通じて認識の対象が固定されて(たとえばリンゴを見て、そのリンゴについて考える準備をする)、次に「このリンゴはこういうあり方をしているな」と判断する段階に入ります。ここで「このリンゴは丸い」と考える力が悟性です。

では悟性はどうやって判断を下すのかというと、「そうした諸表象を比較し、それらを結びつけ、あるいは分離させ」ると述べられています。2.1節で確認したように、「そうした諸表象」は、対象が感官を刺激して生じた諸表象を指します。では表象同士を比較したり、結びつけたり、分離したりするとはどういうことでしょうか。たとえば、「いくつかのリンゴは丸い」という判断を考えます。この判断にはリンゴと丸さの概念が登場します。リンゴの概念は、たとえば様々なフルーツを見て、その中でリンゴだけがもっている特徴を抜き出すことによって作られたと考えられます。ここでフルーツの視覚イメージまたはそれに基づく記憶は、互いに比較されたり(リンゴとミカンを見比べて色が違うと思うなど)、結びつけられてグルーピングされたり(リンゴであるようなフルーツだけをひとまとめにして考えるなど)、共通の特徴がそこから分離されて抜き出されたりします(リンゴであるようなフルーツが共通してもっているような赤さなどの特徴が抜き出されるなど)。丸さの概念についても同様です。また、「いくつかのリンゴは丸い」という判断においては、このようにして得られたリンゴと丸さの概念が一定の仕方で結びつけられているとも考えられます。これも表象同士の結合といえそうです。

さて、悟性の活動は上のような工程を経て、「感性的印象という生の素材を、経験と呼ばれる、対象の認識へと加工」するとあります。ここでは「感性的印象」という言葉が難しいですね。「感性的」とは、対象から刺激されて受動的な仕方でその対象に関わる能力に関する物事につけられる形容詞です。「このリンゴは丸い」という判断においては、リンゴを見るステップと、そのリンゴについて考えるステップがあると述べましたが、ここでは前者の見るステップに関わるような物事が「感性的」です。「印象」とは感官を通じて受け取られるようなバラバラのデータを指します。さしあたり、リンゴの赤さなどを思い浮かべるとよいでしょう。こうした印象はさらに「生の素材」と言われています。「素材」という言葉はその後の「加工」という言葉に対応していそうですね。つまり、感官を通じて赤さなどの印象を受け取るだけではまだ認識とはいえず、悟性が表象の比較・結合・分離を通じて判断を作り上げることで、初めて対象についての認識が成立するということです。

長くなりましたが、これまで述べたことを踏まえたうえで①の文を言い換えるなら、「私たちが対象について判断する際には、知覚に基づくところから始めるしかない。というのは、対象が感覚器官を刺激して私たちの心の内に知覚といったイメージを生じさせ、さらに思考能力を導いて、そのイメージを加工することによって判断を下させるという以外の仕方では、私たちの認識能力は作動しないからだ」などとなります。最初に読んだときよりは、何が述べられているのか、だいぶ把握しやすくなったのではないでしょうか。

②の文は手短に済ませましょう。まず後半の「この経験ともにすべての認識は始まる」は①の冒頭で述べられていたことの繰り返しです。検討すべきは「時間ということからみれば、私たちのうちのいかなる認識も経験には先行せず」という部分です。認識が経験に先行しないというのは、①で述べられたことの言い換えととれます。つまり、まず知覚を通じて対象に関わるというのが、あらゆる認識において最初の段階をなすということです。ただし、「時間ということからみれば・・・・・・・・・・・・」という但し書きがあり、それが傍点(原文では隔字体)によって強調されていることに注意してください。つまり、先に「最初の段階」と述べましたが、この「最初」は時間的な意味における順序を表しているということです。さらに言えば、あえてこのような強調がなされるということは、「時間的な意味以外における順序があり、その順序においては知覚の段階があらゆる認識に先行するわけではない」と今後の論述において続きそうだ、と予想ができます。というわけで、この文を言い換えると、「私たちのあらゆる認識において知覚の段階が最初に来るが、この「最初に」というのはあくまで時間的な意味における順序を表している」となります(ここで「認識」は先の説明によって理解可能になったと仮定します)。

2.3 第1段落:ステップ3
―段落内の文同士の繋がりを考える

ここまでで、段落を構成するふたつの文が何を述べているかについては、最初に読んだ時よりも明瞭になったと思います。次に、これらの文同士の繋がりについて考えましょう。

今回は②の冒頭に「それゆえ」とあるので、文同士の関係を特定するのは比較的簡単です。つまり、①の文で述べられていることを根拠として、②の文はそこからの帰結を述べていると考えられます。では、これらの文はどのような意味で根拠–帰結の関係にあるといえるのでしょうか。

①の文の、とりわけダッシュの後における主張は、「私たちの感官を刺激し、次いで悟性をはたらかせるような対象によってでなければ、私たちの認識能力は作動しない」というものでした。②の文の主張は「私たちのいかなる認識も時間的には経験に先行しない」です。ここで「経験」が知覚に基づく認識を指す語だったことを思い出すと、対象が感官を刺激することがあらゆる認識における最初のステップであると①において述べられていることが重要そうだと分かります。つまり、対象が感官を刺激するというのがあらゆる認識において時間的には最初の位置を占めると①で述べられており、この「対象が感官を刺激する」という段階が知覚の段階に相当するので、②では経験、つまり知覚に基づく認識が時間的にはあらゆる認識に先行すると述べることができる、といった関係になっています。

2.4 ステップ4
―段落同士の繋がりを考える

これで第1段落を理解するための作業はひと通り完了しました。次いで、第2、第3段落を読み、それらの段落同士の関係を考える作業に移ります。第2段落以降についても2.1節から2.3節までで行ってきたのと同様の手順を踏むべきですが、ここでは紙幅の都合で私が手短にそれぞれの段落を要約してしまいます。

第1段落では、時間的にはあらゆる認識に経験が先行すると述べられましたが、第2段落では、時間的でない意味においては必ずしもそうとは言えないと述べられています(これらふたつの意味における先行性が「経験とともに」と「経験から」という言葉で対比されています)。ではなぜそういえるのかというと、認識を構成する要素の中には、私たちが知覚を通じて受動的に受け取るもの以外にも、私たち自らがそこに付け加えるものがあるかもしれないからだと述べられています。もう少し踏み込んで言うなら、そうした私たちの側が付け加える要素がなければ経験も成立しないという意味で、それらの要素は―時間的な意味においてではないにせよ―経験に先行するかもしれないじゃないか、と述べられていると考えられます7

第3段落は比較的分かりやすいので、これまでに出てきた言葉を理解していればそれほど言い換える必要はないと思います。「経験や感官のあらゆる印象から独立した認識はあるのか」という問いが立てられ、この問いはすぐに答えが出るような簡単なものではないと述べられています。さらに、ここで「経験から独立し、感官のあらゆる印象からさえも独立した、そうした認識」を形容する専門用語として「ア・プリオリ」という言葉が導入され、これとの対比において、知覚に基づく認識には「経験的」という表現が与えられます(「ア・ポステリオリ」は「ア・プリオリ」の対義語です)。

さて、ここまでで3つの段落を順に見てきましたが、これらの段落は互いにどのように結びついているでしょうか。これに関しても今回のケースは分かりやすくなっています。まず第2段落の冒頭に「しかし」とあります。つまり、第2段落の主張は、第1段落で確認されたことと対比されていると考えられます。さらに内容を振り返ると、第1段落では「時間的には、あらゆる認識に経験が先行する」と述べられていたのに対し、第2段落では「だからといって、時間的でない意味においても、あらゆる認識に経験が先行するとは限らない」と述べられていたので、ふたつの段落は、第1段落が譲歩で、第2段落ではそれとの対比において主張したいことが述べられている、という関係にあることが分かります。

第3段落の冒頭にも「それゆえ」という印があるので、前段落との関係が分かりやすくなっています。すなわち、第2段落と第3段落は根拠–帰結の関係にあります。ではなぜこの関係が成り立つのでしょうか。第3段落の主張は「経験から独立した認識は存在するか」という問いはただちに答えられるようなものではない、というものでした。つまり、この問いに「イエス」とも「ノー」ともすぐには答えられないということです。ここではとりわけ、ただちに「ノー」と言えないということに重点が置かれていると考えてよいでしょう。というのは、第2段落はそのような認識が存在するかもしれないと考えるための理由を述べているからです。第1段落では、時間的にはあらゆる認識に経験が先行すると述べられ、それゆえ、経験から独立した認識などないとただちに答えられると思われるかもしれない。しかし、第2段落で述べられているように、時間的でない意味においては、あらゆる認識に経験が先行するわけではないと述べる余地がある。したがって、この問いにただちに「ノー」と答えることはできず、そのような認識の可能性についてはより詳細な研究が必要だということになる。このような繋がりがあると考えられます。また、とはいえ時間的には経験に先行する認識などないのだから、経験から独立した認識というものがどんなものであるかはちょっと考えただけでは分からないという意味で、第1段落はこの問いにただちに「イエス」と答えられないということの根拠になっているともいえるかもしれません。

3 本記事で紹介した方法のまとめとその限界

『純粋理性批判』の読解という実例を通して以前よりもイメージが明瞭になったところで、あらためて本記事で紹介した哲学書の読解手順について振り返ってみましょう。まずはひとつの段落について、日本語やドイツ語のレベルでどう読むのか―主述の対応はどうなっているか、修飾節の範囲はどこまでか、指示表現はそれぞれ何を受けているかなど―を確認します。それが済んだら、今度は段落を構成する各文について、それが何を言っているのか、なるべく自分にも理解できる言葉で言い換えてゆきます。各文の意味がとれたら、今度はそれぞれの文が論述においてどのような繋がりにあるのか―たとえば根拠–帰結の関係にあるなど―を考えます。このようにして1段落が読み終わったら、次の段落に進んで同じ手順を繰り返し、さらに、段落同士が議論においてどのような関係にあるのかを考察します。この一連の手順を踏むことで、哲学書の議論をステップバイステップでかみ砕くことができ、さらに議論の大きな流れも把握しやすくなります。

ただし、これまで述べた方法には限界もあります。とりわけ、各文のパラフレーズがどこまでうまくできるかについては、読者の知識や読者がそれまでに受けてきた訓練に依存するところが大きいです。たとえば今回私は「認識」「経験」「感官」「悟性」といった用語について天下り式に解説してきましたが、これはカントやその時代の哲学に関する事前知識がなければできません。また、議論の脈絡を追うにあたって、第2節で私が示した読みは極端に的外れなものではないと信じますが、そうした読みができているとすれば、それは『純粋理性批判』という本全体が何を目指しているのかとか、当時の哲学の議論の文脈はどのようなものだったのかとか、そうしたことについてある程度知識をもっているからというのが大きいです。こうした知識などにガイドされない場合、適切なパラフレーズができなかったり、的外れな仕方で議論を解釈してしまったりする危険があります。

このようなことを避けるには、一言で言えば勉強するしかありません。こうした勉強のためには、ひとつには概説書が有用です。哲学書の原典を読むのに合わせて、自分が読みたい箇所を専門家が解説している本を探し、分からないところがあればその解説を頼りに読み進めてゆきましょう。

また、この連載の第1回でご紹介した、読書会で哲学書を読むという方法もおすすめできます。とりわけ、その哲学書に詳しい人と一緒に読むというのは大きな助けになるでしょう。また、今回の記事で解説した読書方法は、実は読書会における基本的な手順としてもそのまま推奨できるものです。ひとりで読んで分からない本は、仲間を探して一緒に読むことを強くおすすめします。

したがって、この記事を読んでただちに哲学書が以前よりも読めるようになった、ということにはなりませんが、こうした実践を繰り返すことで、「何を言っているのか全然分からないまま数ページが過ぎてしまった」といったことは徐々に減ってくると思います。今回ご紹介したように、段階を踏んでゆっくりと読んでいくことは哲学書を読む際にとても大事なことなので、是非試してみてください! それではまた次回の記事でお会いしましょう。ばいばーい。


桜川ひかり

哲学を研究しているバーチャルYouTuber(VTuber)。2020年5月から動画配信サイトYouTubeにて活動中。初期はゲーム実況や雑談配信を行っていたが、最近は哲学を学ぶ上でのワンポイントアドバイス動画を主にアップしている。専門はカント哲学。


  1. この節の内容は私が以前にアップロードした「哲学書をしっかり理解しながら読み進めるための3ステップ」(https://youtu.be/0NbVfd6XWl0)という動画の内容に基づき、それを拡充したものです。
  2. この説明が抽象的で分かりにくかったという方は、第2節で具体例を見るとイメージがつかめるかもしれません。
  3. 日本語で書かれている本記事は日本語話者の読者を想定していますが、この「日本語」は適宜読み換えていただいて構いません。
  4. ここで「知覚」はB218の意味で用いています。
  5. このほかにも、カントの「表象」は概念など様々なものを含みます。
  6. この段落で何度も「さしあたり」と述べているのは、厳密な解説ではないことを断るためです。たとえば、知覚が生じるプロセスについてこのような説をカントに帰属できるかは議論の余地があると思います。
  7. この後に、こうした私たちの側が付け加える要素に気づくには一定の訓練が必要だと述べられていますが、この点についてはここでは割愛します。