小山虎『知られざるコンピューターの思想史 アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ』(PLANETS、2022年)研究会イベント

「分析哲学と文化をつなぐ」フィルカルより、研究会イベントのご案内です。「「哲学は人生の必修科目か? ―『ここは今から倫理です。』から考える―」」以来約1年ぶりとなるオンラインイベントを下記の要項で開催いたします。

イベント概要

  • 日時:2022年11月19日(土)20:00~22:30
  • 場所:Zoomを利用したオンライン開催
  • お申し込み方法 :こちらのGoogle フォームよりお申込みください。
  • 参加費:無料
  • 内容:登壇者による発表と、発表を踏まえた小山氏とのディスカッション
  • ご質問の受付:当日はこちらのGoogle フォームから皆様の質問を受け付けます。

イベント趣旨

小山虎『知られざるコンピューターの思想史 アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ』(PLANETS、2022年)は、ヨーロッパ哲学史、アメリカ哲学史、コンピューターの歴史といった広い範囲の内容をカバーし、それらの知られざるつながりを丹念に解き明かす点が、ひとつの魅力となっています。研究会では、それぞれの分野に詳しい識者をお呼びし、同書で描かれた歴史の裏側にあるさらなる「知られざる歴史」を発表いただくことによって、同書で惹起される読者の関心をさらに刺激したいと考えています。

本イベントの模様は、2023年4月刊行予定の『フィルカルVol. 8 No. 1』にて特集記事として掲載の予定です。

なお12月中旬に刊行を予定しております 『フィルカル Vol. 7 No. 3』でも、著者の小山虎先生へのインタビューのほか、村上祐子先生(立教大学)による同書の書評を掲載する予定になっております。

タイムスケジュール

20:00-20:05 挨拶(司会:酒井泰斗、フィルカル編集長:長田怜)
第一部 ヨーロッパ編
20:05-20:25 発表①中井杏奈
第二部 アメリカ編
20:25-20:45 発表②入江哲朗
20:45-21:00 休憩 
第三部 コンピューター編
21:00-21:20 発表③前山和喜
21:20-21:40 発表④高田敦史
21:40-21:50 コメント 野坂しおり
21:50-22:15 質疑応答(各発表にたいする小山虎からの応答含む)

登壇者プロフィール

小山虎(こやまとら)
山口大学時間学研究所准教授。大阪大学大学院人間科学研究科博士課程を修了後、日本学術振興会特別研究員PD(慶應義塾大学文学部)、米国ラトガース大学哲学科客員研究員、大阪大学大学院基礎工学研究科特任助教などを経て現職。専門は分析形而上学、ロボット哲学。編著に『信頼を考える:リヴァイアサンから人工知能まで』(勁草書房, 2018年)、訳書にデイヴィッド・ルイス『世界の複数性について』(共訳, 名古屋大学出版会, 2016年)など。

<発表者>

中井杏奈(なかいあんな)
1985年生まれ。専門は中東欧現代史、思想史。中央ヨーロッパ大学 歴史学部(ウィーン/ブダペスト)後期博士課程 (単位取得満期退学)。東京外国語大学「公共圏の歴史」プログラム・非常勤講師および同大学海外事情研究所研究員等。近著: 「ウクライナの隣人としてのポーランド–戦後ポーランド知識人の思想と行動から辿る二国間関係」『現代思想』2022年5月臨時増刊特集号掲載(青土社)Voicing Memories, Resurfacing Identity: Cases of the Twenty-First Century Literature from Eastern and East-Central Europe)With Aleksandra Konarzewska(Vernon Press, Forthcoming)

入江哲朗(いりえてつろう)
1988年生まれ。日本学術振興会特別研究員(PD)。アメリカ思想史を研究するかたわら、映画批評も執筆。著書に『火星の旅人——パーシヴァル・ローエルと世紀転換期アメリカ思想史』(青土社、2020年、表象文化論学会賞奨励賞受賞)など。訳書にジェニファー・ラトナー゠ローゼンハーゲン『アメリカを作った思想——五〇〇年の歴史』(ちくま学芸文庫、2021年)など。

前山和喜(まえやまかずき)
1994年生まれ。専門は日本計算史。「計算」や「デジタル」の言葉の多義性を切り口にして日本の歴史を研究。工学院大学、関西大学大学院、日本科学未来館科学コミュニケーター職を経て、現在は総合研究大学院大学文化科学研究科日本歴史研究専攻(国立歴史民俗博物館で博士後期課程)、工学院大学情報学部非常勤講師・客員研究員、国立情報学研究所リサーチアシスタント。

高田敦史(たかだあつし)
1982年生まれ。専門は、美学、特にフィクションの哲学。論文に「スキャンロンの価値の反目的論」(『Contemporary and Applied Philosophy』13号、2022年)など。訳書にノエル・キャロル『ホラーの哲学——フィクションと感情をめぐるパラドックス』(フィルムアート、2022年)。

<コメンテーター>

野坂しおり(のさかしおり)
フランス社会科学高等研究院(EHESS)博士課程 医療・科学・健康・精神保健・社会問題研究センター(CERMES3)所属。パリ・シテ大学非常勤講師。研究分野は科学史・医学史。日欧における近代細菌学と感染症対策の変容を専門とする。訳書にクリストフ・ボヌイユ、ジャン=バティスト・フレソズ『人新世とは何か―“地球と人類の時代”の思想史』(青土社、2018年)。

<司会>

酒井泰斗(さかいたいと)
会社員。ルーマン・フォーラム管理人(socio-logic.jp)。関心領域は道徳科学の歴史、社会科学方法論争史、20世紀中葉の合衆国における行動科学の盛衰。共著に『ワードマップ エスノメソドロジー』(新曜社、2007年)、『概念分析の社会学』(ナカニシヤ出版、2009年)、『信頼を考える』(勁草書房、2018年)、『在野研究ビギナーズ』(明石書店、2019年)など。

発表者要旨を公開しました(2022/11/14追記)

Vol. 7, No. 2を刊行いたします

分析哲学と文化をつなぐフィルカル、最新号『フィルカル Vol. 7 No. 2』が、8月31日(水)に発売となります。以下に、最新号の内容をご紹介いたします。(目次はページ最下部)

書影

内容紹介

今号の巻頭を飾るのは、特集1「遺跡と廃墟の美学」。遺跡・廃墟はどうして私たちの心を惹きつけるのか。そもそも、それはどんな対象なのか。なぜ遺跡を解体してはならないのか。廃墟は保全されるべきなのか。気鋭の哲学・美学研究者が独自の観点から分析します。

特集2「この論文がすごい」では、哲学・倫理学・美学といった多分野の研究者8名が、国内外の「推し」論文13本を熱く紹介します。「書」評ならぬ「論文」評という新しいチャレンジです。話題の論文のポイントや最新の研究情勢、それから評者の関心に至るまで、普段なかなか聞けない話題をお楽しみください。

今号からスタートするシリーズ「分析哲学と哲学史研究」ではニーチェをフィーチャー。分析哲学者とニーチェ研究者は、いまニーチェをどう読んでいるのか。分析哲学の大家・飯田隆氏をはじめ4名の研究者が、今日なお刺激的なニーチェの思想を読み解きます。

哲学への入門記事として、独創的な道徳思想で知られるバーナード・ウィリアムズの哲学の詳しい紹介や、「猥褻」と呼ばれる表現の悪さを考察する「性表現の哲学入門」を掲載。そのほか、VTuberネルソン・グッドマン徳倫理学などに関する査読論文を収録。また、高校教員・文筆家である和辻龍による報告記事「 これが高校生の本音?! 振り返ればそこに哲学がある 」や、コラム「#桜川ひかりに哲学のことをきいてみた」、 次田瞬『人間本性を哲学する―生得主義と経験主義の論争史』 についての書評記事など、多種多様な記事がそろっています。

『フィルカル』は、Amazonや一部大型書店、一部大学生協でお求めいただけます。

目次

特集1 遺跡と廃墟の美学
序文(萬屋博喜)
「被爆建築の美学 旧広島陸軍被服支廠を中心に」(萬屋博喜)
「廃墟の保存は廃墟を壊す」(松永伸司)
「みえかくれする人影 廃墟と意図の美学」(難波優輝)

特集2 この論文がすごい
序文(古田徹也)

特集シリーズ 分析哲学と哲学史研究
趣意文(大戸雄真)
「分析哲学とニーチェ」(飯田 隆)
「ニーチェ哲学の「分析系」解釈について」(竹内綱史)
「ひとはいかにして本来のおのれを語りうるのか 分析哲学的ニーチェ解釈と歴史的観点との接続」(梅田孝太)
「「歴史」の問題 ニーチェ『人間的、あまりに人間的』における形而上学批判」(谷山弘太)

哲学への入門
「バーナード・ウィリアムズ入門 第1回」(渡辺一樹)
「性表現の哲学入門 第2回」(八重樫 徹)

論文
「「バーチャルYouTuber」とは誰を指し示すのか?」(山野弘樹)
「グッドマンの芸術理論にかんする一考察 なぜグッドマンは芸術を論じたか」(豊泉俊大)
「道徳教育論としての新アリストテレス主義的徳倫理学の可能性 ハーストハウスの「有徳な行為者」と徳の正当化に焦点を当てて」(中西亮太・羽根田秀実)

シリーズ ポピュラー哲学の現在
対談「哲学と自己啓発の対話」第十回(玉田龍太朗/企画:稲岡大志)

報告
「これが高校生の本音?! 振り返ればそこに哲学がある」(和辻 龍)

レビュー
「次田瞬『人間本性を哲学する―生得主義と経験主義の論争史』(青土社、2021 年)書評』」(小林大晃)

コラム
「#桜川ひかりに哲学のことをきいてみた 第6回 何をどこまで勉強すべきか」(桜川ひかり)

Vol. 7, No. 1を刊行いたします

分析哲学と文化をつなぐフィルカル、おかげさまで7年目を迎えることができました。今年度も引き続き充実した誌面づくりに励んで参ります。最新号『フィルカル Vol. 7 No. 1』が、04月30日(土)に発売となります。以下に、最新号の内容をご紹介いたします。(目次はページ最下部)

内容紹介

7年目のスタートを飾る今号の巻頭は、恒例となった選書企画、フィルカル・リーディングズ2021です。31名の研究者・出版社によるおすすめ本をフルカラーでお届けします。今号からフォーマットも一新し、プロフィール欄も充実させましたので、寄稿者の「顔」がより見えるようになりました。おすすめ本リストとしてだけでなく、選書を通じた「自己紹介」(序文)としても楽しめるコンテンツに仕上がっています!また同企画の一環として、「編集者が語る、学術翻訳のつくり方と「持ち込み」のススメ」を勁草書房の山田政弘氏に特別寄稿いただいております。翻訳書の企画はどのように実現していくのか。企画を持ち掛ける際に、研究者は何を準備すべきか。研究者のあいだでも、きちんと共有されてこなかった学術翻訳の裏事情を覗くことができる、他ではまず読むことのできない貴重な記事になっています。

今号の特集ふたつめは、大西琢朗『論理学』(昭和堂)を取り上げています。大西氏による自著紹介のほか、4人の研究者によるそれぞれ異なった観点からの書評記事を通じて、著作の内容や、哲学における論理学という学問の位置づけだけでなく、この著作が分析哲学研究者のあいだでなぜ、そしてどのようにインパクトを与えたものであったのかを垣間見ることができます。

また今号では、フィルカル発行元の株式会社ミューから2021年に出版されたいのちとリスクの哲学―病災害の世界をしなやかに生き抜くために』(一ノ瀬正樹著)をめぐる、一ノ瀬正樹氏とメタ倫理学の専門家である蝶名林亮氏による対談の模様も掲載しています。お二人の対談を通じて、分析哲学のひとつの応用の可能性が見えてきます。

今号ではほかにも、最近日本でも徐々に関心が集まってきているI. マードックに焦点を合わせた論考「マードックと現象学」や、二本の報告記事「哲学の体系と実践―存在に触れながら」、「これが高校生の本音?!哲学に対する印象」を掲載します。シリーズ企画「ポピュラー哲学の現在」や 「#桜川ひかりに哲学のことをきいてみた」のほか、レビューや自著紹介記事もそろっています。

『フィルカル』は、Amazonや一部大型書店、一部大学生協でお求めいただけます(お近くの書店でお求めいただけない場合には、philcul[at]myukk.orgまでご連絡いただければ、こちらから発送いたします)

目次

2021 フィルカル・リーディングズ
序文(長門裕介)
「編集者が語る、学術翻訳のつくり方と「持ち込み」のススメ」(勁草書房編集部 山田政弘)

特集「大西琢朗『論理学』」
はじめに(朱 喜哲)
自著解説「「蛮勇」としての論理学へ」(大西琢朗)
「大西琢朗『論理学』(昭和堂、2021 年)書評 新しい論理学ツアーに参加する」(澤田和範)
「大西琢朗『論理学』(昭和堂、2021 年)書評 哲学における「論理学」のアップ・デートに向けて」(細川雄一郎)
「大西琢朗『論理学』(昭和堂、2021 年)書評」(植原 亮)
「大西琢朗『論理学』(昭和堂、2021 年)書評 「論理学」(ただし改造済み)」(槇野沙央理)

対談
「『いのちとリスクの哲学―病災害の世界をしなやかに生き抜くために』をめぐって」(一ノ瀬正樹・蝶名林 亮)

論考
「マードックと現象学」(吉川 孝)

シリーズ ポピュラー哲学の現在
対談「哲学と自己啓発の対話」第九回(玉田龍太朗/企画:稲岡大志)

報告
「哲学の体系と実践 存在に触れながら」(畑 一成)
「これが高校生の本音?! 哲学に対する印象」(和辻 龍)

レビュー
「池田喬『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(NHK 出版、2021 年)」(佐藤 暁)
「池田喬・堀田義太郎『差別の哲学入門』(アルパカ、2021 年)」(佐藤岳詩)

コラム
「#桜川ひかりに哲学のことをきいてみた 第5回 翻訳書を読む・原書を読む」(桜川ひかり)

Vol. 6, No. 3を刊行いたします

最新号『フィルカル Vol. 6 No. 3』が、12月25日(土)に発売となりました。以下に、最新号の内容をご紹介いたします。(目次はページ最下部)

内容紹介

おかげさまで、フィルカルも6年目を終えようとしています。6年目のラストを飾る今号『フィルカルVol. 6 No. 3』では、巻頭小特集3本立てをお届けします。

小特集ひとつめは、今年はじめに刊行された話題書『闇の自己啓発』(江永泉・木澤佐登志・ひでシス・役所暁著、ハヤカワ書房)の書評記事特集です。本書が自己啓発をテーマとしており、かつ読書会の記録でもある点を捉えて、その底の知れない魅力に迫ります。

小特集ふたつめは「応用することの倫理」。前号でも特集した「緊縛シンポ」の問題を契機として企画されたシンポジウムを振り返るとともに、登壇者からの寄稿では日本における哲学を応用する試みの歩みを跡付け、哲学者が現実を生きる人々に関わる研究に取り組む際に直面する問題を考えます。

最後の小特集は「高校の探究学習における人文系研究者の役割」です。2022年度から、高校の学習指導要領の「総合的な学習の時間」が「総合的な探求の時間」に変更されます。この小特集では、先行して探求学習を行っている高校でTAを務める3名の研究者が、現場で生徒や教員に向き合った率直な実感をもとに、探究学習を実りある時間にするために何が必要であり、研究者がそこでできることは何かを探っています。

第2回となる特集「徳と教育」では、小特集でも取り上げた探求学習や、道徳教育、哲学教育における教育実践を徳の観点から批判的に吟味します。最終回を迎える特集「科学的説明論の現在」では、第1回で概観した因果的説明を超える「非因果的説明」を巡る議論を紹介しています。

新連載の「性表現の哲学入門」では、日常言語や裁判の判決における用法を手がかりに、「猥褻」概念を整理します。これは猥褻な性表現が悪いと言われるときの悪さを考える次回につながっていく予定です。

ほかにも、魔女裁判容疑者の体験を分析する論考「魔術的現象のリアリティ」や、舞台芸術の制作場面の会話分析を通して「アスペクト」の転換への理解を深める論文「アスペクトの転換と凝結」、教育現場での実践を報告する「丸山真男『「である」ことと「する」こと』を題材とした哲学対話の国語教育への応用研究」を掲載。好評連載の「#桜川ひかりに哲学のことをきいてみた」と「哲学と自己啓発の対話」に加え、レビュー記事もそろっています。

『フィルカル』は、Amazon のほか、一部大型書店、一部大学生協でお求めいただけます(お近くの書店でお求めいただけない場合には、philcul[at]myukk.orgまでご連絡いただければ、こちらから発送いたします)

年末年始のおともに、フィルカル『Vol. 6 No. 3』をお楽しみください。

目次

小特集1 『闇の自己啓発』
「もしもドラッカー読者が『闇の自己啓発』を読んだら」 (長門裕介)
「静止した闇の中で」 (倉津拓也)

小特集2 応用することの倫理
「〈応用〉することの倫理にまつわる問題を真摯に受け止めること ハラスメントとジェンダーと」 (佐藤靜)
「哲学者が安楽椅子から立ち上がるとき」 (奥田太郎)
「水俣の哲学者 市井・最首論争における概念と見方の問題」 (吉川孝) 

小特集3 高校の探究学習における人文系研究者の役割
「「きちんと」を疑い、上手に「ふざける」ための探究学習のありかたとTAの役割」 (田辺裕子)
「探究するための場 その現状と条件」 (倉田慧一)
「「問い」と自分の不可分な関係 とある高校における探究学習の現場から」 (三浦隼暉)

特集シリーズ1 徳と教育 第2回
「趣旨文:徳の教育実践を吟味する 総合的な探究の時間、哲学教育、道徳教育」 (佐藤邦政)
「「総合的な探究の時間」と知的徳の涵養 教育の限界と可能性が示す学びの沃野」 (山口裕毅)
「「考える人を育てる教育」はどのようなものであってはならないか 知的徳の教育の観点から」 (土屋陽介)
「哲学を学ぶことは「よく生きる」ことにつながるか P4C、林竹二、井上円了の教育理念から」 (神戸和佳子)

特集シリーズ2 科学的説明論の現在 第3回
「序言Ⅲ」 (清水雄也・苗村弘太郎・小林佑太)
「非因果的説明論の現在 多元説・還元的一元説・非還元的一元説」 (小林佑太・苗村弘太郎・清水雄也)

哲学への入門 
「性表現の哲学入門 第1回」 (八重樫徹)

シリーズ ポピュラー哲学の現在
対談「哲学と自己啓発の対話」第八回 (玉田龍太朗/企画:稲岡大志)

論考
「魔術的現象のリアリティ 魔女容疑者の体験分析」 (武内大)

論文
「アスペクトの転換と凝結 舞台制作場面の相互行為におけるアスペクト知覚の会話分析」 (鈴木南音)

報告
「丸山真男『「である」ことと「する」こと』を題材とした哲学対話の国語教育への応用研究」 (玉田龍太朗)

レビュー
「共に深海を潜るということ 永井玲衣『水中の哲学者たち』を読む」 (山野弘樹)
Hans-Johann Glock, What is Analytic Philosophy?, Cambridge University Press, 2008. (植村玄輝・遠藤進平)

コラム
「#桜川ひかりに哲学のことをきいてみた 第4回 哲学書を解釈してみよう」 (桜川ひかり)

#桜川ひかりに哲学のことをきいてみた(第2回)「哲学書をしっかり理解しながら読み進めるための4ステップ」

こんにちは! 桜川ひかりです。この連載では、哲学を勉強したい方向けのお役立ち情報を発信しています。第2回にあたる今回のテーマは「哲学書の読み方」です。

「哲学書の読み方」と聞いて、「そんなマニュアルがあれば苦労しないよ」と思った方もいらっしゃるかもしれません。もちろん、「これさえ知っていればどんな哲学書もスラスラ読める!」といった万能の方法をご紹介することはできません。それでも、今回お伝えする読み方は、「哲学書を読んでいると何も分からないうちに数ページが過ぎてしまう」といった悩みをおもちの方にとって、少しだけ役に立つかもしれません。

本記事は全部で3つの節からなります。第1節では、哲学書をゆっくり読む際の手順について、私がおすすめだと思う方法を4ステップに分けて解説します。第2節では、第1節でご紹介した方法を当てはめつつ、『純粋理性批判』の一部を実際に読んでみます。第3節ではそれまでの内容をまとめたうえで、哲学書を読む際の一般的注意点について、もう少し広い観点からお話しします。

1 哲学書を理解しながら読むための4ステップ1

この節では、哲学書を読むにあたって私が推奨する手順について解説します。なお、ここでは、数ページを何時間もかけて読むような、ゆっくりとした読み方が想定されています。今までそんなに時間をかけて本を読んだことがないという方も、以下の手順をしっかりと踏んでいけば、おのずと時間のかかる読み方になると思います。

今回は哲学書を読む手順を以下の4ステップに分けます。(1)1段落読み、文章の文法的な構造をおさえる。(2)段落内のそれぞれの文を自分が理解できる言葉で言い換える。(3)段落内のそれぞれの文が議論において互いにどのような関係にあるのかを考察する。(4)次の段落に進み、(1)から(3)の手順を繰り返した後、今の段落と前の段落は論述上どのように繋がっているのかを考察する。

これからそれぞれのステップを順に見てゆきますが、その前に段落について少し説明が必要ですね。この記事では、段落を哲学書を読む際の基本単位とします。その理由は、よく書かれた論述的な文章においては、段落は基準なく区切られているわけではなく、議論上のまとまりに対応するように区切られているからです。

少し抽象的に述べると、たとえばCという結論を出したい議論があったとして、Cを示すためにまずAを示し、次いでBを示し、最後にAとBからCが帰結することを示す、という戦略がとられているとします。この場合、Aを示すための議論は最初の段落に、Bを示すための議論は次の段落にまとめられ、AとBからCを結論するための議論が3番目の段落でなされる、といった文章構成を採用することは理に適っています。このように、段落は大きな議論の脈絡においてそれぞれの役割をもっており(上述の第1段落であれば、Cという結論を示すための補助的な主張Aを示すこと、など)、その役割に応じて段落内でなされるべきことが決まり、段落を構成する各文はその目的に寄与することが期待されます2

こうした仕方で、段落は議論という建物を造る際のブロックのような役割を果たしているため、哲学書をゆっくり読む際には、1段落ごとに立ち止まって内容を振り返るというのはよいやり方です。したがって、以下では1段落読む→内容を咀嚼する→次の段落に進むといったサイクルを前提します。

1.1 文章の文法的な構造をおさえる

それでは哲学書の1段落を読む際の最初のステップに移りましょう。まず大事なのは、今読んでいる文章の文法的な構造をおさえるということです。これは外国語の文献を読むときにはよく意識されることですが、日本語の文章を読む際にも重要なことです3。複雑な構文になると、普段話している言語でもちょっと考えないと分からなくなるようなことはしばしばあるので、主述の対応や、修飾節の範囲はどこまでで、その節はどの語にかかっているのかなど、しっかり確認しながら読むようにしましょう。

また、「それ」などの指示表現が出てきたときに、それがどの語を参照しているのかを確認するのも大事です。性・数など、代名詞が何の名詞を受けているかに関する情報の多い言語では、代名詞の参照先がかっちり決まることも多いですが、内容を考えないと決まらないときもあります。そういう場合は、文法的に許容される可能性を絞っておいて、「あとは内容の検討で考えよう」とするとよいでしょう。

1.2 段落内のそれぞれの文を自分が理解できる言葉で言い換える

文法レベルでの確認が終わったら、今度は内容の確認です。難解な古典などだと、段落を一読しただけでは何を言っているのかさっぱり分からないといったことも珍しくありません。そういうときにおすすめできるのが、パラフレーズという手法です。

パラフレーズということで私が考えているのは、ある文について、「つまりこういうことだよね」と、別の表現で言い換えることです。哲学書の内容理解に関してとりわけ大事なのは、この「別の表現」として、自分にも分かるような言葉のみを用いるよう努めることです。「自分にも分かるような言葉」というのも曖昧な言い方ですが、たとえば、意味を訊かれてはっきりと説明できないような言葉(とりわけ哲学用語)はなるべく使わないといった基準を設けるとよいでしょう。

こうしたパラフレーズを1文ずつという単位で行っていくことで、段落の内容をある程度咀嚼することができます。ここで「1文ずつ」というのは2つの意味で重要です。まず、段落が議論にとっての単位をなしていたように、段落内では文が論述上の単位をなすことが多いです。さらに、「1文ずつ」というペースを忘れると、自分が段落のどの部分を言い換えているか分からなくなったり、理解できなかったり自分の理解にとって都合の悪かったりする部分をつい読み飛ばしてしまったりします。文単位でのパラフレーズを心がけることで、論述の流れに沿った形で、かつ、段落で言われていることを網羅的におさえることができるようになります。

また、完全なパラフレーズが難しい場合には、具体例を挙げるという方法も有効です。たとえば「偶数同士の和は偶数になる」という文に対して、「たとえば、2と4はどちらも偶数で、足し合わせると6で、たしかに偶数だね」といったように、具体的なケースを考えてみるといった具合です。適切な具体例を挙げられるかどうかは自分がその文をきちんと理解できているかの試金石にもなりますし、具体的なケースに基づいて考えていくことで理解しやすくなることも多いです。ただし、例はあくまで例なので、自分で出した例に引きずられないよう注意することも大事です。たとえば、もとの文で言われていないことまでその例のディティールから読み取ってしまうといった危険は常にあります。

1.3 段落内のそれぞれの文が互いにどのような関係にあるのかを考察する

さて、段落内のそれぞれの文のパラフレーズが終わったとします。これが理想的に行われれば、段落内のすべての文を自分にも理解できる表現に置き換えたことになるので、段落の理解としてはこれで十分かと思われるかもしれません。しかし、そうではありません。たとえば、以下のような文章を考えてみましょう。

りんごは赤い。2たす3は5だ。私は今日気分がいい。

それぞれの文の意味は分かると思います。しかし、文章全体としては意味が分かりませんよね。それは、この文章には脈絡が欠けているからです。なぜ「りんごは赤い」と述べた後に「2たす3は5だ」と言うのか? 「私は今日気分がいい」とあるが、このことと前ふたつの文で述べられていることには何か関係があるのか?こうしたことが分からないため、個々の文は平易でも、全体としては奇妙な文章になってしまっています。

よく書かれた哲学書に関しては、このような脈絡の無さは無いと仮定してよいでしょう。この場合、「それぞれの文が言っていることは分かるが、なぜこの文の後にこの文が置かれているのか?」といった疑問が出てくる場合、その段落についてまだ理解すべきことがあると考えられます。このように、段落内での文同士の関係を考えるというのが次のステップです。

では、文同士の関係を考えるために何を手掛かりとすればよいのでしょうか。上では完全に脈絡の無い文章を例として出しましたが、実際には文同士の脈絡は接続詞などによって明示されていることが多いです。「Aである。したがってBである」とあれば、ふたつの文が根拠–帰結の関係にあると分かります。もうひとつ例を出すと、「Aである。たとえば、Bである」とあれば、後の文が前の文の具体例になっていることが分かる、などですね。

こうした手掛かりがあるので、接続詞などに注意して読めばそれで事足りると思われるかもしれません。しかし、実際にはこうした分かりやすい印がない文もあります。さらに、たとえばふたつの文が「それゆえ」で繋がれていることから、それらが根拠–帰結の関係にあることが分かったとして、なぜ「それゆえ」と言えるのかが一読して判然としないこともあります。したがって、それぞれの文がどのように結びつけられているのかを自分で考え、また、なぜそのように結びつけることができるのか、内容的に考えることも必要になります。

こうした考察が終わって、段落のそれぞれの文の意味を把握し、かつ、文同士の結びつきがどうなっているのかも明確にできれば、その段落を咀嚼する作業はひと区切りついたといえます。もちろん、段落の議論に対して批判的な検討を行うなど、哲学的に重要なステップはまだまだありますが、「とりあえず読んでみる」という段階であれば、これくらいのことができていれば次の段落に進んでよいでしょう。

1.4 段落同士の関係を考察する

こうしてひとつの段落が読み終わり、次の段落も同じ要領で読み終わったとします。じゃあさらに次の段落に……、と進む前に少し待ってください。上では段落内部での各文の結びつきに関する考察について述べましたが、同様のことは、段落同士の結びつきについても行う必要があります。

本記事第1節の冒頭で、段落は論述における基本単位をなしていると述べたことを思い出してください。よく書かれた哲学の文章では、段落のひとつひとつが議論におけるそれぞれのステップに対応しています。したがって、それぞれの段落は、自らの前後の段落との繋がりにおいて、独自の役割をもっています。こうした段落の役割について考察することで、精読した短い文章を長い議論の脈絡に位置づけることができます。

段落同士の繋がりを考えるためにやるべきことは、段落内の文同士の繋がりを考えた際にやったことと基本的には同じです。一段落読んだら前の段落を簡単に振り返って、今の段落はたとえば前の段落で主張されたことからの帰結を述べているとか、前の段落とは独立に、今後の議論のために示しておきたいことを述べているとか、そうした考察をしてゆきます。また、直前直後の段落だけでなく、数段落読んで、ここからここまでが議論のまとまりになっているなと感じたら、その範囲におけるそれぞれの段落の役割を再び考えてみることも有益です。このように、定期的に議論の大まかな流れを振り返って、それぞれの段落をその流れの中に位置づけることは、「木を見て森を見ず」を避けるために重要なことです。

2 『純粋理性批判』を数段落読んでみる

これまで、哲学書を理解しながら読み進めるための手順を解説してきましたが、実際にどんなことをすればよいのか、例がなかったので分かりづらい部分もあったかと思います。そこで、本節ではカントの『純粋理性批判』から数段落を引用して、第1節で述べたやり方に従って実際に読んでみようと思います。

テクストは第2版「序論」、「Ⅰ. 純粋な認識と経験的な認識の区別について」と題された部分の冒頭3段落です。普段の翻訳においては長い文は読みやすさを優先して適宜複数の文に分けることも多いですが、今回は段落内における文という単位を意識するために、あえて訳文における1文が原文における1文に対応するよう訳してあります。その結果、かなり分かりづらい文も出てきてしまっていますが、読み慣れた言語の文でも(ここでは日本語を想定しています)あたらめてしっかりと構文をとる訓練だと考えていただければと思います。

2.1 第1段落:ステップ1
―構文をとり、代名詞などの指示を確定する

まずは第1段落です。この段落はふたつの文からなります。とくに1文目が長いですね。落ち着いて、前述の1ステップ目、日本語の構文をとり、代名詞などの指示をはっきりさせることから始めましょう。

①の文から考えてゆきます。まず気づくこととして、この文はダッシュ(「―」)の前後で大きく分かれているようです。このダッシュは原文のゼミコロン(„;“)に対応し、文同士の区切りに次ぐ大きな区切りを表します。というわけで、まずはダッシュの前までを見てみます。ここまでは、それほど構文は複雑ではありませんね。「このこと」が直前の「私たちのあらゆる認識が経験とともに始まること」を指していることにだけ注意してください。次にダッシュの後です。ここはかなり複雑な構造をしているので注意して見てゆきましょう。以下、箇条書きでポイントを指摘します。

・ 「私たちの感官を」から「対象の認識へと加工させるような」までが丸々「そうした対象」にかかっていることをまずは確認します。
– つまり、「私たちの感官を刺激」するのも、「一方でおのずから諸表象を生じさせ、一方で私たちの悟性活動をはたらかせて[…]感性的印象という生の素材を[…]対象の認識へと加工させる」のも、「そうした対象」が行うということです。
・ 「私たちの悟性活動をはたらかせて」以下の部分も注意してください。
– ここは「~させる」という使役の表現が用いられているので、「そうした諸表象を比較し、それらを結びつけ、あるいは分離」し、「感性的印象という生の素材を、経験と呼ばれる、対象の認識へと加工」するのは「悟性活動」です。
・ さらに、指示表現にも注目しましょう。
– 「悟性活動をはたらかせて、そうした諸表象を」とありますが、この「そうした諸表象」は直前の「一方でおのずから諸表象を生じさせ」における「諸表象」を指します。
– また、「そうした諸表象を比較し、それらを結びつけ」における「それら」が「そうした諸表象」を指すことは分かると思います。
・ ダッシュの後半は「修辞疑問文」や「反語」と呼ばれるものです。
– つまり、「認識能力」を呼び起こして行使に至らせるのは「そうした対象」をおいてほかないということが述べられています。

②の文に関してはそれほど難しいところはないでしょう。「この経験」が直前の「私たちのうちのいかなる認識も経験には先行せず」における「経験」を参照していることにだけ注意してください。

2.2 第1段落:ステップ2
―各文をパラフレーズする

日本語に関する確認が終わったら、次は各文のパラフレーズです。耳慣れない言葉が並んでいると思うので、細かく確認してゆきましょう。

①の文についてはいきなり「私たちのあらゆる認識が経験とともに始まる」と言われていますが、いまいちよく意味が分からないと思います。「認識」や「経験」は日常的に使わなくもない言葉ですが、日常的な文脈で考えてみてもあまりしっくりきませんね。ここは天下り式に言い換えてしまいます。

「認識」とは、あるものについて、「これはしかじかのあり方をしている」と判断することです。たとえば目の前にあるリンゴを見て、「このリンゴは丸い」と判断することが認識の例として挙げられます。

「経験」とは、知覚4に基づいた認識のことです。上の例では、「このリンゴは丸い」という判断はそのリンゴを目で見るということに基づいていますね。このように、目で見たり耳で聞いたりして判断を行うということが経験です。

こうした仕方で「認識」や「経験」という語を理解するならば、「私たちのあらゆる認識が経験とともに始まる」とは、「物事に関して判断する際に私たちは、目で見たり、耳で聞いたりして、何らかの知覚を頼りにすることから常に始めるのだ」、と言い換えられると思います。そして、「このことには決して疑いの余地はない」とあることから、カントはこうしたことを当然のこととして認めていることが窺えます。

次に、①の文の後半、ダッシュの後について見てゆきます。2.1節で指摘したように、この部分は修辞疑問文になっており、大まかに言って「対象のみがかくかくの仕方で認識能力を作動させる」と述べられていることがまずは分かります。ここで対象は認識の対象、先の例で言えばリンゴなどを念頭に置けばよいでしょう。「認識能力」は、対象について判断するのに関わる能力を全般的に指します(リンゴを見る力や、リンゴについて「丸いな」と考える力など)。さて、この「かくかくの仕方で」の部分が問題ですね。順に埋めてゆきましょう。

まず、対象は「私たちの感官を刺激し、一方でおのずから諸表象を生じさせ」るとあります。また分からない言葉が出てきましたね。「感官」はさしあたり感覚器官を通じて情報を受け取る能力と考えればよいでしょう。たとえば、私たちは視覚や聴覚を通じて周囲から様々な情報を受け取ることができます。こうした能力が「感官」という言葉で表現されています。次に「表象」です。これはさしあたり、心の中で生じるイメージのようなものと捉えてよいです。ただし、「イメージ」というと想像のようなものを思い浮かべがちですが、リンゴを見ているときに生じる視覚像など、実際の知覚も「表象」に数え入れられ、この文脈ではむしろそちらが念頭に置かれていることに注意してください5。つまり、ここでは「認識対象が私たちの感覚器官を刺激し、心の中で知覚などのイメージを生じさせる」といったことが言われています。リンゴから発した光が目に入って、リンゴの視覚イメージが私たちの内に生じる、といったことを念頭に置けばさしあたりは大丈夫です6

次に対象は「一方で私たちの悟性活動をはたらかせて、そうした諸表象を比較し、それらを結びつけ、あるいは分離させ」るとあります。ここで分からないのは「悟性活動」ですね。とりわけ「悟性」の部分がなじみがないと思いますが、これは考え、判断する能力を指します。先ほど、認識とは、あるものについてそれがどのようなあり方をしているか判断することだと述べました。とりわけ、知覚に基づく認識においては、まず知覚を通じて認識の対象が固定されて(たとえばリンゴを見て、そのリンゴについて考える準備をする)、次に「このリンゴはこういうあり方をしているな」と判断する段階に入ります。ここで「このリンゴは丸い」と考える力が悟性です。

では悟性はどうやって判断を下すのかというと、「そうした諸表象を比較し、それらを結びつけ、あるいは分離させ」ると述べられています。2.1節で確認したように、「そうした諸表象」は、対象が感官を刺激して生じた諸表象を指します。では表象同士を比較したり、結びつけたり、分離したりするとはどういうことでしょうか。たとえば、「いくつかのリンゴは丸い」という判断を考えます。この判断にはリンゴと丸さの概念が登場します。リンゴの概念は、たとえば様々なフルーツを見て、その中でリンゴだけがもっている特徴を抜き出すことによって作られたと考えられます。ここでフルーツの視覚イメージまたはそれに基づく記憶は、互いに比較されたり(リンゴとミカンを見比べて色が違うと思うなど)、結びつけられてグルーピングされたり(リンゴであるようなフルーツだけをひとまとめにして考えるなど)、共通の特徴がそこから分離されて抜き出されたりします(リンゴであるようなフルーツが共通してもっているような赤さなどの特徴が抜き出されるなど)。丸さの概念についても同様です。また、「いくつかのリンゴは丸い」という判断においては、このようにして得られたリンゴと丸さの概念が一定の仕方で結びつけられているとも考えられます。これも表象同士の結合といえそうです。

さて、悟性の活動は上のような工程を経て、「感性的印象という生の素材を、経験と呼ばれる、対象の認識へと加工」するとあります。ここでは「感性的印象」という言葉が難しいですね。「感性的」とは、対象から刺激されて受動的な仕方でその対象に関わる能力に関する物事につけられる形容詞です。「このリンゴは丸い」という判断においては、リンゴを見るステップと、そのリンゴについて考えるステップがあると述べましたが、ここでは前者の見るステップに関わるような物事が「感性的」です。「印象」とは感官を通じて受け取られるようなバラバラのデータを指します。さしあたり、リンゴの赤さなどを思い浮かべるとよいでしょう。こうした印象はさらに「生の素材」と言われています。「素材」という言葉はその後の「加工」という言葉に対応していそうですね。つまり、感官を通じて赤さなどの印象を受け取るだけではまだ認識とはいえず、悟性が表象の比較・結合・分離を通じて判断を作り上げることで、初めて対象についての認識が成立するということです。

長くなりましたが、これまで述べたことを踏まえたうえで①の文を言い換えるなら、「私たちが対象について判断する際には、知覚に基づくところから始めるしかない。というのは、対象が感覚器官を刺激して私たちの心の内に知覚といったイメージを生じさせ、さらに思考能力を導いて、そのイメージを加工することによって判断を下させるという以外の仕方では、私たちの認識能力は作動しないからだ」などとなります。最初に読んだときよりは、何が述べられているのか、だいぶ把握しやすくなったのではないでしょうか。

②の文は手短に済ませましょう。まず後半の「この経験ともにすべての認識は始まる」は①の冒頭で述べられていたことの繰り返しです。検討すべきは「時間ということからみれば、私たちのうちのいかなる認識も経験には先行せず」という部分です。認識が経験に先行しないというのは、①で述べられたことの言い換えととれます。つまり、まず知覚を通じて対象に関わるというのが、あらゆる認識において最初の段階をなすということです。ただし、「時間ということからみれば・・・・・・・・・・・・」という但し書きがあり、それが傍点(原文では隔字体)によって強調されていることに注意してください。つまり、先に「最初の段階」と述べましたが、この「最初」は時間的な意味における順序を表しているということです。さらに言えば、あえてこのような強調がなされるということは、「時間的な意味以外における順序があり、その順序においては知覚の段階があらゆる認識に先行するわけではない」と今後の論述において続きそうだ、と予想ができます。というわけで、この文を言い換えると、「私たちのあらゆる認識において知覚の段階が最初に来るが、この「最初に」というのはあくまで時間的な意味における順序を表している」となります(ここで「認識」は先の説明によって理解可能になったと仮定します)。

2.3 第1段落:ステップ3
―段落内の文同士の繋がりを考える

ここまでで、段落を構成するふたつの文が何を述べているかについては、最初に読んだ時よりも明瞭になったと思います。次に、これらの文同士の繋がりについて考えましょう。

今回は②の冒頭に「それゆえ」とあるので、文同士の関係を特定するのは比較的簡単です。つまり、①の文で述べられていることを根拠として、②の文はそこからの帰結を述べていると考えられます。では、これらの文はどのような意味で根拠–帰結の関係にあるといえるのでしょうか。

①の文の、とりわけダッシュの後における主張は、「私たちの感官を刺激し、次いで悟性をはたらかせるような対象によってでなければ、私たちの認識能力は作動しない」というものでした。②の文の主張は「私たちのいかなる認識も時間的には経験に先行しない」です。ここで「経験」が知覚に基づく認識を指す語だったことを思い出すと、対象が感官を刺激することがあらゆる認識における最初のステップであると①において述べられていることが重要そうだと分かります。つまり、対象が感官を刺激するというのがあらゆる認識において時間的には最初の位置を占めると①で述べられており、この「対象が感官を刺激する」という段階が知覚の段階に相当するので、②では経験、つまり知覚に基づく認識が時間的にはあらゆる認識に先行すると述べることができる、といった関係になっています。

2.4 ステップ4
―段落同士の繋がりを考える

これで第1段落を理解するための作業はひと通り完了しました。次いで、第2、第3段落を読み、それらの段落同士の関係を考える作業に移ります。第2段落以降についても2.1節から2.3節までで行ってきたのと同様の手順を踏むべきですが、ここでは紙幅の都合で私が手短にそれぞれの段落を要約してしまいます。

第1段落では、時間的にはあらゆる認識に経験が先行すると述べられましたが、第2段落では、時間的でない意味においては必ずしもそうとは言えないと述べられています(これらふたつの意味における先行性が「経験とともに」と「経験から」という言葉で対比されています)。ではなぜそういえるのかというと、認識を構成する要素の中には、私たちが知覚を通じて受動的に受け取るもの以外にも、私たち自らがそこに付け加えるものがあるかもしれないからだと述べられています。もう少し踏み込んで言うなら、そうした私たちの側が付け加える要素がなければ経験も成立しないという意味で、それらの要素は―時間的な意味においてではないにせよ―経験に先行するかもしれないじゃないか、と述べられていると考えられます7

第3段落は比較的分かりやすいので、これまでに出てきた言葉を理解していればそれほど言い換える必要はないと思います。「経験や感官のあらゆる印象から独立した認識はあるのか」という問いが立てられ、この問いはすぐに答えが出るような簡単なものではないと述べられています。さらに、ここで「経験から独立し、感官のあらゆる印象からさえも独立した、そうした認識」を形容する専門用語として「ア・プリオリ」という言葉が導入され、これとの対比において、知覚に基づく認識には「経験的」という表現が与えられます(「ア・ポステリオリ」は「ア・プリオリ」の対義語です)。

さて、ここまでで3つの段落を順に見てきましたが、これらの段落は互いにどのように結びついているでしょうか。これに関しても今回のケースは分かりやすくなっています。まず第2段落の冒頭に「しかし」とあります。つまり、第2段落の主張は、第1段落で確認されたことと対比されていると考えられます。さらに内容を振り返ると、第1段落では「時間的には、あらゆる認識に経験が先行する」と述べられていたのに対し、第2段落では「だからといって、時間的でない意味においても、あらゆる認識に経験が先行するとは限らない」と述べられていたので、ふたつの段落は、第1段落が譲歩で、第2段落ではそれとの対比において主張したいことが述べられている、という関係にあることが分かります。

第3段落の冒頭にも「それゆえ」という印があるので、前段落との関係が分かりやすくなっています。すなわち、第2段落と第3段落は根拠–帰結の関係にあります。ではなぜこの関係が成り立つのでしょうか。第3段落の主張は「経験から独立した認識は存在するか」という問いはただちに答えられるようなものではない、というものでした。つまり、この問いに「イエス」とも「ノー」ともすぐには答えられないということです。ここではとりわけ、ただちに「ノー」と言えないということに重点が置かれていると考えてよいでしょう。というのは、第2段落はそのような認識が存在するかもしれないと考えるための理由を述べているからです。第1段落では、時間的にはあらゆる認識に経験が先行すると述べられ、それゆえ、経験から独立した認識などないとただちに答えられると思われるかもしれない。しかし、第2段落で述べられているように、時間的でない意味においては、あらゆる認識に経験が先行するわけではないと述べる余地がある。したがって、この問いにただちに「ノー」と答えることはできず、そのような認識の可能性についてはより詳細な研究が必要だということになる。このような繋がりがあると考えられます。また、とはいえ時間的には経験に先行する認識などないのだから、経験から独立した認識というものがどんなものであるかはちょっと考えただけでは分からないという意味で、第1段落はこの問いにただちに「イエス」と答えられないということの根拠になっているともいえるかもしれません。

3 本記事で紹介した方法のまとめとその限界

『純粋理性批判』の読解という実例を通して以前よりもイメージが明瞭になったところで、あらためて本記事で紹介した哲学書の読解手順について振り返ってみましょう。まずはひとつの段落について、日本語やドイツ語のレベルでどう読むのか―主述の対応はどうなっているか、修飾節の範囲はどこまでか、指示表現はそれぞれ何を受けているかなど―を確認します。それが済んだら、今度は段落を構成する各文について、それが何を言っているのか、なるべく自分にも理解できる言葉で言い換えてゆきます。各文の意味がとれたら、今度はそれぞれの文が論述においてどのような繋がりにあるのか―たとえば根拠–帰結の関係にあるなど―を考えます。このようにして1段落が読み終わったら、次の段落に進んで同じ手順を繰り返し、さらに、段落同士が議論においてどのような関係にあるのかを考察します。この一連の手順を踏むことで、哲学書の議論をステップバイステップでかみ砕くことができ、さらに議論の大きな流れも把握しやすくなります。

ただし、これまで述べた方法には限界もあります。とりわけ、各文のパラフレーズがどこまでうまくできるかについては、読者の知識や読者がそれまでに受けてきた訓練に依存するところが大きいです。たとえば今回私は「認識」「経験」「感官」「悟性」といった用語について天下り式に解説してきましたが、これはカントやその時代の哲学に関する事前知識がなければできません。また、議論の脈絡を追うにあたって、第2節で私が示した読みは極端に的外れなものではないと信じますが、そうした読みができているとすれば、それは『純粋理性批判』という本全体が何を目指しているのかとか、当時の哲学の議論の文脈はどのようなものだったのかとか、そうしたことについてある程度知識をもっているからというのが大きいです。こうした知識などにガイドされない場合、適切なパラフレーズができなかったり、的外れな仕方で議論を解釈してしまったりする危険があります。

このようなことを避けるには、一言で言えば勉強するしかありません。こうした勉強のためには、ひとつには概説書が有用です。哲学書の原典を読むのに合わせて、自分が読みたい箇所を専門家が解説している本を探し、分からないところがあればその解説を頼りに読み進めてゆきましょう。

また、この連載の第1回でご紹介した、読書会で哲学書を読むという方法もおすすめできます。とりわけ、その哲学書に詳しい人と一緒に読むというのは大きな助けになるでしょう。また、今回の記事で解説した読書方法は、実は読書会における基本的な手順としてもそのまま推奨できるものです。ひとりで読んで分からない本は、仲間を探して一緒に読むことを強くおすすめします。

したがって、この記事を読んでただちに哲学書が以前よりも読めるようになった、ということにはなりませんが、こうした実践を繰り返すことで、「何を言っているのか全然分からないまま数ページが過ぎてしまった」といったことは徐々に減ってくると思います。今回ご紹介したように、段階を踏んでゆっくりと読んでいくことは哲学書を読む際にとても大事なことなので、是非試してみてください! それではまた次回の記事でお会いしましょう。ばいばーい。


桜川ひかり

哲学を研究しているバーチャルYouTuber(VTuber)。2020年5月から動画配信サイトYouTubeにて活動中。初期はゲーム実況や雑談配信を行っていたが、最近は哲学を学ぶ上でのワンポイントアドバイス動画を主にアップしている。専門はカント哲学。