11月7日トークイベント「スポーツの哲学へのいざない」@ジュンク堂書店池袋本店 開催のお知らせ

11月7日(水)19:30~、ジュンク堂書店池袋本店にて、『フィルカル』最新号刊行記念のトークイベントを開催します。
最新号で「スポーツ」を特集していることにちなみ、今回はスポーツの哲学に、倫理学と美学の観点から迫ります。
いい試合とは何か? フェアプレーとは? スポーツとアートの違いは? プレーの華麗さとは?
そうした問いの哲学的な分析の入口へと、本誌編集委員の長門裕介(倫理学)と松本大輝(美学)が、漫画や実際の試合などの実例を通してご案内します。
質問・疑問も受け付けて、議論のできるイベントになるかと思います。
実はスポーツには面白い哲学的問題がたくさん潜んでいます!
ぜひお気軽にご参加ください。
(ジュンク堂書店からのお知らせページはこちらです。)

【日時】11月7日(水)19:00開場 19:30開演
【場所】ジュンク堂書店池袋本店
【料金】入場料1,000円(ドリンク付き。当日、会場の4F喫茶受付でお支払いください)
【予約】事前のご予約が必要です。ジュンク堂書店池袋本店1階サービスコーナーもしくは書店お電話(03-5956-6111)までお願いいたします。または、フィルカルまで直接(ご予約フォームから)お申し込みください。【10月20日付記:予約フォームでの受付は終了しました。ジュンク堂書店までお申込みください。】なお、ご予約をキャンセルされる場合、ご連絡をお願いいたします(電話:03-5956-6111)。

お店の詳しい情報:
ジュンク堂書店池袋本店
【住所】東京都豊島区南池袋2-15-5
【電話】03-5956-6111
【HP】https://honto.jp/store/detail_1570019_14HB320.html
【地図】

ディスカッション記録:フィルカルVol. 3, No. 1刊行記念イベント @Readin’ Writin’(2018年4月21日)

2018年9月30日刊行の『フィルカル』Vol. 3, No. 2には、トークイベント記事が掲載されています(262-291頁)。これはそのひとつ前の号『フィルカル』Vol. 3, No. 1の刊行を記念して2018年4月21日にReadin’ Writin’で行われたイベントの記録ですが、紙幅の関係上、発表者による発表部分だけが掲載され、ディスカッション部分を収めることができませんでした。ここではそれを補うため、ディスカッション部分を掲載します。(当日の様子はこちらの記事でも簡単にご紹介しております。)

あらためてイベントの内容を簡単に紹介しておきますと、メインスピーカーとして『フィルカル』Vol. 3, No. 1に論文の掲載された高田敦史氏と岩切啓人氏、司会・コメンテーターとして弊誌編集委員の森功次氏を迎えて行われました。高田氏と岩切氏にそれぞれの論文、「スーパーヒーローの概念史―虚構種の歴史的存在論―」(Vol. 3, No. 1, 170–222頁)および「創造と複製―芸術作品の個別化―」(同128–169頁)の内容やモチベーションを一般向けにわかりやすく伝えてもらったうえで、参加者との間でディスカッションを行いました。両氏の発表内容はVol. 3, No. 2でご確認いただけます。そちらをお読みになったうえで、ここにまとめたディスカッションをお読みいただけたらと思います。なお、当日のディスカッションでは、高田氏と岩切氏に対して順序関係なく質問がありましたが、ここではそれぞれに対する質疑応答をまとめて掲載します。また、ページ参照のある箇所は弊誌Vol. 3, No. 2からのものです。

ディスカッションの最後は思いがけず「ネタバレ問題」へと到達して、盛り上がりを見せています。なお、「ネタバレ問題」については、現代美学研究会主催、弊誌共催で新たなイベントが開催される予定です。 2018年11月23日(金) 大妻女子大学 千代田キャンパス 本館F棟632にて、登壇者は森功次、松永伸司、高田敦史、渡辺一暁の各氏、コメンテーターには稲岡大志氏を迎えます。ここでの議論はその「予習編」になっているとも言えますので、ぜひご確認のうえ、イベントをお待ちいただけたらと思います。

1 高田氏への質問と応答

「スーパーヒーロー」という概念の規定

参加者A
「スーパーヒーロー」という言葉の文献上の初出はあるんですか。

高田
それはけっこう微妙です。『スーパーマン』以前の用例は確認されていますが、現在とは違う意味で使っていると言われます。『スーパーマン』に影響を受けたキャラクターという意味での「スーパーヒーロー」の初出がどこかはわかりません。私が調べた限りでは、41年にすでにそういう用法がある。41年にコミックの描き方ハウツー本みたいなのに「スーパーヒーローを描きたいなら」みたいなフレーズが出てきている。

参加者A
では発表の中で38年とした根拠は。

高田
38年は作品『スーパーマン』が生まれた年で、そこに「スーパーヒーロー」という用語は出てこないんですが、今の「スーパーヒーロー」の用語は〈『スーパーマン』に影響を受けたキャラクターたち〉という意味で使われているからです。


38年に生まれたのは「スーパーヒーロー」という言葉で指せる対象ということですね。

参加者A
言葉自体が確認できているのが41年だと。

統語論的には「スーパーヒーロー」は「ヒーロー」に「スーパー」という形容がかかっていると解釈しますが、「ヒーロー」自体はギリシャ起源で、その後もずっと使われている。「スーパー」は超越性みたいな意味があるかと思います。「ヒーロー」と「スーパーヒーロー」の違いは何でしょうか。

高田
スーパーヒーローの定義に関しては〔試みが〕いろいろあるんですが、僕は定義できないのではないかと思っています。コミックブックというメディア自体は34年にできていて、そこからスーパーマンが出てくるまで4年しか経っていない。当時のスーパーヒーロー概念は、あえて言えば「スーパーマンに影響を受けた、コミックブックというメディアにおけるキャラクター」みたいなものです。「ヒーロー」という抽象的な内容にこれを足したら「スーパーヒーロー」になるといったものではなく、〔スーパーヒーローという概念は〕個別的なメディアに結びついたかなり特殊なものだということです。

参加者B
「スーパーヒーロー」という言葉の「スーパー」という部分は「スーパーマン」からきたということでいいんですか。

高田
そうではないです。「スーパーヒーロー」で固有名詞化している。英語では「super hero」という二単語ではなく「superhero」という一単語になっています。

参加者A
「スーパーヒーロー」が日本に輸入された時点というのがあると思います。日本の側でも〔その後発展したものを?〕そのまま「スーパーヒーロー」と呼べるのか、「正義の味方」のような違うものに近いのか、どちらなのでしょう。

高田
「スーパーヒーロー」の定義をやっている人たちはいて、それは論文の中で紹介しているんですが、私はそういう抽象的な定義が立てられるとは思っていないんですね。
〔スーパーヒーローには〕いろいろな特徴があって、日本のものも基本的な特徴は似てはいる。人間以上の力をもっているとか、コードネームをもっているとか、特別な衣装を着ているとか。でも違いもあります。日本のスーパーヒーローは変身するがアメコミのほうはそうではないというようなことです。ジャンル自体が日本とアメリカで二分していて、同じ「スーパーヒーロー」の語で呼ばれていても、本当に同じものなのかどうかはわからない。
この論文ではスーパーヒーローの概念を一切定義しようとせず、なぜ人々は一群のキャラクターを同じスーパーヒーローという名前で分類するのかを追うことに専念しています。

アメコミの場合はなぜスーパーヒーローが虚構内的概念になったのか

参加者C
スーパーヒーローという概念が虚構内でも使われるようになるというのは面白くて、他に探そうと思ったのですが、なかなか見つからない。たとえば日本の特撮のスーパーヒーローの場合もいろいろなヒーローがみんな集まって、という回はあるが、自己言及的なものにはなっていない。日本の場合は子供向けだから複雑なことをやらない、という事情もあるかもしれないですが、アメリカの場合にそれが成り立った事情はあるのでしょうか。

高田
なぜ定着したかは僕もわからない。日本の場合でも単発では同じようなことがあって、オールスター映画などでは、仮面ライダーやプリキュアが集まって、「俺たち仮面ライダーだから」とか「私たちプリキュアだから」みたいなことを、普段の作品では「仮面ライダー」という言葉を使わないくせに、突然言い出すわけです。アメコミの場合はそれが常態化していて、それはユニバース制度のようなものができたからだと思います。
だんだん時が経ってくるとジャンルの中にジャンルが繰り込まれるという現象自体はいろんなものにあって、ホラー映画でもメタ・ホラーのようなものが出てきて、ホラー映画の登場人物がみんなホラー映画を見ていてホラー映画に詳しくて、ホラー映画のジンクス(夜中プールに行くとやばい、とか)を言い始めて、というのはあるけれど、それが当たり前の状態になっているのは珍しくて、それはユニバースのようなものができたせいなのではないかと思っています。

参加者C
ユニバースは独特ですよね。いろんな作品が全部いっしょになったら、という発想自体はいろんな人が抱きがちだけど、そういうものは普通定着しないですよね。

高田
実際作るのはたぶん難しいと思います。映画でも結局マーベルぐらいしかうまくいっていない、という話もありますね。DCはうまくいっていないし、ダークユニバースというユニバーサルのモンスター映画のやつがあったんですが、それも1作目でこけた。そんなに簡単にいくものではないのではないか、と思います。

参加者C
逆に言うとなんでマーベルはそんなにうまくいったのでしょう。

高田
スーパーヒーロー像が変わった、みたいなのと本当はリンクしていて、ただ作品をつなげればよいという話ではなくて、ジャンル全体に対するメタな楽しみ方をセットにしないとうまく回らないというのが本当はあるんじゃないかな、と思います。

虚構内的概念の使用を描くことにはいまだメタ的・パロディー的な意味があるのか

参加者B
ルーク・ケイジの例〔274頁、図2〕では先ほど笑いが起きて、笑えるんですが、笑いを意図したものとして出しているのでしょうか。

高田
パロディーとしての視点はたぶんあると思うんですけど、1970年代ぐらいからこれがむしろ当たり前のことになっています。自分で衣装を作るシーンはだいたいあります。

参加者B
メタレベルのときはある種のパロディーというか、標準からのずらしでやっている感じだと思うんですが、常態化するともうメタではなくなっていて、ジャンルの中に組み込まれている、という感じでよいのでしょうか。それともまだメタ的なものとしてそういう表現があるのでしょうか。

高田
それは難しいですね。メタ的な面白さもある気がするんだけど、表現としては一般化しているという感じがあるのかな。


最近の作品の物語世界の中では「変な格好をしている」という含意はあるんですか。

高田
昔は衣装について何も言わないけれど、最近の作品では、むしろそうしたメタな発言がわざとでてきて、それがかっこいいという感じがありますね。

岩切
こういうのは作品外で作者が読者に語りかけている(完全にメタである)のではなくて、完全に作品内に落とし込まれているということでよいのでしょうか。

高田
持ち込まれているとは思うのですが。

参加者B
メタフィクションっていうのは本来作者と読者の関係であるものが、キャラクター内部の者が言っている、ということで、そうであるのは確かなんじゃないですか。それがどういうふうに機能するか〔が問題ではありますが〕。

高田
読者に対する目配せはあるだろうとは思います。

作品内の人々はスーパーヒーローをフィクションとして知ることがあるか


最初にフラッシュが2人出てくる作品(「二つの世界のフラッシュ」)があるじゃないですか。1人のフラッシュが先代のフラッシュがいる世界に行って、コスチュームのまま行くんだけど、そこでホットドッグかハンバーガーか何か売っている店員に「お前はなんでそんな変な格好してるんだ」と言われる。あの世界の人たちの間には「スーパーヒーローというのは変な格好している奴だ」という共通認識がもしかしたらないんじゃないか。

高田
ないと思います。それはやっぱり時代的にユニバース形成前なので、スーパーヒーローがいるのが当たり前って世界にはなっていない。60年代のマーベルだとスーパーヒーローが出てきたときにそのへんの普通の人が「また新しいスーパーヒーローか」みたいなことを言ったりする。


我々現実世界の人たちがもっているスーパーヒーロー概念からしたら、スーパーヒーローというのはあくまで作り物、フィクションなんだけど、中〔虚構世界内〕の人たちのスーパーヒーローの理解の仕方はちょっと特殊で、「その世界にいて相互関係できるような存在」としてとらえている。ただそこにたぶんもう1個特殊な理解の仕方が混ざってる気がしますね。中の人たちは、読み物としてもスーパーヒーロー概念を理解しているんです。フラッシュの場合はそのへんが変なぐあいになっている。別の世界に行ったフラッシュは「俺が読んでいたあの人がいる」のようなことを言っていて、そのへんが混乱していて面白いですね。

参加者B
「虚構内的な虚構外的概念」みたいな。

高田
マンガの中にマンガが出てくる場合はそうなりますね。

岩切
ユニバースとかだとニューヨークの人は隣人としてスーパーヒーローを知っているということで、コミックを通して知るわけではないということですか。

高田
マーベル・ユニバースにマーベル・コミックはあるのかというのは今一つ一貫していなくて、あるようにも見える。マンガ読んでるときもあるんだけど、実話が描かれたマンガが売っているのかどうかはよくわからない。


〔実話だったら〕フィクションじゃなくてレポートになっちゃう。

参加者B
スーパーヒーローが活躍していることを虚構内の人々が知る場合にはどうやって知るんですか。


ニュースですよね。「バットマンが現れました」みたいなのがニュースに出るでしょ。

高田
作中でノンフィクションとしてスーパーヒーローコミックスが売っているみたいな描写があるときもあります。そこは今一つ一貫はしていないんですけど。

参加者D
描いている人は年代によって全然違う人だからつじつまが合わないことも出てくるでしょうね。

高田
そうですね。

ハッキング的な手法の「分析哲学」や「分析美学」という哲学カテゴリーへの適用可能性

参加者E
高田さんの今回の概念史のハッキング的な手法というのは、フィクションのカテゴリーとかジャンルの変遷を追う際に有効じゃないかというお話だったと思います。分析哲学・分析美学という哲学のカテゴリーの変遷に関してもこれは使えるんじゃないかとも思うのですが、分析哲学の概念史のようなものをやるおつもりはないのでしょうか。

高田
面白いとは思うんですが、大変ですよね。笠木〔雅史〕さんのやっていることはそれに近いですね。分析哲学という言葉の意味はだいぶ変わっているという話はよくされています。

参加者E
ちなみに「分析美学」という言葉の初出はいつなのでしょう。

岩切
1950年代では今分析美学の主流の雑誌では全然分析美学はやっていない。むしろ、Journal of PhilosophyとかMonistとかで分析哲学者が美学について論じている。分析美学をやっています、というような人はいなかったと僕は思ってます。


アメリカ美学会は昔はもっと雑多な学会だったのだが、徐々に哲学者に侵食されていって最近は分析美学者っぽい人しかいなくて、それはむしろよくないと言われている。

参加者D
ハッキング的な手法の応用例としては『概念分析の社会学』がありますよね。哲学というジャンルへの応用としては、ハッキング自身の『言語はなぜ哲学の問題になるのか』

次ページ「岩切氏への質問と応答」へ続く

Vol. 3, No. 2が刊行されました

分析哲学と文化をつなぐ雑誌『フィルカル』Vol. 3, No. 2が9月30日に刊行されました。
今号も370ページの大ボリュームでのお届けです。

小特集「スポーツ」ではスポーツ倫理学概説と合気道論を掲載し、スポーツに対する鋭い哲学的分析を提供しています。
「研究への招待」では文化的盗用(cultural appropriation)に関する分析美学の議論を紹介、さらに、「文化の分析哲学」の論文たちには、ブルーフィルム、コンテンツ・ツーリズム、RADWIMPS「HINOMARU」など、現代文化の諸相を分析美学の観点から分析した論考たちが集結です。
また、分析哲学の源流「ルヴフ=ワルシャワ学派」の祖トファルドフスキの翻訳を解説付きでお送りし、「文化としての分析哲学」の側面も哲学史的に探究できる号となっております。
そして、デヴィッド・ルイス入門、3回目の今回は、前回の反事実条件文分析の応用として、因果論という哲学的に超重要なテーマを取り上げ、紹介しています。
他に美学・哲学イベント記事、国際美学会報告、なろう小説ガイドも収録し、大変幅広い文化現象をいろいろな視点から扱っています。
ぜひお手にとってご覧ください。

Amazonでもご購入いただけます。

目次

哲学への入門
デヴィッド・ルイス入門 第3回 因果(野上 志学)

研究への招待
論考「文化的盗用—その限界、その分析の限界—」(渡辺 一暁)

文化の分析哲学
●小特集:スポーツ
論考「なにが私にとってスポーツ倫理学を気になるものにしているのか」(長門 裕介)
論考「合気道の観ている(であろう)ものについて」(高橋 志行)

論文「ブルーフィルム鑑賞者であるとはどのようなことか?—土佐のクロサワのために—」(吉川 孝)
論文「コンテンツ・ツーリズムから《聖地巡礼的なもの》へ—コンテンツの二次的消費のための新しいカテゴリ—」(谷川 嘉浩)
論文「作品とカテゴリーの実践—「HINOMARU」批評の分析—」(竹内 未生)

翻訳
ルヴフ=ワルシャワ学派 第1回(解説&翻訳:中井 杏奈)

イベント
フィルカルVol. 3, No. 1刊行記念イベント(発表者:高田 敦史、岩切 啓人/司会&コメンテーター:森 功次)
フィルカル×GACCOH講座「やっぱり知りたい!分析哲学―自由論&時間論編―」(講師:高崎 将平、大畑 浩志)

報告
「国際美学会中間大会に参加して」(青田 麻未)

コラムとレビュー
コラム「異世界って何なんだよと思ってなろう小説を読んでみたら異世界転移モノに俺だけがどハマリした~最強×ハーレムにも実は色々ありました~ 第1話」 (しゅんぎくオカピ)
レビュー「2018年上半期書評」(長門 裕介)
レビュー「ホーキング青山『考える障害者』」(八重樫 徹)

投稿募集中

編集部では次号へ向け、分析哲学と文化をテーマとした原稿を募集しています。

投稿締切:2018年12月31日(月)
投稿先:philcul[at]myukk.org(「at」を「@」に変えてください)
原稿は、メールの件名に「フィルカル投稿」と明記したうえで、添付ファイルでお送りください。

投稿の詳細については「投稿募集」ページをご覧ください。
熱意のこもった原稿をお待ちしております。

レポート:フィルカル×GACCOH講座「やっぱり知りたい!分析哲学―自由論&時間論編―」

7月15日(日)・16日(月)の連休2日間、京都出町柳のGACCOHにて、フィルカル×GACCOHの分析哲学講座が開催されました(GACCOHでの案内ページはこちらをご覧ください)。真夏の講座、猛暑の講座でしたが、計4コマ、8時間の講座が熱く行われ、連日20名近くの方々に参加していただきました。暑い中どうもありがとうございました。関東からの参加者もいらしたようで、非常に熱心な参加者に支えていただきました。

今回は「自由論&時間論編」ということで、自由論のほうは、フィルカル創刊号から自由論入門を3号続けて執筆した高崎将平さん(東京大学大学院博士課程)に担当してもらいました。時間論のほうは、昨年GACCOHで分析哲学講座・認識論編を担当された大畑浩志さん(大阪市立大学大学院博士課程)に担当していただきました。2人の若き俊英がそれぞれ2コマずつ担当し、レクチャーに始まって議論や質疑応答のやりとりへ移行する、とてもエンターテイニングな講座となりました。

高崎さんの講義の様子

高崎さんは1日目は「決定論と自由は両立するか?」、2日目は「モラル・ラック」をめぐって講義・議論しました。この2回を通じて、私たちが自由であるというのはどういうことなのか、私たちはどういうことに責任をもつのか、という大きなテーマを考察することができました。

1日目「決定論と自由は両立するか?」で扱われたのは次のような問題です。私たちに行為を選択する自由があるという考えは常識的なものですが、これは決定論(行為を含めたあらゆるものごとはすべてあらかじめ決定されている、という考え)と両立するでしょうか。講義ではまず、これらは両立しない、という論証を与えてみたうえで、その論証への反例として、フランクファートという哲学者が与えた不思議な事例を検討しました。次に、フランクファートの与える自由の説明(これこれの欲求に従いたい、という欲求(二階の欲求)から自由を説明する立場)を詳しく考察しました。なお、この日の講義内容の詳しい解説は、弊誌Vol. 1, No. 1の高崎さんによる「自由論入門」にありますので、ぜひご確認ください。

2日目は、モラル・ラックの問題が扱われました。モラル・ラックの問題というのは、当人のコントロール外の要因(=運)で起きてしまった部分に道徳的責任を負わせていいのか、という問題です。たとえば、同じくらい酔っぱらっている人でも、車を運転して人をひいてしまう場合もしない場合もある(それは運によりけり)わけですが、もし道徳的責任は運に左右されないと(カントのように)考えるならば、どちらの場合でも同等の責任があるはずです。しかし、少なくとも法的・社会的にはこれらの場合の責任にはっきりとした違いが出るので、道徳的責任は運に左右されない、という考えと衝突します。講義では、運の種類や論証の種類を区別することで、こうした問題を詳しく検討しました。

大畑さんの講義の様子

大畑さんは1日目は「タイムトラベルとは何か」、2日目は「タイムトラベルから、時間と個体の形而上学へ」と題して講義・議論し、タイムトラベルを軸に、時間とは何か、時間を通じて存在しているものは何か、という哲学の根本問題へといざなってくれました。

1日目は現代時間論の枠組みとタイムトラベルの問題を扱いました。マクダガードの時間の非実在性証明(時間は実在しない!)を導入したうえで、それを拒否するための二つの対立する路線を検討しました。ひとつは「過去・現在・未来は世界を分ける客観的な区別だ」という路線(時制理論)で、その代表例は「存在するものは現在に存在するものだけだ」という現在主義です。もうひとつは「過去・現在・未来は客観的な区別ではなくて、どの時点のものごともすべて同等に存在する」という路線(無時制理論・永久主義)です。後半はタイムトラベルの定義と祖父殺しのパラドクスの問題を扱いました。また、講義の最後には、参加者一人一人が現在主義や永久主義のどれかの立場を引き受けてグループで討論・発表する、という楽しい企画もありました。

2日目は「時間を通じて個体が持続するとはどういうことか」を扱い、そのうえでタイムトラベルの可能性をもう一度考えました。「同じものは同じ性質をもつ」という原理を認めると、ものの変化(性質を獲得したり失ったり)が不可能であるように見えるわけですが、これをどう扱うか、というのがこの回のテーマです。立場は大きく2種類あって、そのうちのひとつの延続説によると、ものは空間的にだけでなく時間的にも拡がりをもつ。そうすると、あのときの私と今の私は「同じもの」ではなくて、「四次元的な拡がりをもつ私」の2つの部分だ、ということになります。もうひとつの立場である耐続説によると、ものは時間を通じて同じもので、するとこちらはその点で常識的ですが、性質には時点が含まれる(永久主義)とか、現在のものだけ存在するとか(現在主義)、その他の部分で問題がありそうなことを言わなければならなくなります。これらの立場を紹介したうえで、それぞれの立場でタイムトラベルの問題、特に自己訪問のパラドクスをどう扱えるかが議論されました。

参加者のみなさんがたくさんの質問をしてくださったおかげもあり、どの回も非常に充実した講座となりました。途中、講義内容の「分析哲学らしさ」についてのご質問がありましたが、今回の講座でも自由や時間という概念に他の概念(責任、他行為可能性、欲求、運…、時制、存在、個体、性質…)がどのように結びつき、また結びつかないのか、などのことが、論証を通じて「わかるようになる」という体験が得られたはずです。「違いがわかる人になる」――これはとても分析哲学の講座らしい体験だったのではないでしょうか。

さらに詳しい内容は9月末発刊の『フィルカル』最新号に掲載される予定です。ぜひご覧ください。また、レクチャーの際に寄せていただいた質問に対する高崎さん、大畑さんからの回答もGACCOHのページにアップされる予定ですので、特に参加者のみなさんはこちらもチェックしてみてください。

フィルカル×GACCOH「やっぱり知りたい!分析哲学」へのご意見・ご要望お待ちしております。次回はこういうことをやってほしいとか、こういう工夫をしてほしいとか、こういう形式でやってほしいとか、いろいろなご意見お待ちしております。問い合わせフォーム、または編集委員まで、気軽にご意見をお寄せください。次のレクチャーシリーズをぜひお楽しみに!

レポート:『フィルカル』トークイベント@Readin’ Writin’

4月21日(土)、田原町の書店Readin’ Writin’にて『フィルカル』最新号刊行記念のトークイベントが行われました。今回はそのレポートです。

メインスピーカーとして最新号に論文の掲載された高田敦史氏と岩切啓人氏を招き、弊誌編集委員の森功次氏も司会・コメンテーターとして参加してもらいました。高田氏と岩切氏に論文の内容やモチベーションを一般向けにわかりやすく伝えてもらったうえで、参加者との間でディスカッションを行いましたが、非常に議論の活発なイベントになりました。

会場の様子を上から撮った写真
ディスカッションの様子

高田氏の発表では、論文「スーパーヒーローの概念史」の内容をわかりやすく伝えてもらいました。アメコミ文化の中でキャラクターを虚構世界の外側から規定する概念(虚構外的概念)にすぎなかったスーパーヒーロー概念が、虚構世界内の人々が自覚的に使う概念(虚構内的概念)にもなる、という変化を追う内容です。また、内容だけでなく、どのような方法で研究を進めたかも発表してもらいました。この論文は、ハッキングの歴史的存在論の適用事例でもありますが、歴史的存在論に魅力を感じながらもそれを実践する哲学者の少ない中、高田氏の研究手法の紹介は参考になるものだったと思います。

高田氏による発表の様子の写真
司会の森氏(左)と発表中の高田氏(右)

高田氏の発表内容に関するディスカッションでは、特に虚構内的概念としてのスーパーヒーローの特殊性をめぐって、活発に議論されました。たとえば、アメコミでは虚構内的概念が発達したけれど日本の特撮などではそうでないのはなぜなのか、という点です。日本のスーパーヒーローとの違いは特に興味をひく話題であったようです。また、虚構内的概念の描かれ方の特殊性も関心を集めました。虚構内的概念を描く際にいまだにパロディー的・メタ的なニュアンスはあるのか、作品内の人々がスーパーヒーローをフィクション(マンガ内に現れるマンガ)から知ることは最近でもあるのか、などといった点です。

岩切氏の発表では、アプロプリエーションアート(既存作品の複製によって作品を作るアート)の例を軸に、論文「創造と複製」の内容と意義が生き生きと伝えられていました。複製は創造ではない、という説を批判する議論です。発表後半では、「複製はすべて悪であるのか?」という、論文では明示的に扱われていない(けれど動機づけとなっていた)興味深い論点が扱われていました。特に「贋作、剽窃とアプロプリエーションアートは何が違うのか」という点の整理は示唆に富んでいました。

岩切氏による発表の様子の写真
発表中の岩切氏

岩切氏の発表内容に関するディスカッションでは、特にアプロプリエーションアートの位置づけについて活発に議論されました。たとえば、鑑賞する際に何を評価するかでいえば、アプロプリエーションと剽窃はたいして変わらないのではないのか(vaporwaveを聴くときと山下達郎を聴くときのポイントはたいして変わらないのではないか)、という点、アプロプリエーションは(元ネタの)初見の感動を奪うのだから、アートワールド全体の観点から見ると悪いところもあるのではないか、という点などです。特に初見の感動の問題はネタバレ問題ともリンクするため、ディスカッション最終部で非常に盛り上がりました。

また、二人の発表内容が交わるような部分での議論もありました。スーパーヒーローコミックスにもアプロプリエーションを用いる場合やそれに似た側面はあるのか、という話題、ポピュラーカルチャーでのアプロプリエーションの事例(『高慢と偏見とゾンビ』)、アプロプリエーションを含めた作品の作者は誰なのか(誰をクレジットするのか)という問題などが論じられていました。

以上のように、わずか2時間の間に非常に豊かな内容が詰め込まれたイベントとなりました。参加くださった方々、どうもありがとうございました。議論のもう少し詳しい内容は、次号『フィルカル』に何らかの形で掲載する予定ですので、お楽しみに。

『フィルカル』では今後もイベントを行っていく予定です。今回のイベントの感想、今後扱ってほしいテーマ、招いてほしいスピーカー、試みてほしいイベント形式などについて、みなさまのご意見を募集中です。問い合わせフォーム、または編集委員まで、気軽にご意見をお寄せください。