Vol. 4, No. 1の内容紹介(第1回)

おかげさまで、創刊四年目を迎えることになりました「分析哲学と文化をつなぐ」フィルカル。先日、3/31に最新刊『フィルカルVol. 4 No. 1』が刊行されました。今回は、その最新刊の内容をフィルカル編集部が簡単にご紹介致します(全3回を予定しています)。

「リズムの時間遡及的本性についての哲学ノート―「音楽化された認識論」への小さなインタールード―」(一ノ瀬 正樹)

一ノ瀬正樹東京大学名誉教授(現:武蔵野大学教授)が長らく研究主題として掲げ、取り組んでこられた「音楽化された認識論」に関する論考です。(一ノ瀬氏の「音楽化された認識論」については「「音楽化された認識論」の展開 ―リフレイン、そしてヴァリエーションへ―」http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/ron31/01-ICHINOSE.pdfをご覧ください)

「前と後に関しての運動の数」(『自然学』)というアリストテレス以来の定義、そしてそこで言われている「運動」がしばしば「リズム」と解されてきた(cf. アウグスティヌスの『音楽論』)点を踏まえつつ、「過去から未来へと一方向的に流れていく」ものとしての、常識的な時間理解が揺さ振りにかけられます。

一ノ瀬氏が着目するのは、規則性としての「リズム」の「本質的に遡及的」な性格です。例えば「タン、タッタッ」というリズムは、「タン、タッタッ」とリフレインされれば、それが三拍子であるように感じられますが、しかし「タン、タッタッ、タタ」と続けば、4拍子に感じられます。つまり、最初の「タン、タッタッ」というリズムがどのようなものであるのかは、未来にどのような音列が続くかによってはじめて定まることなのです。リズムは、次に続く音列のいかんによって、その意味を変容させる可能性につねに開かれた状態にあるのです(一ノ瀬氏は、こうした性格を「浮動的安定」というタームを使って表現しています)。

この洞察を手掛かりとし、さらにウィトゲンシュタインやダメット、グッドマンらを参照しつつ、一ノ瀬氏は「未来から過去へと遡及的に定まる」ものとしての新たな時間概念の可能性を探っています。

特集1: ポピュラー哲学

  • 「「ポピュラー哲学」で哲学するためのブックガイド」(稲岡 大志)
  • 「教養としての大学入試と哲学」(石井 雅巳)
  • 「『君たちはどう生きるか』をどう読むのか」(石井 雅巳)
  • 「キャラ化された実存主義:原田まりる『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』を読む」(酒井 泰斗)
  • 「哲学はいかにして「武器になる」のか?—山口周試論—」(朱 喜哲)
  • 「哲学の国」のポピュラー哲学:ミシェル・オンフレ『〈反〉哲学教科書』について」(長門 裕介)

今号の特集第一弾は、「ポピュラー哲学」です。

「ポピュラー哲学(popular philosophy)」とはそもそも何でしょうか。一概に答えることは難しいのですが、ここではOxford Companion to Philosophy (https://www.amazon.co.jp/Oxford-Companion-Philosophy-Companions/dp/0199264791)の「popular philosophy」の項目を参照してみたいと思います。そこで「ポピュラー哲学」は、

  1. 処世についての手引き(general guidance about the conduct of life)
  2. アマチュアによる哲学問題の考察(amateur consideration of the standard, technical problems of philosophy)
  3. 哲学の大衆化(philosophical popularization)

という形で紹介されています。おそらく「哲学」というタームで世間一般にイメージされているのは、1の意味でしょう[1]。2は(哲学のプロと対比された意味での)アマチュアによる哲学実践を、3は、逆に、哲学のプロによる啓蒙の試みをそれぞれ意味しています[2]

日本においても、『超訳 ニーチェの言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)が刊行されたとりわけ2010年以降、(哲学の専門家ではない著者によって書かれたという意味での)ポピュラー哲学書が書店でよく見かけられるようになりました。こうしたポピュラー哲学の一大ブームは果たして何を意味しているのでしょうか。そしてポピュラー哲学には、哲学の専門家による哲学研究と比べて、どのような意義があるのでしょうか。こうした問題意識のもと、今号では、ポピュラー哲学を大々的に取り上げて議論を喚起しています。

内容としては、1.我が国のポピュラー哲学書の出版動向を概観する記事と、2.(数多くあるポピュラー哲学書の中でもとりわけ個性的だと思われる)ポピュラー哲学本6冊の書評、の二部構成となっています。

稲岡氏はポピュラー哲学書を、教養志向系・エンタメ系・ビジネス書系・翻訳書の4つに分類し、それぞれのジャンルの特徴を、代表的な著作を紹介しながらわかりやすくまとめています(第二部で取り上げられているポピュラー哲学書は、石井氏が教養志向系、酒井氏がエンタメ系、朱氏がビジネス書系、長門氏が翻訳書のジャンルからそれぞれ、選出をしています)。2010年代のポピュラー哲学書を満遍なくカバーしているという点でも資料的価値の非常に高い記事です。また、最近の動向で見逃せないのが哲学の専門家によるポピュラー哲学書の執筆ですが[3]、稲岡氏の記事ではこのへんの事情についても触れられています。

書評として取り上げられているのは、以下の6冊です。

  • 『試験に出る哲学―「センター試験」で西洋思想に入門する』(NHK 新書)
  • 『バカロレア幸福論:フランスの高校生に学ぶ哲学的思考のレッスン』(星海社新書)
  • 『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)/『漫画 君たちはどう生きるか』(マガジンハウス)
  • 『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(ダイヤモンド社)
  • 『武器になる哲学』(KADOKAWA)
  • 『〈反〉哲学教科書』(NTT出版)

研究者たちの目には、こうしたポピュラー哲学書は果たしてどのようにうつっているのでしょうか。本誌のポピュラー哲学特集を通じて、また取り上げられている6冊のポピュラー哲学書を手に取ってみて、「ポピュラー哲学で哲学するとはどういうことか」ぜひ、みなさまにも一緒に考えていただけたらと思います。

特集2: 『映画で考える生命環境倫理学』

  • 「ハイデガー、ウォルトン、アリストテレス―虚実とアスペクト知覚の諸問題―」(横地 徳広)
  • 「人は人ならざるものと恋愛することができるのか―『シェイプ・オブ・ウォーター』と『エクス・マキナ』を題材に―」(山田 圭一)

今号の特集第二弾は『映画で考える生命環境倫理学』です。二月に勁草書房より刊行された『映画で考える生命環境倫理学』(http://www.keisoshobo.co.jp/book/b432307.html)のスピンオフ企画となっています。(同書で横地氏は、「生命環境倫理学とは何か―生命圏と技術圏」と「〈絶対戦争〉後の世界を考えること―『風の谷のナウシカ』とわれわれ」を、山田氏は、「人はAIと恋愛することができるのだろうか―『her/世界でひとつの彼女』と『エクス・マキナ』を題材に」をそれぞれ執筆されています。そちらも併せてご覧ください)

横地氏の論考は、K. ウォルトンの論文Fearing Fictions(1978)(https://www.jstor.org/stable/2025831?seq=1#page_scan_tab_contents)を取り上げ、その「ハイデガー的要素」を浮き彫りにするという意欲的な内容となっています。ウォルトンとハイデガーがともに、アリストテレス解釈・批判を重視していたという点を押さえつつ、横地氏は、丹念なテキスト読解を通じて、ウォルトン論文が持つ射程の広さを示そうとしています。ウォルトンという分析哲学のスターと、ハイデガーという大陸哲学のスターが、(アリストテレスを経由して)一本の線で繋がるという点も非常に重要なポイントです。

山田氏は、映画『シェイプ・オブ・ウォーター』と『エクス・マキナ』を題材に、人ならざるものとの恋愛の可能性を探究しています。この「人ならざるもの」ということで焦点が当てられているのは、(鶴の恩返しのように)「人間の形をしているが、実際は異なる種類の存在」でもなければ、(『美女と野獣』のような)「人間とは異なる姿をしているが、実際は同じ種類の存在」でもなく、両方の規定を含んだ「異種かつ異形の存在者」という、われわれ人間とは、生活形式を全く異にするような、そういった完全な「他者」です。そのような存在者を、われわれは、真に愛することが出来るのでしょうか。この哲学的問いに山田氏は、愛の哲学[4]や情動の哲学[5]の知見に目を配りつつ、2本の映画の解釈を通じて回答を与えようとしています。哲学研究者によってなされた優れた映画批評でありかつ愛の哲学、情動の哲学の入門にもなっています。

今回は、フィルカル最新刊Vol. 4 No. 1の内容紹介前編をお届けしました。次回更新は、次週を予定しております。フィルカル最新刊は、Amazon や一部書店にてお求めいただけます。「分析哲学と文化をつなぐ」フィルカル、是非お手にとってご覧ください。読者の皆様からのご意見・ご感想をお待ちしております。

フィルカル編集部
谷田


[1] 1に関しては「『哲学』という語で日常的に意味されていて、多くの人が哲学者から得られることを期待するが、多くの場合得られずに失望するもの」と書かれています。またこの意味での今世紀最大のポピュラー哲学者として、アランの名前が挙げられています。

[2] ラッセルの『哲学入門』(Problems of Philosophy)が、典型的なものとしてあげられています。

[3] 例えば『デカルトの憂鬱 マイナスの感情を確実に乗り越える方法』(扶桑社)は、ビジネス書系のテイストを持ちつつ、学術的にも信頼のおける入門書となっていますし、『ウィリアム・ジェイムズのことば』(教育評論社)は、形式やタイトルは『超訳 ニーチェの言葉』に倣いつつ、こちらも、専門家による優れた入門書となっています。

[4] “Love as a Moral Emotion”(D. Velleman)(https://www.jstor.org/stable/10.1086/233898?seq=1#page_scan_tab_contents)や『愛の哲学的構成』(伊集院利明)などが参照されています。

[5] 『情動の哲学入門』(信原幸弘著)、『はらわたが煮えくりかえる:情動の身体知覚説』(ジェシー・プリンツ著、源河亨訳)が参照されています。

Vol. 4, No. 1を刊行いたします。

分析哲学と文化をつなぐ雑誌『フィルカル』のVol. 4, No. 1を3月31日に刊行いたします。
400頁を優に超える大ボリュームの今号、巻頭を飾るのは一ノ瀬正樹氏による「音楽化された認識論」の哲学。
2つある特集のひとつ「ポピュラー哲学」では、『ニーチェの言葉』以降のポピュラー哲学書の流れを一望するガイドや、各種レビュー(対象は『君たちはどう生きるか』、原田まりる、山口周、オンフレらの著書)を掲載。
もうひとつの特集では『映画で考える生命環境倫理学』(勁草書房)の「スピンオフ」論文を2本収録。
今号は入門記事も2本掲載。デヴィッド・ルイス入門最終回のテーマは「フィクションにおける真理」、そして新たに時間論入門も始まります。
さらに「文化の分析哲学」枠にも、写真論、ビデオゲーム論、障害者との共生論、という中身の濃い論文を3本並べ、ドナルド・ジャッド「特種な物体」という現代アート批評における古典の翻訳も所収。

質・量ともに大充実の『フィルカル』Vol. 4, No. 1。
ぜひお手にとり、議論にご参加ください。

Amazon でご購入いただけます。

目次

特別寄稿
「リズムの時間遡及的本性についての哲学ノート」(一ノ瀬 正樹)

特集1:ポピュラー哲学
「​「ポピュラー哲学」で哲学するためのブックガイド」(稲岡 大志)
「教養としての大学入試と哲学」(石井 雅巳)
「『君たちはどう生きるか』をどう読むのか」(石井 雅巳)
「キャラ化された実存主義:原田まりる『ニーチェが京都にやってきて17 歳の私に哲学のこと教えてくれた。』を読む」(酒井 泰斗)
「哲学はいかにして「武器になる」のか?—山口周試論—」(朱 喜哲)
「哲学の国」のポピュラー哲学:ミシェル・オンフレ『〈反〉哲学教科書』について」(長門 裕介)

特集2:『映画で考える生命環境倫理学』
「ハイデガー、ウォルトン、アリストテレス」(横地 徳広)
「人は人ならざるものと恋愛することができるのか」(山田 圭一)

哲学への入門
「デヴィッド・ルイス入門 第4回 フィクションにおける真理」(野上 志学)
「時間論入門 第1回 永久主義・現在主義・成長ブロック説」(大畑 浩志)

文化の分析哲学
「写真の「透明性」とデジタルの課題」(銭 清弘)
「ビデオゲームの統語論と意味論に向けて: 松永伸司『ビデオゲームの美学』書評」(三木 那由他)
「差異の認識と認識的変容」(佐藤 邦政)

翻訳
​ ドナルド・ジャッド「特種な物体」(翻訳:河合 大介)

イベント
公開ワークショップ「ネタバレの美学」(発表者:高田 敦史、渡辺 一暁、森 功次、松永 伸司/司会:稲岡 大志)

報告
「哲学研究者が共同研究に関わること:アナログゲーム制作/研究プロジェクトの事例を通じて」(谷川 嘉浩、萩原 広道)

コラム
「​異世界って何なんだよと思ってなろう小説を読んでみたら異世界転移モノに俺だけがどハマリした 第2話」(しゅんぎくオカピ)

新刊紹介​
セオドア・グレイシック『音楽の哲学入門』(源河 亨)

投稿募集中

編集部では次次号(Vol. 4, No. 3)へ向け、分析哲学と文化をテーマとした原稿を募集しています。

投稿締切:2019年6月30日(日)
投稿先:philcul[at]myukk.org(「at」を「@」に変えてください)
原稿は、メールの件名に「フィルカル投稿」と明記したうえで、添付ファイルでお送りください。

投稿の詳細については「投稿募集」ページをご覧ください。
熱意のこもった原稿をお待ちしております。

レポート:ジュンク堂書店池袋本店トークイベント「スポーツの哲学へのいざない」

11月7日(土)、ジュンク堂書店池袋本店にて、弊誌主催のトークイベント「スポーツの哲学へのいざない」が開催されました。今回はそのレポートです。

このイベントはフィルカル最新号の「小特集:スポーツ」に連動したもので、登壇者はフィルカル編集委員でもある若手研究者、長門裕介氏(倫理学)と松本大輝氏(美学)のお二人です。それぞれ、スポーツを倫理学、美学の観点から分析することの面白さを語ってもらいました。トーク後のディスカッションではホールから次々に質問が飛び交い、イベント終了後に登壇者と参加者のあいだでさらに個別に議論が交わされている様子も見られました。この記事では、フィルカル編集部なりの観点から、当日の議論の内容をまとめてみたいと思います。

トーク中の長門裕介氏

長門氏のお話は、一言でいえばスポーツを「卓越性」という観点から分析するというものでした。我々はスポーツ選手を「偉大な」と形容したり、そのような人物になりたいと思ったりすることがあります。こうした事実は、我々がスポーツ選手を単にある特定の技術や身体的能力の水準が高い人として理解しているわけではない、ということを意味しているのではないでしょうか(実際、子供向けの「偉人」伝にはスポーツ選手が当たり前のように含まれていますよね)。スポーツ選手における卓越性とは、こうした「偉大さ」「立派さ」のことです。

この卓越性の面白いところは、もう一方でそれが単なる道徳的な美点とも異なる、ということです。というのも多少道徳的に問題を抱えた人物、私生活であまり好ましくない振る舞いをする人物であっても、偉大なスポーツ選手として称賛されることもまたありふれているからです(逆に、人格者として知られているスポーツ選手についても、同じくらいに人格者であるような市井の人々もいくらでもいるのだから、その人は優れたスポーツ選手だからこそその人格的な面も称賛されているのでしょう)。ではそれは具体的にどのような評価、称賛なのだろうか、我々は優れたスポーツ選手を称賛するとき、なにをしているのだろうか、そうしたことを考えるのが、スポーツにおける卓越性という独特な概念を倫理的な観点から分析する、ということです。

我々観客はスポーツ観戦を通じてこうした卓越性を目の当たりにしたいと思っているのだとは言えそうです。一方で我々は、競技においてどちらの選手が勝利するかを常に知りたいと思っているのも確かです。スポーツの試合では卓越している者同士が競い合って、選手(卓越者)のなかで誰が一番卓越しているか(卓越者のなかの卓越者)を知りたい、と思うのではないでしょうか。つまり、単純に考えると、卓越した選手=勝った選手であり、要するに我々は試合の勝敗を通してどちらがより卓越した選手であるかを知りたがっているのだ、ということになりそうですが、そうならないところがまた面白い点です。最近でもW 杯日本代表の対ポーランド戦での時間稼ぎのパス回しが話題になりましたが、勝ったけれどもなんらかの意味でフェアでなかったと評価され、「よい試合でなかった」と言われることはよくあります。勝つことが卓越していることと同じであるならば、勝ったのに称賛されない、ということは原理的にありえないはずです。このとき、勝利と卓越性の関係はどのようなものになっているのでしょうか。

ひとつには、こうした「よくない」試合は、勝利によって卓越性がうまく示されていない、負けたほうが実は卓越していたかもしれない試合だからよくないのだと考える手があります。これは、勝敗とは独立に卓越性というものが決まっていて、我々は勝敗を通して間接的に卓越性を知りうるが、それがうまく機能しないこともある、と考えることになります。一方で、あれはそもそもよくない試合ではなかった、「勝った方が強いのだ」、という見方もあるでしょう。このように考えるときには、卓越しているとは勝ったということだ、と逆に勝敗によって卓越性を定義していることになります。このとき、勝敗とは別に卓越性というものが存在しているわけではありません。さらには、卓越性は勝敗とは別のものであるが、あらかじめ決まっているわけではなく、実際の試合での勝敗によってその都度創られていくものだ、と考える両者の中間のような立場もあります。我々は実際の試合を通して卓越性とはなにかを理解し、あるいは何が卓越していることなのかという基準を新たに創造したり修正したりしていっているのだという考え方です。

以上の三つの考え方は、たとえば裁判における判決の意味とは何かという問題にもパラレルにあてはまるような、より一般的な問題の一例になっています。もっと話を広げてしまえば、哲学における実在論、反実在論といった議論(大雑把に言って、何かが我々人間の行為、認識、言語といったものから独立に存在するか否かといった議論です)に当然かかわってきます。このように長門氏の発表のポイントは、スポーツにおいて目指されている卓越性とはなにかという問題が、卓越性と勝敗の「存在論的な」関係をどう捉えるかという問題にたどり着くということを示す点にあったように思いました。

トーク中の松本大輝氏

二人めの登壇者、松本大輝氏はスポーツにおける「華麗なプレー」とは何かをテーマに、分析美学の観点から話をされました。スポーツにおいて存在する様々な美のうちのひとつに、「華麗なプレー」が含まれるのは間違いないことでしょう。こうした美しさ、華麗さとは結局のところなんなのでしょうか。

選手の身体動作のもつ特徴(リズム、スピード、正確さ、ダイナミズムetc.)がプレーの「素晴らしさ」や「華麗さ」において重要であるというのは間違いないでしょう。しかしそれだけでしょうか?たとえば競技としてのフィギュアスケートと、エキシビションでは、評価の基準が異なりますが、原理的には全く同じ演技をすることが可能です。このとき同じように四回転ジャンプをしたとしても、我々がそこに感じる「華麗さ」には違いがあるのではないでしょうか。そこで行われている身体的動作はまったく同じであり、その身体的な難易度もまったく同じであるにもかかわらず、です。このことは、華麗さが、純粋に身体的動作だけによって決まるわけではないということを意味しています。

あるいは、ボウリングと良く似た「ホウリング」という競技を仮に考えてみましょう。ボウリングとの違いは、指定されたピンだけを倒すことが目的であり、他のピンを倒すと減点になる、という点にあるとします。このとき、全部のピンを倒すという身体的動作は、ボウリングにおいては華麗であっても、ホウリングにおいてはそうではないでしょう。たとえ後者において選手が全部倒すことを(何らかの事情から)意図していて、その通りに実現できていたのだとしてもです。

これらの例は、プレーの華麗さは競技のルールによっても決定される、ということを示しています。それでは、我々が好き勝手にルールを決定することによって、どのプレーに華麗さ、美を感じるかも、好き勝手に決められるのでしょうか。そうではないように思えます。そもそもスポーツのルールというのは、いっぺんに決められてその後全く変化しない、といったものではありません。たいていの競技のルールは、長い時間の中での実践を積み重ねていくことで、少しずつ変えられていっています。重要なのは、このようにルールを修正していくとき、我々は無軌道にやっているわけではなく、なんらかの方針をもち、そうした方針をなるべく実現できるようなルールの改正を行おうとしている、ということです。ルールの変更には、明らかに「方向」や「目指すべき価値」があるのです。たとえばごく一般的なものに限れば、一定の身体性に依拠している、練習による上達が見込める、運に左右されにくい、などです。

そしてルールにはプレーの華麗さを決定するという役割もあるのなら、こうしたルール改定の方針には、華麗さを決定するための側面も含まれていると考えるのが自然でしょう。スポーツのルールには、より華麗なプレーが行われうるように改定されていく面があるということです。では、こうしたルール改定の方針とはどのようなものなのでしょうか。

それはどこかに明示的に書かれているわけではないし、誰かひとりが知っていて決めることではありません。その競技が実際に何度も行われていく歴史のなかで、その競技に関わる人々からなる一定の言説の空間が、なにが目指されるべきスポーツの価値であるべきなのかということ自体の了解が、少しずつ作られていくのです。松本氏は以上のダイナミックな空間を指して、何が芸術であるかを決める社会的・文化的空間を意味するものとしてアーサー・C・ダントーが発案した「アートワールド」に倣い、「スポートワールド」という概念を提唱できるのではないか、と述べました。こうした松本氏の話は、スポーツにおける美しさが「作られる」ものであるという側面を、ルールの改定という具体的な実践の観点から明らかにしたものだとも言えるように思います。

会場の様子

会場では二人のトークのあと、参加者から活発に質問が飛び交いました。どれも意外な観点を提示していたり、説得力のある反例であったりして、登壇者と参加者がひとつのことを一緒になって明らかにしていく、共同作業のような楽しい時間になりました。そのうちのいくつかをここで紹介したいと思います。

  • スポーツの卓越性ということで、スポーツを通して実現される普遍的な価値や能力ということを念頭に置いていたように思うが、たとえば実際の野球選手の能力は、野球においてのみ機能するような、かなり特化した能力ではないだろうか。一般にそのような価値は、倫理学において評価される価値とは異なるのでは?
  • お互いの実力が伯仲しているほど「よい試合」であるとみなされるというのは、観客は試合における偶然的な結果を評価しているということであり、どちらがより卓越しているかを知りたがっているわけではないということでは?本当にどちらがより卓越しているか知りたいなら、同じ対戦相手の組み合わせで何度も試合をして「誤差」を減らしていけばよいわけだが、そのようなことは興ざめである。偶然的な勝利や敗北を、我々は鑑賞したがっているのでは?
  • メジャーな球技のような観客の多いスポーツほど、運の要素を残しているように思える。ルール整備で排除しようとしているのは偶然性ではなく不公平さではないか?
  • アートワールドでは、これまでの芸術に対する「反芸術」の存在にポイントがあるが、スポートワールドではこれに対応する「反スポーツ」にあたるものがなにかあるのか?

実際のトークや質問にはここでは紹介しきれていない面白い内容も盛りだくさんでした。参加してくださったみなさま、ありがとうございました。イベント後、登壇者のお二人からもコメントをいただきました。

    • 松本氏から一言:ルール改定とプレーの華麗さとの間には、長門さんが取りあげた「よい試合とは何か」という観点がどうも不可避的に絡んできそうです。その辺りをもっと掘り下げられたら面白いかな、と思います。みなさんもぜひ考えてみて下さい。当日は刺激的な質問をいくつもいただきありがとうございました。

長門氏から一言:今回のイベントでは「勝利とは何を意味するのか」「試合をすることにどんな意味があるのか」といったことを扱いましたが、これはスポーツ倫理学の話題のひとつをごく狭い仕方で切り取ったものにすぎない、ということを改めて強調したいと思います。この話題を出発点にするにしても、松本さんが発表されたようなスポーツの審美的な側面や法哲学的な側面からの検討などが必要だということは容易に想像がつきます。あるいは、スポーツ批評において批評者は何をしているのか、といったことについても立ち入った分析が必要でしょう。このイベントがみなさまを触発して「こんなアプローチもあるかもしれないよ」ということを思いつくきっかけになったらなによりです。またどこかでお会いしましょう。

最新号には、ここでのトーク内容とはまた角度の異なる長門裕介氏のスポーツ倫理学論考や、高橋志行氏による合気道をめぐる論考が掲載されていますので、興味をもたれた方はぜひお手にとってみてください。

Amazon でご購入いただけます。

さて引き続きフィルカルでは、明日11月23日に公開ワークショップ「ネタバレの美学」を現代美学研究会と共催いたします(http://d.hatena.ne.jp/conchucame/20181002/p1)。こちらもきっと面白いものになると思いますので、今回参加していただいた方も、この記事を読んで面白そうだなと感じてくれた方も、ぜひご参加ください。

11月7日トークイベント「スポーツの哲学へのいざない」@ジュンク堂書店池袋本店 開催のお知らせ

11月7日(水)19:30~、ジュンク堂書店池袋本店にて、『フィルカル』最新号刊行記念のトークイベントを開催します。
最新号で「スポーツ」を特集していることにちなみ、今回はスポーツの哲学に、倫理学と美学の観点から迫ります。
いい試合とは何か? フェアプレーとは? スポーツとアートの違いは? プレーの華麗さとは?
そうした問いの哲学的な分析の入口へと、本誌編集委員の長門裕介(倫理学)と松本大輝(美学)が、漫画や実際の試合などの実例を通してご案内します。
質問・疑問も受け付けて、議論のできるイベントになるかと思います。
実はスポーツには面白い哲学的問題がたくさん潜んでいます!
ぜひお気軽にご参加ください。
(ジュンク堂書店からのお知らせページはこちらです。)

【日時】11月7日(水)19:00開場 19:30開演
【場所】ジュンク堂書店池袋本店
【料金】入場料1,000円(ドリンク付き。当日、会場の4F喫茶受付でお支払いください)
【予約】事前のご予約が必要です。ジュンク堂書店池袋本店1階サービスコーナーもしくは書店お電話(03-5956-6111)までお願いいたします。または、フィルカルまで直接(ご予約フォームから)お申し込みください。【10月20日付記:予約フォームでの受付は終了しました。ジュンク堂書店までお申込みください。】なお、ご予約をキャンセルされる場合、ご連絡をお願いいたします(電話:03-5956-6111)。

お店の詳しい情報:
ジュンク堂書店池袋本店
【住所】東京都豊島区南池袋2-15-5
【電話】03-5956-6111
【HP】https://honto.jp/store/detail_1570019_14HB320.html
【地図】

ディスカッション記録:フィルカルVol. 3, No. 1刊行記念イベント @Readin’ Writin’(2018年4月21日)

2018年9月30日刊行の『フィルカル』Vol. 3, No. 2には、トークイベント記事が掲載されています(262-291頁)。これはそのひとつ前の号『フィルカル』Vol. 3, No. 1の刊行を記念して2018年4月21日にReadin’ Writin’で行われたイベントの記録ですが、紙幅の関係上、発表者による発表部分だけが掲載され、ディスカッション部分を収めることができませんでした。ここではそれを補うため、ディスカッション部分を掲載します。(当日の様子はこちらの記事でも簡単にご紹介しております。)

あらためてイベントの内容を簡単に紹介しておきますと、メインスピーカーとして『フィルカル』Vol. 3, No. 1に論文の掲載された高田敦史氏と岩切啓人氏、司会・コメンテーターとして弊誌編集委員の森功次氏を迎えて行われました。高田氏と岩切氏にそれぞれの論文、「スーパーヒーローの概念史―虚構種の歴史的存在論―」(Vol. 3, No. 1, 170–222頁)および「創造と複製―芸術作品の個別化―」(同128–169頁)の内容やモチベーションを一般向けにわかりやすく伝えてもらったうえで、参加者との間でディスカッションを行いました。両氏の発表内容はVol. 3, No. 2でご確認いただけます。そちらをお読みになったうえで、ここにまとめたディスカッションをお読みいただけたらと思います。なお、当日のディスカッションでは、高田氏と岩切氏に対して順序関係なく質問がありましたが、ここではそれぞれに対する質疑応答をまとめて掲載します。また、ページ参照のある箇所は弊誌Vol. 3, No. 2からのものです。

ディスカッションの最後は思いがけず「ネタバレ問題」へと到達して、盛り上がりを見せています。なお、「ネタバレ問題」については、現代美学研究会主催、弊誌共催で新たなイベントが開催される予定です。 2018年11月23日(金) 大妻女子大学 千代田キャンパス 本館F棟632にて、登壇者は森功次、松永伸司、高田敦史、渡辺一暁の各氏、コメンテーターには稲岡大志氏を迎えます。ここでの議論はその「予習編」になっているとも言えますので、ぜひご確認のうえ、イベントをお待ちいただけたらと思います。

1 高田氏への質問と応答

「スーパーヒーロー」という概念の規定

参加者A
「スーパーヒーロー」という言葉の文献上の初出はあるんですか。

高田
それはけっこう微妙です。『スーパーマン』以前の用例は確認されていますが、現在とは違う意味で使っていると言われます。『スーパーマン』に影響を受けたキャラクターという意味での「スーパーヒーロー」の初出がどこかはわかりません。私が調べた限りでは、41年にすでにそういう用法がある。41年にコミックの描き方ハウツー本みたいなのに「スーパーヒーローを描きたいなら」みたいなフレーズが出てきている。

参加者A
では発表の中で38年とした根拠は。

高田
38年は作品『スーパーマン』が生まれた年で、そこに「スーパーヒーロー」という用語は出てこないんですが、今の「スーパーヒーロー」の用語は〈『スーパーマン』に影響を受けたキャラクターたち〉という意味で使われているからです。


38年に生まれたのは「スーパーヒーロー」という言葉で指せる対象ということですね。

参加者A
言葉自体が確認できているのが41年だと。

統語論的には「スーパーヒーロー」は「ヒーロー」に「スーパー」という形容がかかっていると解釈しますが、「ヒーロー」自体はギリシャ起源で、その後もずっと使われている。「スーパー」は超越性みたいな意味があるかと思います。「ヒーロー」と「スーパーヒーロー」の違いは何でしょうか。

高田
スーパーヒーローの定義に関しては〔試みが〕いろいろあるんですが、僕は定義できないのではないかと思っています。コミックブックというメディア自体は34年にできていて、そこからスーパーマンが出てくるまで4年しか経っていない。当時のスーパーヒーロー概念は、あえて言えば「スーパーマンに影響を受けた、コミックブックというメディアにおけるキャラクター」みたいなものです。「ヒーロー」という抽象的な内容にこれを足したら「スーパーヒーロー」になるといったものではなく、〔スーパーヒーローという概念は〕個別的なメディアに結びついたかなり特殊なものだということです。

参加者B
「スーパーヒーロー」という言葉の「スーパー」という部分は「スーパーマン」からきたということでいいんですか。

高田
そうではないです。「スーパーヒーロー」で固有名詞化している。英語では「super hero」という二単語ではなく「superhero」という一単語になっています。

参加者A
「スーパーヒーロー」が日本に輸入された時点というのがあると思います。日本の側でも〔その後発展したものを?〕そのまま「スーパーヒーロー」と呼べるのか、「正義の味方」のような違うものに近いのか、どちらなのでしょう。

高田
「スーパーヒーロー」の定義をやっている人たちはいて、それは論文の中で紹介しているんですが、私はそういう抽象的な定義が立てられるとは思っていないんですね。
〔スーパーヒーローには〕いろいろな特徴があって、日本のものも基本的な特徴は似てはいる。人間以上の力をもっているとか、コードネームをもっているとか、特別な衣装を着ているとか。でも違いもあります。日本のスーパーヒーローは変身するがアメコミのほうはそうではないというようなことです。ジャンル自体が日本とアメリカで二分していて、同じ「スーパーヒーロー」の語で呼ばれていても、本当に同じものなのかどうかはわからない。
この論文ではスーパーヒーローの概念を一切定義しようとせず、なぜ人々は一群のキャラクターを同じスーパーヒーローという名前で分類するのかを追うことに専念しています。

アメコミの場合はなぜスーパーヒーローが虚構内的概念になったのか

参加者C
スーパーヒーローという概念が虚構内でも使われるようになるというのは面白くて、他に探そうと思ったのですが、なかなか見つからない。たとえば日本の特撮のスーパーヒーローの場合もいろいろなヒーローがみんな集まって、という回はあるが、自己言及的なものにはなっていない。日本の場合は子供向けだから複雑なことをやらない、という事情もあるかもしれないですが、アメリカの場合にそれが成り立った事情はあるのでしょうか。

高田
なぜ定着したかは僕もわからない。日本の場合でも単発では同じようなことがあって、オールスター映画などでは、仮面ライダーやプリキュアが集まって、「俺たち仮面ライダーだから」とか「私たちプリキュアだから」みたいなことを、普段の作品では「仮面ライダー」という言葉を使わないくせに、突然言い出すわけです。アメコミの場合はそれが常態化していて、それはユニバース制度のようなものができたからだと思います。
だんだん時が経ってくるとジャンルの中にジャンルが繰り込まれるという現象自体はいろんなものにあって、ホラー映画でもメタ・ホラーのようなものが出てきて、ホラー映画の登場人物がみんなホラー映画を見ていてホラー映画に詳しくて、ホラー映画のジンクス(夜中プールに行くとやばい、とか)を言い始めて、というのはあるけれど、それが当たり前の状態になっているのは珍しくて、それはユニバースのようなものができたせいなのではないかと思っています。

参加者C
ユニバースは独特ですよね。いろんな作品が全部いっしょになったら、という発想自体はいろんな人が抱きがちだけど、そういうものは普通定着しないですよね。

高田
実際作るのはたぶん難しいと思います。映画でも結局マーベルぐらいしかうまくいっていない、という話もありますね。DCはうまくいっていないし、ダークユニバースというユニバーサルのモンスター映画のやつがあったんですが、それも1作目でこけた。そんなに簡単にいくものではないのではないか、と思います。

参加者C
逆に言うとなんでマーベルはそんなにうまくいったのでしょう。

高田
スーパーヒーロー像が変わった、みたいなのと本当はリンクしていて、ただ作品をつなげればよいという話ではなくて、ジャンル全体に対するメタな楽しみ方をセットにしないとうまく回らないというのが本当はあるんじゃないかな、と思います。

虚構内的概念の使用を描くことにはいまだメタ的・パロディー的な意味があるのか

参加者B
ルーク・ケイジの例〔274頁、図2〕では先ほど笑いが起きて、笑えるんですが、笑いを意図したものとして出しているのでしょうか。

高田
パロディーとしての視点はたぶんあると思うんですけど、1970年代ぐらいからこれがむしろ当たり前のことになっています。自分で衣装を作るシーンはだいたいあります。

参加者B
メタレベルのときはある種のパロディーというか、標準からのずらしでやっている感じだと思うんですが、常態化するともうメタではなくなっていて、ジャンルの中に組み込まれている、という感じでよいのでしょうか。それともまだメタ的なものとしてそういう表現があるのでしょうか。

高田
それは難しいですね。メタ的な面白さもある気がするんだけど、表現としては一般化しているという感じがあるのかな。


最近の作品の物語世界の中では「変な格好をしている」という含意はあるんですか。

高田
昔は衣装について何も言わないけれど、最近の作品では、むしろそうしたメタな発言がわざとでてきて、それがかっこいいという感じがありますね。

岩切
こういうのは作品外で作者が読者に語りかけている(完全にメタである)のではなくて、完全に作品内に落とし込まれているということでよいのでしょうか。

高田
持ち込まれているとは思うのですが。

参加者B
メタフィクションっていうのは本来作者と読者の関係であるものが、キャラクター内部の者が言っている、ということで、そうであるのは確かなんじゃないですか。それがどういうふうに機能するか〔が問題ではありますが〕。

高田
読者に対する目配せはあるだろうとは思います。

作品内の人々はスーパーヒーローをフィクションとして知ることがあるか


最初にフラッシュが2人出てくる作品(「二つの世界のフラッシュ」)があるじゃないですか。1人のフラッシュが先代のフラッシュがいる世界に行って、コスチュームのまま行くんだけど、そこでホットドッグかハンバーガーか何か売っている店員に「お前はなんでそんな変な格好してるんだ」と言われる。あの世界の人たちの間には「スーパーヒーローというのは変な格好している奴だ」という共通認識がもしかしたらないんじゃないか。

高田
ないと思います。それはやっぱり時代的にユニバース形成前なので、スーパーヒーローがいるのが当たり前って世界にはなっていない。60年代のマーベルだとスーパーヒーローが出てきたときにそのへんの普通の人が「また新しいスーパーヒーローか」みたいなことを言ったりする。


我々現実世界の人たちがもっているスーパーヒーロー概念からしたら、スーパーヒーローというのはあくまで作り物、フィクションなんだけど、中〔虚構世界内〕の人たちのスーパーヒーローの理解の仕方はちょっと特殊で、「その世界にいて相互関係できるような存在」としてとらえている。ただそこにたぶんもう1個特殊な理解の仕方が混ざってる気がしますね。中の人たちは、読み物としてもスーパーヒーロー概念を理解しているんです。フラッシュの場合はそのへんが変なぐあいになっている。別の世界に行ったフラッシュは「俺が読んでいたあの人がいる」のようなことを言っていて、そのへんが混乱していて面白いですね。

参加者B
「虚構内的な虚構外的概念」みたいな。

高田
マンガの中にマンガが出てくる場合はそうなりますね。

岩切
ユニバースとかだとニューヨークの人は隣人としてスーパーヒーローを知っているということで、コミックを通して知るわけではないということですか。

高田
マーベル・ユニバースにマーベル・コミックはあるのかというのは今一つ一貫していなくて、あるようにも見える。マンガ読んでるときもあるんだけど、実話が描かれたマンガが売っているのかどうかはよくわからない。


〔実話だったら〕フィクションじゃなくてレポートになっちゃう。

参加者B
スーパーヒーローが活躍していることを虚構内の人々が知る場合にはどうやって知るんですか。


ニュースですよね。「バットマンが現れました」みたいなのがニュースに出るでしょ。

高田
作中でノンフィクションとしてスーパーヒーローコミックスが売っているみたいな描写があるときもあります。そこは今一つ一貫はしていないんですけど。

参加者D
描いている人は年代によって全然違う人だからつじつまが合わないことも出てくるでしょうね。

高田
そうですね。

ハッキング的な手法の「分析哲学」や「分析美学」という哲学カテゴリーへの適用可能性

参加者E
高田さんの今回の概念史のハッキング的な手法というのは、フィクションのカテゴリーとかジャンルの変遷を追う際に有効じゃないかというお話だったと思います。分析哲学・分析美学という哲学のカテゴリーの変遷に関してもこれは使えるんじゃないかとも思うのですが、分析哲学の概念史のようなものをやるおつもりはないのでしょうか。

高田
面白いとは思うんですが、大変ですよね。笠木〔雅史〕さんのやっていることはそれに近いですね。分析哲学という言葉の意味はだいぶ変わっているという話はよくされています。

参加者E
ちなみに「分析美学」という言葉の初出はいつなのでしょう。

岩切
1950年代では今分析美学の主流の雑誌では全然分析美学はやっていない。むしろ、Journal of PhilosophyとかMonistとかで分析哲学者が美学について論じている。分析美学をやっています、というような人はいなかったと僕は思ってます。


アメリカ美学会は昔はもっと雑多な学会だったのだが、徐々に哲学者に侵食されていって最近は分析美学者っぽい人しかいなくて、それはむしろよくないと言われている。

参加者D
ハッキング的な手法の応用例としては『概念分析の社会学』がありますよね。哲学というジャンルへの応用としては、ハッキング自身の『言語はなぜ哲学の問題になるのか』

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