Vol. 4, No. 1の内容紹介(第2回)

前回(http://philcul.net/?p=861)に引き続き、フィルカル最新刊『Vol. 4 No. 1』の内容をご紹介いたします。

哲学への入門

  • 「デヴィッド・ルイス入門 第4回 フィクションにおける真理」(野上 志学)
  • 「時間論入門 第1回 永久主義・現在主義・成長ブロック説」(大畑 浩志)

哲学への入門記事、今号は、野上氏による「デヴィッド・ルイス入門」の最終回と、新たに連載がスタートしました、大畑氏による「時間論入門」の二本立てでお送りしています。

はじめに、過去3回にわたるルイス入門記事の概要を簡単に振り返っておきましょう。第1回記事(Vol. 2 No. 2)では、基礎編として、ルイス哲学全体の根幹を担っている「可能世界」理論の内容を紹介しました。「何かが可能であるとはどういうことなのか」という問題に対し、可能世界という概念を使って、ルイスがどのような説明を与えたのかを確認しました。そこでルイスによって特徴づけられた可能世界のあり方は、一見すると非常に奇妙なものでした。しかし、この可能世界概念が、じつはさまざまな応用可能性をもっているということが以降の記事で徐々に明らかになっていきます[1]。第2回記事(Vol. 3 No. 1)では、この可能世界概念を用いると、反事実条件文と呼ばれるようなタイプの文(「もしAだったら、Bだっただろう」)に対し、クリアな分析を与えられることが確かめられました。ただ、反事実条件文を分析できるということのメリットは、それほど自明なことではないかもしれません。このことの意義がより明確な仕方で「現金化」されたのが、因果性を扱った第3回記事(Vol. 3 No. 2)です。ルイスは、因果言明(「CがEを引き起こした」)を、反事実条件文(「もしCが起きなかったら、Eは起こらなかった」)として、さらにこの反事実条件文は、可能世界間の類似性によって分析できると考えました。可能世界という一見奇妙な概念は、因果という哲学上の重大トピックを理解するための新しい視座を与えるものであることが、この記事の中で確かめられたのでした。

さて、最終回となる今回は、可能世界理論の射程の広さを確認するための、言わば、応用編第三弾です。ルイスの「フィクションにおける真理(Truth in Fiction)」(1978)論文[2]を取り上げ、フィクションにおいて何かが真であるという事態が、可能世界概念を使うと、どのように分析可能なのかをご紹介します。「フィクションFにおけるP」を反事実条件文として読み、さらにそれを可能世界概念によって分析するという流れとなっているので、第1回記事と、第2回記事の前半を復習しながら読んでもらうと、理解がより深まるでしょう。

また記事の最後には、4回の連載では触れられなかった、ルイスの心の哲学、性質論、メタ倫理についての詳細な文献紹介もあります。ルイスの仕事の全容を把握するうえでも、今回の記事は、有益な資料になるはずです。

哲学入門記事、2本目は大畑氏による時間論入門(全3回を予定)です。「時間」というテーマは、古くから哲学の重大トピックであり続けてきましたが、現代の時間論における議論の文脈を作ったのは、イギリス観念論者であるジョン・マクタガートと言っても差し支えないでしょう。マクタガートは、「時間の非実在性」(1908)という論文において、時間には、過去・現在・未来という時制の区別によって記述される側面(A-系列)と、出来事の前後関係および同時関係によって記述される側面(B-系列)があることに着目しつつ、「時間は実在しない」という驚くべき主張を、説得力ある論証とともに提示しています[3]。大畑氏の入門記事はまず、このマクタガートの議論を丹念に追うところからスタートします。

マクタガートの論文は、とうぜん大きな反響を呼びました。しかし今日、ほとんどの哲学者がマクタガートの「時間は実在しない」という主張を受け入れていません。実は、マクタガートの論証をどのように拒絶するかによって、(大畑氏の言葉を借りれば)「現代の時間論のバトルライン」は形成されていると言ってよいのです[4]。記事の後半部分では、1、あらゆるものが永久に存在し続けると考える「永久主義(eternalism)」2、現在のみが存在すると考える「現在主義(presentism)」3、過去と現在が存在し、未来は存在しないと考える「成長ブロック説(growing block theory)」という三つの立場の特徴を、それらが抱える課題とともに、詳細に紹介しています。この記事を読むことで、読者は、現代の時間論に関する便利な見取り図を獲得することができるはずです。

文化の分析哲学

  • 「写真の「透明性」とデジタルの課題」(銭 清弘)
  • 「ビデオゲームの統語論と意味論に向けて: 松永伸司『ビデオゲームの美学』書評」(三木 那由他)
  • 「差異の認識と認識的変容」(佐藤 邦政)

文化の分析哲学記事に寄稿された3本の論考の主題は、それぞれ、写真の美学、ビデオゲームの美学、徳認識論(認識的変容)です。

銭氏の論考は、K.ウォルトンが「透明な画像: 写真的リアリズムの本性について(Transparent Pictures: On the Nature of Photographic Realism)」(1984)https://www.jstor.org/stable/2215023?seq=1#page_scan_tab_contentsで展開した主張を擁護し、さらにその今日的意義を示そうとするものです。ウォルトンはこの論文で、写真は透明であるという「透明性テーゼ」を掲げています。それによれば、われわれは、写真を通じて「文字通り」被写体そのものを見ているというのです。「視覚の補助」をなすという意味においては、写真は、手製の絵画やスケッチよりも、むしろ、メガネや望遠鏡により近いものだということになるでしょう。銭氏は、まず論考の前半部で、このウォルトンの「透明性テーゼ」のポイントが「客観性」と「類似性」にあることを確認し、更に「透明性テーゼ」に対してなされうる反論[5]を検討しています。これを踏まえ後半部は、この「透明性テーゼ」が今日の私たちを取り巻く状況においてなお有効なものでありうるのかが問題とされています。というのも、「デジタル写真」が登場し、誰にでも容易に写真加工が可能になっているいま、写真経験は、ウォルトンの論文出版当時ほど「現実的」なものではなくなっているようにも思われるからです。けれども銭氏は、こうした「デジタルの挑戦(Digital Challenge)[6]」の時代にあってもなお、ウォルトンの「透明性テーゼ」は有効であり続けていると論じています。

三木氏の論考は、昨年10月に刊行されて以来、各方面に大きなインパクトをもたらし続けている、松永伸司氏の『ビデオゲームの美学』(慶應義塾大学出版会、以下ビデ美)についての(36ページにわたる!)本格的な書評論文です。

一言でいえば、ビデ美は、ビデオゲームを記号論的に分析することを目標とした本です[7]。もしビデオゲームが(言語と同じように)一つの記号体系をなしているならば、ビデオゲームは、それ独自の統語論や意味論を持っていることになります。それらは果たしてどのようなものになっているのかが、ビデ美(の主に第二部)では考察されています。

もうすこし補足をしましょう。統語論(syntax)とは、個々の記号同士の関係を支配する規則についての研究を行う記号学の一分野です。統語論は「I like cats.」のような文法的に正しい文と「Like cats I.」のような非文とを区別するものが何かを明らかにしていきます[8]。それに対し、意味論(semantics)とは、記号とそれが表す内容との関係を研究する分野です。松永氏は、ビデオゲーム(例えば、スーパーマリオ)のディスプレイに登場する、マリオや、土管や、キノコもまた(単語に相当するような)一つの記号であり、またそうである以上、記号同士の関係(例えばマリオとキノコ)を支配する規則や、記号とそれが表す内容との関係(例えば、画面のマリオは何を表象しているのか)についての理論を考えることが出来ると言うのです。

三木氏は、ビデオゲームに統語論と意味論を与えることが出来るという主張に同意を示しつつ、松永氏が提示した理論には二つの修正すべき点があると主張しています。ひとつは統語論が不十分であること、もうひとつは松永氏の言う「意味論」は別の観点から捉えられる必要があることです。三木氏はこれらをカバーするべく、複合的記号の統語論を補い、松永氏の言う虚構的「意味論」とゲームメカニクス的「意味論」がそれぞれ、実は語用論と準因果的情報関係なのではないかという提案を、言語哲学の専門家の立場から具体的に展開してみせています。内容的に批判を含んではいるものの、松永氏の試みをさらに前進させようとする、いわば「ラブレター」的な書評論文となっています。

佐藤氏の論考は、障害者と健常者とが共生していく中で求められている「合理的配慮(reasonable accommodation)」、すなわち、「個々の障害者の具体的なニーズや選好を把握し、障害者が被っている社会的障壁を除去する」ことはどうしたら可能なのかについて、現代認識論を理論的背景として考察を行うものです。佐藤氏はまず、論考の前半部で、近年の障害学研究をサーベイし、異質な他者との共生がどのように特徴づけられてきたのかを押さえます。そして、障害者との共生において、障害者と実際に関わり、お互いの差異を認識するための徳を身につけ、認識的に変容していくことの必要性が確認されます。それを受け、論考後半部では、こうした差異の認識に基づく認識的変容が、具体的にどのようなルートによって達成されることになるのかについて、二つの方向性を提示しています。一つは、障害者のニーズや選好といった「差異内容の認識」によって生じる認識的変容です[9]。二つ目は「差異の存在の認識」によって生じる認識的変容です。この論考を通じて、佐藤氏は、差異内容の認識を更新していくなかで相手との摩擦を減らし理解を深めていきつつも、理解が進んだからこそ見えてくる他者の原理的な「わからなさ」を受容していくことこそ、共生において求められる認識的変容なのだと主張しています。

(第3回に続く)

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フィルカル編集部
谷田



[1] ただし、ルイスとは別の仕方で可能世界概念を特徴づけることも可能であること、そしてルイスのやり方が反事実条件文の分析や因果分析に応用可能な唯一のやり方というわけではないということは、押さえておきましょう。

[2] Philosophical Papers Volume Iに収録されています。http://www.oxfordscholarship.com/view/10.1093/0195032047.001.0001/acprof-9780195032048)

[3] 2017年に、永井均氏による翻訳が刊行されています。http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211898

[4] マクタガートは、(i)時間の基礎をなすのはA-系列であるが、(ii)A-系列は矛盾を含んでいるから、時間は実在しないと論証しています。この手続きのうち、(i)を拒絶する立場が「無時制理論」、(ii)を拒絶する立場が「時制理論」と呼ばれます。永久主義は前者、現在主義と成長ブロック説は後者に属します。

[5] 銭氏がここでメインでとりあげている反論は、写真の生成プロセスに、作者の意図や信念が関与する以上、「写真は『客観性』の条件を満たさない」というタイプのものです。時代の前後はあるものの、Snyder and Allen(1975)Photography, Vision, and Representationhttps://www.journals.uchicago.edu/doi/abs/10.1086/447832?mobileUi=0&)がこのタイプの反論の代表として挙げられています。

[6] 「デジタルの挑戦」については、Gooskens (2011)のThe Digital Challenge: Photographic Realism Revisitedが参照されています。こちらからpdfをダウンロードできます。http://proceedings.eurosa.org/3/gooskens2011.pdf

[7] 三木氏は、ビデ美の第二部「一つの画面と二つの意味」を「理論上の心臓部」と位置づけ、議論をここの箇所に絞っています。ただビデ美では、この他にも、ビデオゲームの定義や、虚構世界論、プレイヤーの行為といった、様々なトピックが扱われています。詳しくは、慶應義塾大学出版会のHPをご覧ください→http://www.keio-up.co.jp/np/detail_contents.do?goods_id=3928

[8] チョムスキーは、『統辞構造論』のなかで、言語Lの統語論の目標を「Lの文となる文法的なシークエンスをLの文とならない非文法的なシークエンスから区別し、文法的なシークエンスが持つ構造を調べること」としています。「Lの文法的なシークエンスのすべてを生成し、非文法的なシークエンスのいずれも生成しない装置」としての文法を追求するのが統語論ということになるでしょう。この点、三木氏の論考を参照しています。

[9] この箇所で佐藤氏は、差異に対する感受性を性格徳とみなし、徳認識論の知見を大いに参照しています。

レポート:東京堂ホール・トークイベント「哲学者と編集者で考える、〈売れる哲学書〉のつくり方」(2019年3月10日)

3月10日(日)、東京神田の東京堂書店内にある東京堂ホールにて、弊誌編集長長田怜の登壇したトークイベント「哲学者と編集者で考える、〈売れる哲学書〉のつくり方」が、オンガージュ・サロン主催で行われました。近年、ポピュラー哲学と呼ばれる従来とは異なるタイプの一般向け哲学書が次々とベストセラーとなり、哲学書の「売れ方」の新しい局面が目立ち始めています。『フィルカル』では、これまでにないこの動向に対し哲学研究者には何ができ何をするべきなのかを考えようと、4-1号にてポピュラー哲学特集を組みました。当日のイベントではこのポピュラー哲学特集の執筆者三名に加え、編集者二人を招き、精力的に発表と議論がおこなわれました。

登壇者は、弊誌編集委員で4-1号掲載のポピュラー哲学特集を企画した稲岡大志さん(現在は大阪経済大学)、マルクス・ガブリエルブームを牽引する堀之内出版から小林えみさん、我が国における分析哲学の出版物を常にリードし、分析哲学という分野そのものを開拓してきた勁草書房から山田政弘さん、さらに数々の人文・社会系ブックフェアを成功させてきたことで知られる酒井泰斗さん(ルーマンフォーラム/ブックフェアプロデューサー)、現役の哲学研究者でありつつ企業に籍を置くマーケティングの専門家である朱喜哲さん(大阪大学/マーケティングプランナー)という、いまこのテーマでやるならこれしかない、と言えるくらいの豪華メンバーです。それでは、当日の様子をかいつまんで紹介していきます。(なお、紹介文の最後には、会場ではお答えできなかったウェブ上でのご質問に対して、登壇者の方たちからの回答が寄せられています。ぜひ最後までお読みください。)

最初に朱さんが全体的なブリーフィングを行いました。朱さんはまず「売れる哲学書」とはなにかという話から始め、具体的に「売れた」哲学書や一般的な哲学研究書の例とそれぞれの販売部数をあげていきます。そのうえで、研究者と出版社では哲学書の販売部数に関してそもそもかなり感覚の違いがあると指摘します。研究者はどうしても出版を研究業績、いわば「出せばよいもの」と思いがちなので数百部規模で考えますが、出版社は採算を意識して数千~数万部というスケールで考えます。一方で両者には突き詰めて話し合ってみると実は「持続可能性」という点で共有できる意識があることもわかり、「売れる哲学書」を持続可能な哲学書と捉えることで、ともに「売れる哲学書」を共通の目標にできる、といいます。ここで持続可能性とは、研究者にとっては当該分野における研究の、出版社にとっては(その分野の)出版ビジネスを継続していける可能性のことです。さらにこうした持続可能性を確保できる最低限の目安として、出版部数1,500部、出来高(単価×販売部数)5,000,000円という具体的な数字をあげられました。

続いて弊誌編集長長田から、近年のポピュラー哲学の隆盛と関連づけるべく、三年前のフィルカル創刊の三つの背景について簡単な説明がありました。第一の背景は、分析哲学と大衆文化の一般化です。分析哲学はもともとドイツ語圏やフランス語圏の哲学に対し、英語圏の哲学として知られていましたが、現在では世界中どの地域においても広く研究されています。また、誕生期には論理学・数学・自然科学を主な研究対象としていましたが、現在ではかなり広範な領域(ほぼすべての哲学的テーマ)にわたって研究が行われています。一方、最近いわゆるインテリ層がアニメ、マンガ、ゲーム等の大衆文化を積極的に楽しみ、語るようになっているという一般的な傾向が見られます(これは哲学科の大学院生などに限ってもここ十数年で特に目立って感じられます)。この二つの「隆盛」をもとに、プロの批評家ではなく分析哲学の専門家が、哲学以外の文化的事象一般を批評的に論じてみようという試みがフィルカルを生んだというわけです。

第二の背景は、分析美学の存在感が近年ますます大きくなっている、という事実です。分析美学は、分析哲学の手法や概念を用いて美学的概念を研究する分野ですが、このところ日本語でも刊行物が相次ぎ、若手研究者の数も増えてきています。フィルカルスタッフにはこうした若手分析美学者が数多くいて、投稿原稿のかなり綿密な査読をしてくれたり、あるいは原稿検討のための研究会を開いてくれたりしています。そして美学がそもそも文化事象の批評を哲学的に行うにあたって強力な武器となるのは言うまでもありません。

第三の背景は、執筆者、読者、書店や出版社の方々などの「優しさ」です。創刊以来編集部が常に感じ、感謝しているのは、こうしたコンセプトをもとに雑誌を立ち上げようとしたときに、こちらが思っていた以上に多くの人々が好意的な反応をしてくださり、また応援してくださっている、ということです。今後はもっともっと多くの人に読んでいただいて、誌面を充実させたり、イベントを企画したり、応援してくださる「サポーター」とも言うべき方々に恩返しできるようにしていきたい。そうしたコメントで長田のトークは締めくくられました。

次の登壇者は稲岡さん、小ネタを挟みながら場を巧みに盛り上げつつ、なぜポピュラー哲学を特集しようと思ったのか、その企画意図をわかりやすく説明する手並みはさすがです。稲岡さんによれば、ポピュラー哲学とは、主に哲学の非専門家が哲学の非専門家である読者向けに書いた哲学書に象徴されるような哲学のことです。2010年の『超訳 ニーチェの言葉』(白取春彦訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン)の大ヒットを皮切りに、現在までポピュラー哲学書のブームが続いています。この新しい動きの背景となっているのが、それ以前の、もしくは潜在的に存在していた1.自分探しブーム、2.プチ教養書ブーム、3.自己啓発・スピリチュアル系読者層、4.ビジネス界からの熱い視線、の四つの要因であると稲岡さんは分析します。そのうえで現在のポピュラー哲学は大きく分けて雑誌、教養書系、ビジネス書系、エンタメ系へと枝分かれしていると指摘します。

専門家のコミュニティの外にあるこうした「哲学ブーム」に対して、専門家である哲学研究者はどうするべきなのか。関わらない、というのもひとつの答えかもしれません。しかし哲学の「ライトユーザー」層は専門家が思っている以上に広い、と稲岡さんは言います。専門家による哲学の研究活動も教育活動も、哲学の「ユーザー」を増やすための「営業」活動として見るならば、ポピュラー哲学はこうした営業の商業的に成功した部門であると言えます。またポピュラー哲学へ関心をもつことで専門家は自分たちの研究の社会的発信や波及効果のあり方について学ぶことができますし、さらにポピュラー哲学の成功による哲学系書籍(より専門的なものも含む)の市場拡大も期待できます。こうした理由から稲岡さんは専門家もポピュラー哲学に積極的に関心をもっていくべきだ、とうったえました。

三番目は、酒井さんです。 ブックフェア、研究会、学術書などのプロデューサーとして、 研究支援というほかに類を見ない独自の活動を続けてきた酒井さんが、まずこれまでの活動の概要を説明してくれました。酒井さんは自らを人文社会系研究の成果に対する「消費者運動」の「活動家」であると紹介しました。その根本にあるのは、自然科学の成果が我々の日常生活のインフラを生み出していくように、人文・社会系の思想も我々の社会のインフラを作っている、人は意識せずともつねに思想に従って行為している、という考えです。このように消費活動として思想の受容をとらえるなら、ほかの日常的な生産物の消費者運動と同様に、その生産過程に介入することで「生産物」のクオリティコントロールを行おうとするのは自然なことだ、と酒井さんは言います。

そこで具体的に過去に酒井さんが2014年に企画したブックフェア「実践学探訪:概念分析の社会学(エスノメソドロジー)からはじめる書棚散策」を題材に、生産者と消費者という観点から研究者と読者の新しい関係を構築した例が分析されました。一般的なブックフェアは、新刊の著者である有名人が、一般向けのやさしめの本を、自分のセンスの表現として選出する、というものです。これに対し酒井さんは、該当する分野全体において読むべき本、読んで間違いのない本を求めている読者層(コアな読書人)が広く存在していると考えます。実際、研究書というのは単独で読まれるものではなく、ほかの研究との関連で読まれるべきものです。そこで研究者のグループに、自分たちの研究を関連づけて読んでほしい本、自分たちの本を理解するために事前に読んでおくことが必要な本のネットワークを明示化し、紹介してもらうというアイデアにたどり着きました。これらのネットワークは研究者のあいだでは暗黙のうちに共有されており、論文中でわざわざ言及されることはありませんが、それこそが専門書にアクセスしたい読書人のハードルを正攻法で下げる情報なのです。そしてこうした明示化によって潜在的な読者の層を拡大し、本当であればその本が届いてよかったはずなのに届いていない人々へと本を届けることにもなる、と酒井さんは言います。実際この異例のブックフェアは異例の売上を残しました。酒井さんの視点は、徹頭徹尾社会関係のなかで研究やその成果の意味を捉える、というものです。研究とはどのようなものかという本質的な問題が著作の売り方の問題に直接つながり、具体的な成功例でそれを裏付ける、見事なプレゼンでした。

次は今回のイベントの司会もやってくださった朱さんの発表です。朱さんも『信頼を考える リヴァイアサンから人工知能まで』(小山虎編著、勁草書房、2018年)刊行記念(こちらも酒井さんプロデュースです)のブックフェア「リヴァイアサンから人工知能まで:信頼から始める書棚散策」を題材に、書き手が売り方に積極的にコミットして成功した事例を酒井さんとはまた異なる、マーケティングという観点から分析してくれました。具体的に朱さんが行ったのは、ブックフェア会場となった紀伊國屋書店さんから期間中毎週売上を報告してもらい、それをもとに主に売上の立っていない書籍について執筆者、推薦者にPOP作成やSNS上での宣伝を依頼、次週以降の売上データでこれらの施策の効果をみるというサイクルを六回繰り返す、ビジネスにおけるいわゆるPDCAサイクルを研究者自らが研究書について実践してみるという試みでした。

このように厳密にデータをとってみて、さまざまなことが明らかになりました。会場では各種グラフや数字をあげて実際に検証されていましたが、そのひとつは、SNSの影響力の圧倒的な大きさです。関連ツイートの三日後に売上があがるという明確な相関が全体的に見られましたが、POPの内容もSNSで発信することでさらに効果が高まることがわかりました。全体としてフェア内でツイートの多かったカテゴリは売上が大きかったということも明らかになりました。また、棚陳列、平積み、平積み+POPで比較すると、平積み+POPの売上が圧倒的に増えています。これはつまり、学術共同体において「お墨付き」の専門家によるリコメンドは明確な効果がある(特に初動において)、ということです。さらに興味深いのは、専門書に関しては高い本が売れないとはまったく言えない、という結果です。むしろ専門家による適切なリコメンドがあれば、フェアの終盤にかけて高い本ほど売れていく傾向があります。マーケティングのプロだけあって、朱さんによる数字とデータ分析による解説にはたいへんな説得力がありました。

続いてディスカッション、まずは編集者のお二人に研究者の側からの質問にお答えいただきました。そのうちのいくつかをご紹介します。

Q.『フィルカル』など哲学者側からのチャレンジは版元や出版業界全体のなかでどう位置づけられているのか?

「哲学の編集者とはいえませんので、以下、人文書にも携わる編集者という立場からわかる範囲でお答えさせて頂きます。また今回のイベントにかかわる所感は配布資料にまとめましたので、そちらをご覧下さい(「所感:2010年代の日本の商業出版における著者と編集者の協働について、営業担当者と書店との協働について」)。研究者には研究者にしかできないことがあるので、そういった点をどんどん発信していってほしいです」(小林さん)

「一般的に、編集者には限られた時間のなかでの出版点数の確保という問題があるので、内容や質の精査といった側面、ゲートキーピングをその分野により詳しい研究者が行ってくれるのはありがたいのではないでしょうか」(山田さん)

Q.そもそもアカデミックな研究者に期待することはなにか。

「あまり各方面に目配りしたり気を使ったりすると研究が「小さく」なっていく可能性もあります。自分の好きなことを積極的にどんどん研究してほしいです」(小林さん)

「最近の若手研究者は専門分化が目立つので、商業出版としては自分の専門を多少離れても大きな話ができる筆致を身につけていただけると助かります」(山田さん)

Q.「売れた本」というのは狙い通りなのか。

「通常の売れ行きに関しては、版元の努力である程度は売れるはずですので、その努力は版元の責任だと思って販促に努めます。それ以上のヒットに関しては外部要因が大きく、あらかじめの予測はできません」(小林さん)

「著者の過去の売上や分野ごとの規模感から、下限は予測できます。それ以上は偶然的です。弊社の「売れた」本に関して、初刷りから多めに刷ってあったものはあまりありません」(山田さん)

Q.分野ごとの規模感というのはどうやって知るのか。

「営業と書店との関わりや出版業界の横のつながりなどで情報収集します」(小林さん)

Q.そういった蓄積された規模感のない新しい分野の場合はどうなるのか。

「とりあえずその分野の翻訳を何点か出してみて様子を見るということはあります。また、必要だと考えれば粘り強く出版を続けることで日本でのその分野自体を開拓しようとすることもあります」(山田さん)

Q.ポピュラー哲学の読者が専門の研究書を読むようになるということはあるのか。

「ものによります。飲茶さんの本などは、科学哲学などを結構とりあげてくれているので、弊社の刊行物につなげてくれている可能性はあると思います」(山田さん)

「読んだ人がその分野全体へ興味をもったり、若い人が読んだ場合に進学先として選んだりなどの影響が考えられます」(小林さん)

ここで稲岡さんが発言し、大学のシラバスなどをみると、ポピュラー哲学書を入口にしてそこから専門家による入門書を読むなど、ポピュラー哲学書を段階的な導入に用いることで有効に活用している例が見られること、最近は研究者がポピュラー哲学のスタイルで書いたしっかりしたものが成功している例も見られること(津崎良典『デカルトの憂鬱』(扶桑社、2018年)、岸本智典編『ウィリアム・ジェイムズのことば』(教育評論社、2018年)、国分功一郎『NHK 100分de名著 スピノザ『エチカ』』(NHK出版、2018年)など)などをあげて、ポピュラー哲学による専門書への橋渡しが十分期待できることを指摘しました。

最後に、ウェブ上や会場でいただいた質問に登壇者が答える時間が設けられました。そのうちのいくつかを紹介します。

Q.フェアで一時的に売上がのびるのはわかったが、その後の持続的な影響はあるのか。

「それが直接わかるデータはありません。しかし、各フェアそれぞれについてフェアパンフレットを再現したWEBページが複数あり、そこからは継続的に売れていますし、書店の方はフェア終了後も全国の図書館や大学にフェア・パンフレットをもって営業しており、双方をあわせると、フェア期間中の書店店頭よりも多く売れているだろうと思います」(酒井さん)

Q.表紙やタイトルをポップなものにすると読者が手に取りやすいというのはあると思うが、出版社側はどのように決めているのか。

「基本的には編集者の好みが大きいですが、著者が強く希望を出して決まることもあります。タイトルは分野がなんであるかを明示したいときはポップなメインタイトルにサブタイトルで分野名をいれたりもします」(山田さん)

「書籍の内容や販売計画から考案します。著者も要望を言ったほうが良いです。タイトルは著者の要望と、読者、書店で置いて欲しい棚などを考えて総合的に決めることが多いです」(小林さん)

「ポピュラー哲学を出している出版社の本を見ていると、明らかに表紙やタイトルで売れるように様々な工夫を凝らしているので、学術出版社もそういった方向に冒険してみると面白いのではないでしょうか」(稲岡さん)

Q.ポピュラー哲学は非専門家による非専門家のための哲学入門書とのことだが、専門家が書いたものもあるように思える。どういう区分なのか。

「非専門家による非専門家のための、というのはおおまかな定義で、そうしたポピュラー哲学のスタイルというものがあり、それを専門家が真似て書いた場合はポピュラー哲学と言えると思います。ここでいうスタイルには表紙、タイトル、版元がどこか、といったことまで含みます」(稲岡さん)

「この点については『フィルカル』4-1の特集冒頭で企画者の稲岡さんが詳しく敷衍しています。ぜひご覧ください」(酒井さん)

ウェブ上には多数の質問をよせていただきましたが、会場では十分にお答えできませんでした。そこでその一部について、登壇者のみなさんからのお答えをここに掲載します。

Q.ポピュラー哲学書が売れる意義はわかったのだが、学術書が商業的に売れる必要はあるのか。

「《読まれる》と《売れる》が商業的にはほぼイコールですが、大事なのは《読まれる》ことだと考えているので、必ずしも商業ベースであるべきとは思っておらず、《読まれる》ためには研究者主体によるオープンアクセスなども可能性があると思っています」(小林さん)

 「確かに売れなくとも(商売の継続性を除いて)すぐにどうこうということはないが、量が積み重なると、質が変容する(高まる)ということはありますし、それがないと、全体としてまずいのではと考えています」(山田さん)

「この質問は、イベントタイトル内の〈売れる〉という表現の曖昧さと、ポピュラー哲学と専門的な哲学との関係を専門的な研究者たちがどう考えているのかに関する曖昧さの双方から出てきたものではないかと思います。後者については、専門的な哲学者の側の現在のステージがまだ、「専門的哲学者がこれまで考慮してこなかったポピュラー哲学との関係をきちんと考えたい」というくらいのところにあり、これに対する明確な方向性が示されたわけではありませんでした。前者については、会のなかでは「学術書もポピュラー哲学と同様に売れるべきだ」という主張がなされたわけではなく、述べられたのは、学術書にも「適正な・売れないと困る規模」がある、ということでした」(酒井さん)

Q.データ分析を行ったとしても、すぐにそれをフィードバックするのに耐えられない取次によるサプライチェーンの問題はどうすれば解決できるのか。コンビニができるきめ細やかな流通を出版業界はできてないと思う。

「例えば取次流通ではない直取引流通は手段の一つですが、直取引だけが唯一絶対の手法ではないと思います。コンビニとは扱う商品点数の桁や商品鮮度が違うので、それを「できていない」という比較にあまり意味を感じられません。ただ読者に対してストレスなく必要な書籍を届けられているか、ということに業界内も読者も合格点に達していない、という認識があることは確実で、意見や改善提案はされているところなので(直取引もそのひとつ)、それが実を結ぶといいなと思っています」(小林さん)

「おっしゃるとおりだとは思いますが、きめ細やかな流通を実現したところで、全体としてうまくまわるかはまた別のようにも思いますが、ちょっとそこらあたりの知見ははずかしながらもちあわせていません」(山田さん)

「データ分析とひとくちに言っても、分析対象となるビジネスごとに有効な手法は異なります。それはとりわけ対象ビジネスごとに介入できる単位と粒度が異なるからです。今回のPDCA事例でも検証して有望と思われる施策があっても商慣習上できないことがありました。一方で外からの分析者の示唆から商慣習を改訂できないか考慮してみることと、他方でそもそも出版商慣習とリソース具合にマッチした分析、PDCA手法を開発することは、同時に両輪で取り組めるのではないかと思います」(朱さん)

Q.出版社が出版点数を追うのは何故か。ブックフェアの成功が示唆しているのは「新刊じゃなきゃ売れないというのは幻想だ」ということではないのか。

「会社によって考え方は異なるので、違う場合もあると思いますが、《一般的に》新刊売上が既刊本を売るより経済的な効率は良いからです(弊社がそういう考え方をしているということではありません)」(小林さん)

「わたし個人としてはそのとおりであると思います。ただ、新刊を出すと、一気に売れますからね」(山田さん)

「「新刊じゃなきゃ売れないなんてことはなかった」というのは幾つかのフェアの経験にもとづいて私が述べたことでした。「幻想だ」というのはさすがに言いすぎですが、それでも「新刊なしという前代未聞のフェアが、にもかかわらず成功した」という事例を少数であれつくれたことは間違いありません。これを真面目に受け止めてくださる書店さん・出版社さんが増えることを期待したいと思います」(酒井さん)

「今回のイベントでの示唆のひとつに、ご指摘の点および出版社にとって「予想外に爆発的に売れ、以降は売れない(大量返品が出る)」本よりも「ある程度予想が立ち、安定的に売れる本」がありがたい、というものがありました。これを念頭に置くと、買い手や書き手たちが考えられる手法の幅は広がるだろうと思います」(朱さん)

Q.個人的には哲学書と自己啓発書が近づいているイメージがある。両者の違いについてどう考えているか。例えばその違いは、内容的な面なのか、著者なのか、出版社なのか。それともそんなに意識的に分けていないのか、など。

「読者対象の違いでしょうか。広く一般を想定するのか、学生・院生・研究者を想定するのか」(山田さん)

「「自分自身の認識や能力を向上させる」という本来の意味での自己啓発と哲学書はそもそも相性がよく、ポピュラー哲学書には自己啓発書として読まれることを想定して出版されたものも多いです(詳しくは本誌4-1号のポピュラー哲学特集をお読みください)。ですので、「哲学書と自己啓発書が近づいている」というよりは、哲学書の自己啓発的な側面に着目した(ポピュラー)哲学書や哲学書のテイストを織り交ぜた自己啓発書の出版が目立っている、という方が適切かもしれません」(稲岡さん)

Q.本を宣伝、販売するときの工夫(執筆者によるツイート、PDCAなど)に加えて、書籍の企画や執筆、編集の段階での〈売る〉ための工夫はあるか。

「あまりかわったことはしていないかもしれません。なにかあればいいのですが、勁草書房レベルの商売の規模において費用対効果の問題をクリアする方策がなかなかないというのが現状かと」(山田さん)

Q.ポピュラー哲学の本を、ガチな哲学書の読者を増やすためのツールとして生産するというのはありだと思うが、これまで哲学にふれてこなかった層ではポピュラー哲学の本でとどまる人のほうが多い気がする。ポピュラー哲学の本の影響力は実感しているか。

「影響力を実感しているかといわれると、あまり感じていないということになりますが、長期的には、裾野を広げることは絶対にあるので、期待しています」(山田さん)

「これはポピュラー哲学本ばかりの影響かはわかりませんが、ビジネスでも「哲学・倫理学」に向けられる視線が、ここ5年くらいでもかなり好意的ないし期待を帯びたものになっていると実感します。自分なりの仮説もありますが、この辺りはぜひ『フィルカル』特集をご参照いただければと思います」(朱さん)

「たとえば哲学教育の現場でポピュラー哲学の影響力(ポピュラー哲学本のおかげで哲学に興味をもった、など)を実感するかというと、正直それはあまりありません。しかし、ポピュラー哲学本でとどまる人が多いこと自体は悪いことだとは思っていなくて、とにかく哲学に触れる機会が増えることは重要だと思います。ただ他方で、「ガチな哲学書の読者」になる道をもう少し整備してもいいのでは(たとえば、橋渡しするレベルの本を増やしたり、そういう本をどのような順番で読めばいいかなど紹介したり)、とは思っており、『フィルカル』はそれに貢献していきたいとも思っています」(長田)

「ポピュラー哲学書の書き手には、それ自体で完結した読まれ方を想定してされている著者もいれば、より進んだ内容の哲学書への橋渡しを意図されている著者もいます。ただ、そうした著者の意図とは別に、教育現場でポピュラー哲学書を活用する試み自体はもっとなされてもよいと私自身は思います。実際に私はポピュラー哲学書を用いた授業を行っています。効果を分析する段階にはまだなく、あくまでも肌感覚レベルですが、手応えのようなものは感じています。教育現場でのポピュラー哲学書の活用は探求する意義のある課題だと考えています」(稲岡さん)

Q.「リコメンドをすれば高い本も売れる、むしろ売上数を増やすために安易に値段を下げる必要性が薄いのでは?」とのことだったが、結局高価な本を買う層は潜在的に購入意欲がある層で、その分野の人間なのではないのか。ライト層への普及に繋がっているのかが気になる。

「ブックフェアの結果をみるに、その分野の人だけともいえない成果があがっているように思います。ライト層をどう定義するのかにもよりますが、「教養人」とされる方々はいらっしゃって、そこに届けば、ありがたいです」(山田さん)

「マーケティング一般の知見として、売上を顧客ユニーク単位でみたならば、その大半がごく少数の顧客で占められている(少数顧客が売上の大半を構成している;パレートの法則)という構造が認められます。この傾向は商材の嗜好性が高いほど顕著で、今回は顧客ユニーク単位では分析できないデータ環境でしたが、単価と売れ行きから推定すると学術書は嗜好性の高い商材でしょう。そのため「(ボリュームゾーンである)ライト層が重要」という言説は、いちど疑ってみてもよいかもしれません。もちろん、通時的にみれば明日のヘビー層を育成するための活動は重要ですが、それは出版セクターだけに課されるべき任務ではないでしょう」(朱さん)

「これまでのフェアの経験からしても、〈潜在的に購入意欲がある層=その分野の人間〉とは必ずしも言えません。適切な仕方で情報の提示があればお金を出すつもりのある読書人層というのは実際におり、私がおこなってきたフェアでは、むしろそこをコア・ターゲットとして設定し、その層の要求に耐えうる情報を提供しようと試みてきました(だからこそ「読書人による読書人のためのブックフェア」と銘打ってきたわけです)。またヘビーな読書人も当初はライト層だったはずです。これまで私主催のフェアでは詳しめの紹介文とともに150〜200冊の本を一気に紹介していますが、これはもちろん、ライト層からヘビー層への橋渡しのことも念頭においています。さらにまた、ライト層には研究を指向している学部生・院生が含まれていることも重要です。ブックフェアのリストを頼りに数年間にわたって系統的な読書をおこなったうえで研究会の場に登場する若い研究者はすでに出現しはじめており、その意味で、ブックフェアはライト層と専門的研究者の橋渡しにもすでに実際に役立ちはじめています」(酒井さん)

Q.専門書を選ぶ層は著者が誰なのかについても注意を払い、大家の本を買いがちだと思う。『信頼を考える』の著者陣はみなさん若手(研究員、講師、准教授レベルという意味で)だが、売るに当たって危惧はあったか。また若手研究者の本を「売れる本」にする工夫はあるか。

「学術書の編集者としては、良い内容となるようにお手伝いするほかないとは思いますが、わかりきったことをあえてあげるとすると、大家が取り組まない、先進的、チャレンジングなものにして、話題になれば、ということでしょうか」(山田さん)

「『信頼を考える』については、出版企画を聞いた当初から「厳しいだろう」と想像していました。その点、ブックフェアを開催できてほんとうによかったと思います。なにもしなければ手にとってもらう以前に負けていた可能性が高い本ですが、フェアのおかげで、内容の広がりと面白さを、無理なく、そして充分にアピールすることができたと思います」(酒井さん)

「少なくともブックフェアにおけるSNS上での宣伝効果に限定した話ですが、大家の先生によるPOP告知より、当該分野で認められている「若手」が発信した際の方が効果が大きかったりもしました。それこそ「大家」も巻き込みながら、学術コミュニティにおいて信頼されていたり、評価されている「若手」を可視化することが、哲学マーケット全体の活性化という意味でも効果的なのだろうと思います」(朱さん)

会場ではいくつもの「ここだけの話」があったので、この記事では触れられていない面白い話題もまだまだ聞けました。フィルカルでは今後もポピュラー哲学関連のものを含め、様々なイベントを展開していきますので、ご期待下さい。また最新刊4-1号では、今回のイベントの登壇者が原稿を執筆していてイベント開催のきっかけともなったポピュラー哲学特集が掲載されています。こちらでは具体的な書名を多くあげてより突っ込んだ議論が行われていますので、是非手にとってみてください。

フィルカル編集部
佐藤暁

Vol. 4, No. 1の内容紹介(第1回)

おかげさまで、創刊四年目を迎えることになりました「分析哲学と文化をつなぐ」フィルカル。先日、3/31に最新刊『フィルカルVol. 4 No. 1』が刊行されました。今回は、その最新刊の内容をフィルカル編集部が簡単にご紹介致します(全3回を予定しています)。

「リズムの時間遡及的本性についての哲学ノート―「音楽化された認識論」への小さなインタールード―」(一ノ瀬 正樹)

一ノ瀬正樹東京大学名誉教授(現:武蔵野大学教授)が長らく研究主題として掲げ、取り組んでこられた「音楽化された認識論」に関する論考です。(一ノ瀬氏の「音楽化された認識論」については「「音楽化された認識論」の展開 ―リフレイン、そしてヴァリエーションへ―」http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/ron31/01-ICHINOSE.pdfをご覧ください)

「前と後に関しての運動の数」(『自然学』)というアリストテレス以来の定義、そしてそこで言われている「運動」がしばしば「リズム」と解されてきた(cf. アウグスティヌスの『音楽論』)点を踏まえつつ、「過去から未来へと一方向的に流れていく」ものとしての、常識的な時間理解が揺さ振りにかけられます。

一ノ瀬氏が着目するのは、規則性としての「リズム」の「本質的に遡及的」な性格です。例えば「タン、タッタッ」というリズムは、「タン、タッタッ」とリフレインされれば、それが三拍子であるように感じられますが、しかし「タン、タッタッ、タタ」と続けば、4拍子に感じられます。つまり、最初の「タン、タッタッ」というリズムがどのようなものであるのかは、未来にどのような音列が続くかによってはじめて定まることなのです。リズムは、次に続く音列のいかんによって、その意味を変容させる可能性につねに開かれた状態にあるのです(一ノ瀬氏は、こうした性格を「浮動的安定」というタームを使って表現しています)。

この洞察を手掛かりとし、さらにウィトゲンシュタインやダメット、グッドマンらを参照しつつ、一ノ瀬氏は「未来から過去へと遡及的に定まる」ものとしての新たな時間概念の可能性を探っています。

特集1: ポピュラー哲学

  • 「「ポピュラー哲学」で哲学するためのブックガイド」(稲岡 大志)
  • 「教養としての大学入試と哲学」(石井 雅巳)
  • 「『君たちはどう生きるか』をどう読むのか」(石井 雅巳)
  • 「キャラ化された実存主義:原田まりる『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』を読む」(酒井 泰斗)
  • 「哲学はいかにして「武器になる」のか?—山口周試論—」(朱 喜哲)
  • 「哲学の国」のポピュラー哲学:ミシェル・オンフレ『〈反〉哲学教科書』について」(長門 裕介)

今号の特集第一弾は、「ポピュラー哲学」です。

「ポピュラー哲学(popular philosophy)」とはそもそも何でしょうか。一概に答えることは難しいのですが、ここではOxford Companion to Philosophy (https://www.amazon.co.jp/Oxford-Companion-Philosophy-Companions/dp/0199264791)の「popular philosophy」の項目を参照してみたいと思います。そこで「ポピュラー哲学」は、

  1. 処世についての手引き(general guidance about the conduct of life)
  2. アマチュアによる哲学問題の考察(amateur consideration of the standard, technical problems of philosophy)
  3. 哲学の大衆化(philosophical popularization)

という形で紹介されています。おそらく「哲学」というタームで世間一般にイメージされているのは、1の意味でしょう[1]。2は(哲学のプロと対比された意味での)アマチュアによる哲学実践を、3は、逆に、哲学のプロによる啓蒙の試みをそれぞれ意味しています[2]

日本においても、『超訳 ニーチェの言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)が刊行されたとりわけ2010年以降、(哲学の専門家ではない著者によって書かれたという意味での)ポピュラー哲学書が書店でよく見かけられるようになりました。こうしたポピュラー哲学の一大ブームは果たして何を意味しているのでしょうか。そしてポピュラー哲学には、哲学の専門家による哲学研究と比べて、どのような意義があるのでしょうか。こうした問題意識のもと、今号では、ポピュラー哲学を大々的に取り上げて議論を喚起しています。

内容としては、1.我が国のポピュラー哲学書の出版動向を概観する記事と、2.(数多くあるポピュラー哲学書の中でもとりわけ個性的だと思われる)ポピュラー哲学本6冊の書評、の二部構成となっています。

稲岡氏はポピュラー哲学書を、教養志向系・エンタメ系・ビジネス書系・翻訳書の4つに分類し、それぞれのジャンルの特徴を、代表的な著作を紹介しながらわかりやすくまとめています(第二部で取り上げられているポピュラー哲学書は、石井氏が教養志向系、酒井氏がエンタメ系、朱氏がビジネス書系、長門氏が翻訳書のジャンルからそれぞれ、選出をしています)。2010年代のポピュラー哲学書を満遍なくカバーしているという点でも資料的価値の非常に高い記事です。また、最近の動向で見逃せないのが哲学の専門家によるポピュラー哲学書の執筆ですが[3]、稲岡氏の記事ではこのへんの事情についても触れられています。

書評として取り上げられているのは、以下の6冊です。

  • 『試験に出る哲学―「センター試験」で西洋思想に入門する』(NHK 新書)
  • 『バカロレア幸福論:フランスの高校生に学ぶ哲学的思考のレッスン』(星海社新書)
  • 『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)/『漫画 君たちはどう生きるか』(マガジンハウス)
  • 『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(ダイヤモンド社)
  • 『武器になる哲学』(KADOKAWA)
  • 『〈反〉哲学教科書』(NTT出版)

研究者たちの目には、こうしたポピュラー哲学書は果たしてどのようにうつっているのでしょうか。本誌のポピュラー哲学特集を通じて、また取り上げられている6冊のポピュラー哲学書を手に取ってみて、「ポピュラー哲学で哲学するとはどういうことか」ぜひ、みなさまにも一緒に考えていただけたらと思います。

特集2: 『映画で考える生命環境倫理学』

  • 「ハイデガー、ウォルトン、アリストテレス―虚実とアスペクト知覚の諸問題―」(横地 徳広)
  • 「人は人ならざるものと恋愛することができるのか―『シェイプ・オブ・ウォーター』と『エクス・マキナ』を題材に―」(山田 圭一)

今号の特集第二弾は『映画で考える生命環境倫理学』です。二月に勁草書房より刊行された『映画で考える生命環境倫理学』(http://www.keisoshobo.co.jp/book/b432307.html)のスピンオフ企画となっています。(同書で横地氏は、「生命環境倫理学とは何か―生命圏と技術圏」と「〈絶対戦争〉後の世界を考えること―『風の谷のナウシカ』とわれわれ」を、山田氏は、「人はAIと恋愛することができるのだろうか―『her/世界でひとつの彼女』と『エクス・マキナ』を題材に」をそれぞれ執筆されています。そちらも併せてご覧ください)

横地氏の論考は、K. ウォルトンの論文Fearing Fictions(1978)(https://www.jstor.org/stable/2025831?seq=1#page_scan_tab_contents)を取り上げ、その「ハイデガー的要素」を浮き彫りにするという意欲的な内容となっています。ウォルトンとハイデガーがともに、アリストテレス解釈・批判を重視していたという点を押さえつつ、横地氏は、丹念なテキスト読解を通じて、ウォルトン論文が持つ射程の広さを示そうとしています。ウォルトンという分析哲学のスターと、ハイデガーという大陸哲学のスターが、(アリストテレスを経由して)一本の線で繋がるという点も非常に重要なポイントです。

山田氏は、映画『シェイプ・オブ・ウォーター』と『エクス・マキナ』を題材に、人ならざるものとの恋愛の可能性を探究しています。この「人ならざるもの」ということで焦点が当てられているのは、(鶴の恩返しのように)「人間の形をしているが、実際は異なる種類の存在」でもなければ、(『美女と野獣』のような)「人間とは異なる姿をしているが、実際は同じ種類の存在」でもなく、両方の規定を含んだ「異種かつ異形の存在者」という、われわれ人間とは、生活形式を全く異にするような、そういった完全な「他者」です。そのような存在者を、われわれは、真に愛することが出来るのでしょうか。この哲学的問いに山田氏は、愛の哲学[4]や情動の哲学[5]の知見に目を配りつつ、2本の映画の解釈を通じて回答を与えようとしています。哲学研究者によってなされた優れた映画批評でありかつ愛の哲学、情動の哲学の入門にもなっています。

今回は、フィルカル最新刊Vol. 4 No. 1の内容紹介前編をお届けしました。次回更新は、次週を予定しております。フィルカル最新刊は、Amazon や一部書店にてお求めいただけます。「分析哲学と文化をつなぐ」フィルカル、是非お手にとってご覧ください。読者の皆様からのご意見・ご感想をお待ちしております。

フィルカル編集部
谷田


[1] 1に関しては「『哲学』という語で日常的に意味されていて、多くの人が哲学者から得られることを期待するが、多くの場合得られずに失望するもの」と書かれています。またこの意味での今世紀最大のポピュラー哲学者として、アランの名前が挙げられています。

[2] ラッセルの『哲学入門』(Problems of Philosophy)が、典型的なものとしてあげられています。

[3] 例えば『デカルトの憂鬱 マイナスの感情を確実に乗り越える方法』(扶桑社)は、ビジネス書系のテイストを持ちつつ、学術的にも信頼のおける入門書となっていますし、『ウィリアム・ジェイムズのことば』(教育評論社)は、形式やタイトルは『超訳 ニーチェの言葉』に倣いつつ、こちらも、専門家による優れた入門書となっています。

[4] “Love as a Moral Emotion”(D. Velleman)(https://www.jstor.org/stable/10.1086/233898?seq=1#page_scan_tab_contents)や『愛の哲学的構成』(伊集院利明)などが参照されています。

[5] 『情動の哲学入門』(信原幸弘著)、『はらわたが煮えくりかえる:情動の身体知覚説』(ジェシー・プリンツ著、源河亨訳)が参照されています。

Vol. 4, No. 1を刊行いたします。

分析哲学と文化をつなぐ雑誌『フィルカル』のVol. 4, No. 1を3月31日に刊行いたします。
400頁を優に超える大ボリュームの今号、巻頭を飾るのは一ノ瀬正樹氏による「音楽化された認識論」の哲学。
2つある特集のひとつ「ポピュラー哲学」では、『ニーチェの言葉』以降のポピュラー哲学書の流れを一望するガイドや、各種レビュー(対象は『君たちはどう生きるか』、原田まりる、山口周、オンフレらの著書)を掲載。
もうひとつの特集では『映画で考える生命環境倫理学』(勁草書房)の「スピンオフ」論文を2本収録。
今号は入門記事も2本掲載。デヴィッド・ルイス入門最終回のテーマは「フィクションにおける真理」、そして新たに時間論入門も始まります。
さらに「文化の分析哲学」枠にも、写真論、ビデオゲーム論、障害者との共生論、という中身の濃い論文を3本並べ、ドナルド・ジャッド「特種な物体」という現代アート批評における古典の翻訳も所収。

質・量ともに大充実の『フィルカル』Vol. 4, No. 1。
ぜひお手にとり、議論にご参加ください。

Amazon でご購入いただけます。

目次

特別寄稿
「リズムの時間遡及的本性についての哲学ノート」(一ノ瀬 正樹)

特集1:ポピュラー哲学
「​「ポピュラー哲学」で哲学するためのブックガイド」(稲岡 大志)
「教養としての大学入試と哲学」(石井 雅巳)
「『君たちはどう生きるか』をどう読むのか」(石井 雅巳)
「キャラ化された実存主義:原田まりる『ニーチェが京都にやってきて17 歳の私に哲学のこと教えてくれた。』を読む」(酒井 泰斗)
「哲学はいかにして「武器になる」のか?—山口周試論—」(朱 喜哲)
「哲学の国」のポピュラー哲学:ミシェル・オンフレ『〈反〉哲学教科書』について」(長門 裕介)

特集2:『映画で考える生命環境倫理学』
「ハイデガー、ウォルトン、アリストテレス」(横地 徳広)
「人は人ならざるものと恋愛することができるのか」(山田 圭一)

哲学への入門
「デヴィッド・ルイス入門 第4回 フィクションにおける真理」(野上 志学)
「時間論入門 第1回 永久主義・現在主義・成長ブロック説」(大畑 浩志)

文化の分析哲学
「写真の「透明性」とデジタルの課題」(銭 清弘)
「ビデオゲームの統語論と意味論に向けて: 松永伸司『ビデオゲームの美学』書評」(三木 那由他)
「差異の認識と認識的変容」(佐藤 邦政)

翻訳
​ ドナルド・ジャッド「特種な物体」(翻訳:河合 大介)

イベント
公開ワークショップ「ネタバレの美学」(発表者:高田 敦史、渡辺 一暁、森 功次、松永 伸司/司会:稲岡 大志)

報告
「哲学研究者が共同研究に関わること:アナログゲーム制作/研究プロジェクトの事例を通じて」(谷川 嘉浩、萩原 広道)

コラム
「​異世界って何なんだよと思ってなろう小説を読んでみたら異世界転移モノに俺だけがどハマリした 第2話」(しゅんぎくオカピ)

新刊紹介​
セオドア・グレイシック『音楽の哲学入門』(源河 亨)

投稿募集中

編集部では次次号(Vol. 4, No. 3)へ向け、分析哲学と文化をテーマとした原稿を募集しています。

投稿締切:2019年6月30日(日)
投稿先:philcul[at]myukk.org(「at」を「@」に変えてください)
原稿は、メールの件名に「フィルカル投稿」と明記したうえで、添付ファイルでお送りください。

投稿の詳細については「投稿募集」ページをご覧ください。
熱意のこもった原稿をお待ちしております。

レポート:ジュンク堂書店池袋本店トークイベント「スポーツの哲学へのいざない」

11月7日(土)、ジュンク堂書店池袋本店にて、弊誌主催のトークイベント「スポーツの哲学へのいざない」が開催されました。今回はそのレポートです。

このイベントはフィルカル最新号の「小特集:スポーツ」に連動したもので、登壇者はフィルカル編集委員でもある若手研究者、長門裕介氏(倫理学)と松本大輝氏(美学)のお二人です。それぞれ、スポーツを倫理学、美学の観点から分析することの面白さを語ってもらいました。トーク後のディスカッションではホールから次々に質問が飛び交い、イベント終了後に登壇者と参加者のあいだでさらに個別に議論が交わされている様子も見られました。この記事では、フィルカル編集部なりの観点から、当日の議論の内容をまとめてみたいと思います。

トーク中の長門裕介氏

長門氏のお話は、一言でいえばスポーツを「卓越性」という観点から分析するというものでした。我々はスポーツ選手を「偉大な」と形容したり、そのような人物になりたいと思ったりすることがあります。こうした事実は、我々がスポーツ選手を単にある特定の技術や身体的能力の水準が高い人として理解しているわけではない、ということを意味しているのではないでしょうか(実際、子供向けの「偉人」伝にはスポーツ選手が当たり前のように含まれていますよね)。スポーツ選手における卓越性とは、こうした「偉大さ」「立派さ」のことです。

この卓越性の面白いところは、もう一方でそれが単なる道徳的な美点とも異なる、ということです。というのも多少道徳的に問題を抱えた人物、私生活であまり好ましくない振る舞いをする人物であっても、偉大なスポーツ選手として称賛されることもまたありふれているからです(逆に、人格者として知られているスポーツ選手についても、同じくらいに人格者であるような市井の人々もいくらでもいるのだから、その人は優れたスポーツ選手だからこそその人格的な面も称賛されているのでしょう)。ではそれは具体的にどのような評価、称賛なのだろうか、我々は優れたスポーツ選手を称賛するとき、なにをしているのだろうか、そうしたことを考えるのが、スポーツにおける卓越性という独特な概念を倫理的な観点から分析する、ということです。

我々観客はスポーツ観戦を通じてこうした卓越性を目の当たりにしたいと思っているのだとは言えそうです。一方で我々は、競技においてどちらの選手が勝利するかを常に知りたいと思っているのも確かです。スポーツの試合では卓越している者同士が競い合って、選手(卓越者)のなかで誰が一番卓越しているか(卓越者のなかの卓越者)を知りたい、と思うのではないでしょうか。つまり、単純に考えると、卓越した選手=勝った選手であり、要するに我々は試合の勝敗を通してどちらがより卓越した選手であるかを知りたがっているのだ、ということになりそうですが、そうならないところがまた面白い点です。最近でもW 杯日本代表の対ポーランド戦での時間稼ぎのパス回しが話題になりましたが、勝ったけれどもなんらかの意味でフェアでなかったと評価され、「よい試合でなかった」と言われることはよくあります。勝つことが卓越していることと同じであるならば、勝ったのに称賛されない、ということは原理的にありえないはずです。このとき、勝利と卓越性の関係はどのようなものになっているのでしょうか。

ひとつには、こうした「よくない」試合は、勝利によって卓越性がうまく示されていない、負けたほうが実は卓越していたかもしれない試合だからよくないのだと考える手があります。これは、勝敗とは独立に卓越性というものが決まっていて、我々は勝敗を通して間接的に卓越性を知りうるが、それがうまく機能しないこともある、と考えることになります。一方で、あれはそもそもよくない試合ではなかった、「勝った方が強いのだ」、という見方もあるでしょう。このように考えるときには、卓越しているとは勝ったということだ、と逆に勝敗によって卓越性を定義していることになります。このとき、勝敗とは別に卓越性というものが存在しているわけではありません。さらには、卓越性は勝敗とは別のものであるが、あらかじめ決まっているわけではなく、実際の試合での勝敗によってその都度創られていくものだ、と考える両者の中間のような立場もあります。我々は実際の試合を通して卓越性とはなにかを理解し、あるいは何が卓越していることなのかという基準を新たに創造したり修正したりしていっているのだという考え方です。

以上の三つの考え方は、たとえば裁判における判決の意味とは何かという問題にもパラレルにあてはまるような、より一般的な問題の一例になっています。もっと話を広げてしまえば、哲学における実在論、反実在論といった議論(大雑把に言って、何かが我々人間の行為、認識、言語といったものから独立に存在するか否かといった議論です)に当然かかわってきます。このように長門氏の発表のポイントは、スポーツにおいて目指されている卓越性とはなにかという問題が、卓越性と勝敗の「存在論的な」関係をどう捉えるかという問題にたどり着くということを示す点にあったように思いました。

トーク中の松本大輝氏

二人めの登壇者、松本大輝氏はスポーツにおける「華麗なプレー」とは何かをテーマに、分析美学の観点から話をされました。スポーツにおいて存在する様々な美のうちのひとつに、「華麗なプレー」が含まれるのは間違いないことでしょう。こうした美しさ、華麗さとは結局のところなんなのでしょうか。

選手の身体動作のもつ特徴(リズム、スピード、正確さ、ダイナミズムetc.)がプレーの「素晴らしさ」や「華麗さ」において重要であるというのは間違いないでしょう。しかしそれだけでしょうか?たとえば競技としてのフィギュアスケートと、エキシビションでは、評価の基準が異なりますが、原理的には全く同じ演技をすることが可能です。このとき同じように四回転ジャンプをしたとしても、我々がそこに感じる「華麗さ」には違いがあるのではないでしょうか。そこで行われている身体的動作はまったく同じであり、その身体的な難易度もまったく同じであるにもかかわらず、です。このことは、華麗さが、純粋に身体的動作だけによって決まるわけではないということを意味しています。

あるいは、ボウリングと良く似た「ホウリング」という競技を仮に考えてみましょう。ボウリングとの違いは、指定されたピンだけを倒すことが目的であり、他のピンを倒すと減点になる、という点にあるとします。このとき、全部のピンを倒すという身体的動作は、ボウリングにおいては華麗であっても、ホウリングにおいてはそうではないでしょう。たとえ後者において選手が全部倒すことを(何らかの事情から)意図していて、その通りに実現できていたのだとしてもです。

これらの例は、プレーの華麗さは競技のルールによっても決定される、ということを示しています。それでは、我々が好き勝手にルールを決定することによって、どのプレーに華麗さ、美を感じるかも、好き勝手に決められるのでしょうか。そうではないように思えます。そもそもスポーツのルールというのは、いっぺんに決められてその後全く変化しない、といったものではありません。たいていの競技のルールは、長い時間の中での実践を積み重ねていくことで、少しずつ変えられていっています。重要なのは、このようにルールを修正していくとき、我々は無軌道にやっているわけではなく、なんらかの方針をもち、そうした方針をなるべく実現できるようなルールの改正を行おうとしている、ということです。ルールの変更には、明らかに「方向」や「目指すべき価値」があるのです。たとえばごく一般的なものに限れば、一定の身体性に依拠している、練習による上達が見込める、運に左右されにくい、などです。

そしてルールにはプレーの華麗さを決定するという役割もあるのなら、こうしたルール改定の方針には、華麗さを決定するための側面も含まれていると考えるのが自然でしょう。スポーツのルールには、より華麗なプレーが行われうるように改定されていく面があるということです。では、こうしたルール改定の方針とはどのようなものなのでしょうか。

それはどこかに明示的に書かれているわけではないし、誰かひとりが知っていて決めることではありません。その競技が実際に何度も行われていく歴史のなかで、その競技に関わる人々からなる一定の言説の空間が、なにが目指されるべきスポーツの価値であるべきなのかということ自体の了解が、少しずつ作られていくのです。松本氏は以上のダイナミックな空間を指して、何が芸術であるかを決める社会的・文化的空間を意味するものとしてアーサー・C・ダントーが発案した「アートワールド」に倣い、「スポートワールド」という概念を提唱できるのではないか、と述べました。こうした松本氏の話は、スポーツにおける美しさが「作られる」ものであるという側面を、ルールの改定という具体的な実践の観点から明らかにしたものだとも言えるように思います。

会場の様子

会場では二人のトークのあと、参加者から活発に質問が飛び交いました。どれも意外な観点を提示していたり、説得力のある反例であったりして、登壇者と参加者がひとつのことを一緒になって明らかにしていく、共同作業のような楽しい時間になりました。そのうちのいくつかをここで紹介したいと思います。

  • スポーツの卓越性ということで、スポーツを通して実現される普遍的な価値や能力ということを念頭に置いていたように思うが、たとえば実際の野球選手の能力は、野球においてのみ機能するような、かなり特化した能力ではないだろうか。一般にそのような価値は、倫理学において評価される価値とは異なるのでは?
  • お互いの実力が伯仲しているほど「よい試合」であるとみなされるというのは、観客は試合における偶然的な結果を評価しているということであり、どちらがより卓越しているかを知りたがっているわけではないということでは?本当にどちらがより卓越しているか知りたいなら、同じ対戦相手の組み合わせで何度も試合をして「誤差」を減らしていけばよいわけだが、そのようなことは興ざめである。偶然的な勝利や敗北を、我々は鑑賞したがっているのでは?
  • メジャーな球技のような観客の多いスポーツほど、運の要素を残しているように思える。ルール整備で排除しようとしているのは偶然性ではなく不公平さではないか?
  • アートワールドでは、これまでの芸術に対する「反芸術」の存在にポイントがあるが、スポートワールドではこれに対応する「反スポーツ」にあたるものがなにかあるのか?

実際のトークや質問にはここでは紹介しきれていない面白い内容も盛りだくさんでした。参加してくださったみなさま、ありがとうございました。イベント後、登壇者のお二人からもコメントをいただきました。

    • 松本氏から一言:ルール改定とプレーの華麗さとの間には、長門さんが取りあげた「よい試合とは何か」という観点がどうも不可避的に絡んできそうです。その辺りをもっと掘り下げられたら面白いかな、と思います。みなさんもぜひ考えてみて下さい。当日は刺激的な質問をいくつもいただきありがとうございました。

長門氏から一言:今回のイベントでは「勝利とは何を意味するのか」「試合をすることにどんな意味があるのか」といったことを扱いましたが、これはスポーツ倫理学の話題のひとつをごく狭い仕方で切り取ったものにすぎない、ということを改めて強調したいと思います。この話題を出発点にするにしても、松本さんが発表されたようなスポーツの審美的な側面や法哲学的な側面からの検討などが必要だということは容易に想像がつきます。あるいは、スポーツ批評において批評者は何をしているのか、といったことについても立ち入った分析が必要でしょう。このイベントがみなさまを触発して「こんなアプローチもあるかもしれないよ」ということを思いつくきっかけになったらなによりです。またどこかでお会いしましょう。

最新号には、ここでのトーク内容とはまた角度の異なる長門裕介氏のスポーツ倫理学論考や、高橋志行氏による合気道をめぐる論考が掲載されていますので、興味をもたれた方はぜひお手にとってみてください。

Amazon でご購入いただけます。

さて引き続きフィルカルでは、明日11月23日に公開ワークショップ「ネタバレの美学」を現代美学研究会と共催いたします(http://d.hatena.ne.jp/conchucame/20181002/p1)。こちらもきっと面白いものになると思いますので、今回参加していただいた方も、この記事を読んで面白そうだなと感じてくれた方も、ぜひご参加ください。