Vol. 4, No. 1の内容紹介(第1回)

おかげさまで、創刊四年目を迎えることになりました「分析哲学と文化をつなぐ」フィルカル。先日、3/31に最新刊『フィルカルVol. 4 No. 1』が刊行されました。今回は、その最新刊の内容をフィルカル編集部が簡単にご紹介致します(全3回を予定しています)。

「リズムの時間遡及的本性についての哲学ノート―「音楽化された認識論」への小さなインタールード―」(一ノ瀬 正樹)

一ノ瀬正樹東京大学名誉教授(現:武蔵野大学教授)が長らく研究主題として掲げ、取り組んでこられた「音楽化された認識論」に関する論考です。(一ノ瀬氏の「音楽化された認識論」については「「音楽化された認識論」の展開 ―リフレイン、そしてヴァリエーションへ―」http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/ron31/01-ICHINOSE.pdfをご覧ください)

「前と後に関しての運動の数」(『自然学』)というアリストテレス以来の定義、そしてそこで言われている「運動」がしばしば「リズム」と解されてきた(cf. アウグスティヌスの『音楽論』)点を踏まえつつ、「過去から未来へと一方向的に流れていく」ものとしての、常識的な時間理解が揺さ振りにかけられます。

一ノ瀬氏が着目するのは、規則性としての「リズム」の「本質的に遡及的」な性格です。例えば「タン、タッタッ」というリズムは、「タン、タッタッ」とリフレインされれば、それが三拍子であるように感じられますが、しかし「タン、タッタッ、タタ」と続けば、4拍子に感じられます。つまり、最初の「タン、タッタッ」というリズムがどのようなものであるのかは、未来にどのような音列が続くかによってはじめて定まることなのです。リズムは、次に続く音列のいかんによって、その意味を変容させる可能性につねに開かれた状態にあるのです(一ノ瀬氏は、こうした性格を「浮動的安定」というタームを使って表現しています)。

この洞察を手掛かりとし、さらにウィトゲンシュタインやダメット、グッドマンらを参照しつつ、一ノ瀬氏は「未来から過去へと遡及的に定まる」ものとしての新たな時間概念の可能性を探っています。

特集1: ポピュラー哲学

  • 「「ポピュラー哲学」で哲学するためのブックガイド」(稲岡 大志)
  • 「教養としての大学入試と哲学」(石井 雅巳)
  • 「『君たちはどう生きるか』をどう読むのか」(石井 雅巳)
  • 「キャラ化された実存主義:原田まりる『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』を読む」(酒井 泰斗)
  • 「哲学はいかにして「武器になる」のか?—山口周試論—」(朱 喜哲)
  • 「哲学の国」のポピュラー哲学:ミシェル・オンフレ『〈反〉哲学教科書』について」(長門 裕介)

今号の特集第一弾は、「ポピュラー哲学」です。

「ポピュラー哲学(popular philosophy)」とはそもそも何でしょうか。一概に答えることは難しいのですが、ここではOxford Companion to Philosophy (https://www.amazon.co.jp/Oxford-Companion-Philosophy-Companions/dp/0199264791)の「popular philosophy」の項目を参照してみたいと思います。そこで「ポピュラー哲学」は、

  1. 処世についての手引き(general guidance about the conduct of life)
  2. アマチュアによる哲学問題の考察(amateur consideration of the standard, technical problems of philosophy)
  3. 哲学の大衆化(philosophical popularization)

という形で紹介されています。おそらく「哲学」というタームで世間一般にイメージされているのは、1の意味でしょう[1]。2は(哲学のプロと対比された意味での)アマチュアによる哲学実践を、3は、逆に、哲学のプロによる啓蒙の試みをそれぞれ意味しています[2]

日本においても、『超訳 ニーチェの言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)が刊行されたとりわけ2010年以降、(哲学の専門家ではない著者によって書かれたという意味での)ポピュラー哲学書が書店でよく見かけられるようになりました。こうしたポピュラー哲学の一大ブームは果たして何を意味しているのでしょうか。そしてポピュラー哲学には、哲学の専門家による哲学研究と比べて、どのような意義があるのでしょうか。こうした問題意識のもと、今号では、ポピュラー哲学を大々的に取り上げて議論を喚起しています。

内容としては、1.我が国のポピュラー哲学書の出版動向を概観する記事と、2.(数多くあるポピュラー哲学書の中でもとりわけ個性的だと思われる)ポピュラー哲学本6冊の書評、の二部構成となっています。

稲岡氏はポピュラー哲学書を、教養志向系・エンタメ系・ビジネス書系・翻訳書の4つに分類し、それぞれのジャンルの特徴を、代表的な著作を紹介しながらわかりやすくまとめています(第二部で取り上げられているポピュラー哲学書は、石井氏が教養志向系、酒井氏がエンタメ系、朱氏がビジネス書系、長門氏が翻訳書のジャンルからそれぞれ、選出をしています)。2010年代のポピュラー哲学書を満遍なくカバーしているという点でも資料的価値の非常に高い記事です。また、最近の動向で見逃せないのが哲学の専門家によるポピュラー哲学書の執筆ですが[3]、稲岡氏の記事ではこのへんの事情についても触れられています。

書評として取り上げられているのは、以下の6冊です。

  • 『試験に出る哲学―「センター試験」で西洋思想に入門する』(NHK 新書)
  • 『バカロレア幸福論:フランスの高校生に学ぶ哲学的思考のレッスン』(星海社新書)
  • 『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)/『漫画 君たちはどう生きるか』(マガジンハウス)
  • 『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(ダイヤモンド社)
  • 『武器になる哲学』(KADOKAWA)
  • 『〈反〉哲学教科書』(NTT出版)

研究者たちの目には、こうしたポピュラー哲学書は果たしてどのようにうつっているのでしょうか。本誌のポピュラー哲学特集を通じて、また取り上げられている6冊のポピュラー哲学書を手に取ってみて、「ポピュラー哲学で哲学するとはどういうことか」ぜひ、みなさまにも一緒に考えていただけたらと思います。

特集2: 『映画で考える生命環境倫理学』

  • 「ハイデガー、ウォルトン、アリストテレス―虚実とアスペクト知覚の諸問題―」(横地 徳広)
  • 「人は人ならざるものと恋愛することができるのか―『シェイプ・オブ・ウォーター』と『エクス・マキナ』を題材に―」(山田 圭一)

今号の特集第二弾は『映画で考える生命環境倫理学』です。二月に勁草書房より刊行された『映画で考える生命環境倫理学』(http://www.keisoshobo.co.jp/book/b432307.html)のスピンオフ企画となっています。(同書で横地氏は、「生命環境倫理学とは何か―生命圏と技術圏」と「〈絶対戦争〉後の世界を考えること―『風の谷のナウシカ』とわれわれ」を、山田氏は、「人はAIと恋愛することができるのだろうか―『her/世界でひとつの彼女』と『エクス・マキナ』を題材に」をそれぞれ執筆されています。そちらも併せてご覧ください)

横地氏の論考は、K. ウォルトンの論文Fearing Fictions(1978)(https://www.jstor.org/stable/2025831?seq=1#page_scan_tab_contents)を取り上げ、その「ハイデガー的要素」を浮き彫りにするという意欲的な内容となっています。ウォルトンとハイデガーがともに、アリストテレス解釈・批判を重視していたという点を押さえつつ、横地氏は、丹念なテキスト読解を通じて、ウォルトン論文が持つ射程の広さを示そうとしています。ウォルトンという分析哲学のスターと、ハイデガーという大陸哲学のスターが、(アリストテレスを経由して)一本の線で繋がるという点も非常に重要なポイントです。

山田氏は、映画『シェイプ・オブ・ウォーター』と『エクス・マキナ』を題材に、人ならざるものとの恋愛の可能性を探究しています。この「人ならざるもの」ということで焦点が当てられているのは、(鶴の恩返しのように)「人間の形をしているが、実際は異なる種類の存在」でもなければ、(『美女と野獣』のような)「人間とは異なる姿をしているが、実際は同じ種類の存在」でもなく、両方の規定を含んだ「異種かつ異形の存在者」という、われわれ人間とは、生活形式を全く異にするような、そういった完全な「他者」です。そのような存在者を、われわれは、真に愛することが出来るのでしょうか。この哲学的問いに山田氏は、愛の哲学[4]や情動の哲学[5]の知見に目を配りつつ、2本の映画の解釈を通じて回答を与えようとしています。哲学研究者によってなされた優れた映画批評でありかつ愛の哲学、情動の哲学の入門にもなっています。

今回は、フィルカル最新刊Vol. 4 No. 1の内容紹介前編をお届けしました。次回更新は、次週を予定しております。フィルカル最新刊は、AmazonやBASE、一部書店にてお求めいただけます。「分析哲学と文化をつなぐ」フィルカル、是非お手にとってご覧ください。読者の皆様からのご意見・ご感想をお待ちしております。

フィルカル編集部
谷田


[1] 1に関しては「『哲学』という語で日常的に意味されていて、多くの人が哲学者から得られることを期待するが、多くの場合得られずに失望するもの」と書かれています。またこの意味での今世紀最大のポピュラー哲学者として、アランの名前が挙げられています。

[2] ラッセルの『哲学入門』(Problems of Philosophy)が、典型的なものとしてあげられています。

[3] 例えば『デカルトの憂鬱 マイナスの感情を確実に乗り越える方法』(扶桑社)は、ビジネス書系のテイストを持ちつつ、学術的にも信頼のおける入門書となっていますし、『ウィリアム・ジェイムズのことば』(教育評論社)は、形式やタイトルは『超訳 ニーチェの言葉』に倣いつつ、こちらも、専門家による優れた入門書となっています。

[4] “Love as a Moral Emotion”(D. Velleman)(https://www.jstor.org/stable/10.1086/233898?seq=1#page_scan_tab_contents)や『愛の哲学的構成』(伊集院利明)などが参照されています。

[5] 『情動の哲学入門』(信原幸弘著)、『はらわたが煮えくりかえる:情動の身体知覚説』(ジェシー・プリンツ著、源河亨訳)が参照されています。