前回(http://philcul.net/?p=861)に引き続き、フィルカル最新刊『Vol. 4 No. 1』の内容をご紹介いたします。
哲学への入門
- 「デヴィッド・ルイス入門 第4回 フィクションにおける真理」(野上 志学)
- 「時間論入門 第1回 永久主義・現在主義・成長ブロック説」(大畑 浩志)
哲学への入門記事、今号は、野上氏による「デヴィッド・ルイス入門」の最終回と、新たに連載がスタートしました、大畑氏による「時間論入門」の二本立てでお送りしています。
はじめに、過去3回にわたるルイス入門記事の概要を簡単に振り返っておきましょう。第1回記事(Vol. 2 No. 2)では、基礎編として、ルイス哲学全体の根幹を担っている「可能世界」理論の内容を紹介しました。「何かが可能であるとはどういうことなのか」という問題に対し、可能世界という概念を使って、ルイスがどのような説明を与えたのかを確認しました。そこでルイスによって特徴づけられた可能世界のあり方は、一見すると非常に奇妙なものでした。しかし、この可能世界概念が、じつはさまざまな応用可能性をもっているということが以降の記事で徐々に明らかになっていきます[1]。第2回記事(Vol. 3 No. 1)では、この可能世界概念を用いると、反事実条件文と呼ばれるようなタイプの文(「もしAだったら、Bだっただろう」)に対し、クリアな分析を与えられることが確かめられました。ただ、反事実条件文を分析できるということのメリットは、それほど自明なことではないかもしれません。このことの意義がより明確な仕方で「現金化」されたのが、因果性を扱った第3回記事(Vol. 3 No. 2)です。ルイスは、因果言明(「CがEを引き起こした」)を、反事実条件文(「もしCが起きなかったら、Eは起こらなかった」)として、さらにこの反事実条件文は、可能世界間の類似性によって分析できると考えました。可能世界という一見奇妙な概念は、因果という哲学上の重大トピックを理解するための新しい視座を与えるものであることが、この記事の中で確かめられたのでした。
さて、最終回となる今回は、可能世界理論の射程の広さを確認するための、言わば、応用編第三弾です。ルイスの「フィクションにおける真理(Truth in Fiction)」(1978)論文[2]を取り上げ、フィクションにおいて何かが真であるという事態が、可能世界概念を使うと、どのように分析可能なのかをご紹介します。「フィクションFにおけるP」を反事実条件文として読み、さらにそれを可能世界概念によって分析するという流れとなっているので、第1回記事と、第2回記事の前半を復習しながら読んでもらうと、理解がより深まるでしょう。
また記事の最後には、4回の連載では触れられなかった、ルイスの心の哲学、性質論、メタ倫理についての詳細な文献紹介もあります。ルイスの仕事の全容を把握するうえでも、今回の記事は、有益な資料になるはずです。
哲学入門記事、2本目は大畑氏による時間論入門(全3回を予定)です。「時間」というテーマは、古くから哲学の重大トピックであり続けてきましたが、現代の時間論における議論の文脈を作ったのは、イギリス観念論者であるジョン・マクタガートと言っても差し支えないでしょう。マクタガートは、「時間の非実在性」(1908)という論文において、時間には、過去・現在・未来という時制の区別によって記述される側面(A-系列)と、出来事の前後関係および同時関係によって記述される側面(B-系列)があることに着目しつつ、「時間は実在しない」という驚くべき主張を、説得力ある論証とともに提示しています[3]。大畑氏の入門記事はまず、このマクタガートの議論を丹念に追うところからスタートします。
マクタガートの論文は、とうぜん大きな反響を呼びました。しかし今日、ほとんどの哲学者がマクタガートの「時間は実在しない」という主張を受け入れていません。実は、マクタガートの論証をどのように拒絶するかによって、(大畑氏の言葉を借りれば)「現代の時間論のバトルライン」は形成されていると言ってよいのです[4]。記事の後半部分では、1、あらゆるものが永久に存在し続けると考える「永久主義(eternalism)」2、現在のみが存在すると考える「現在主義(presentism)」3、過去と現在が存在し、未来は存在しないと考える「成長ブロック説(growing block theory)」という三つの立場の特徴を、それらが抱える課題とともに、詳細に紹介しています。この記事を読むことで、読者は、現代の時間論に関する便利な見取り図を獲得することができるはずです。
文化の分析哲学
- 「写真の「透明性」とデジタルの課題」(銭 清弘)
- 「ビデオゲームの統語論と意味論に向けて: 松永伸司『ビデオゲームの美学』書評」(三木 那由他)
- 「差異の認識と認識的変容」(佐藤 邦政)
文化の分析哲学記事に寄稿された3本の論考の主題は、それぞれ、写真の美学、ビデオゲームの美学、徳認識論(認識的変容)です。
銭氏の論考は、K.ウォルトンが「透明な画像: 写真的リアリズムの本性について(Transparent Pictures: On the Nature of Photographic Realism)」(1984)https://www.jstor.org/stable/2215023?seq=1#page_scan_tab_contentsで展開した主張を擁護し、さらにその今日的意義を示そうとするものです。ウォルトンはこの論文で、写真は透明であるという「透明性テーゼ」を掲げています。それによれば、われわれは、写真を通じて「文字通り」被写体そのものを見ているというのです。「視覚の補助」をなすという意味においては、写真は、手製の絵画やスケッチよりも、むしろ、メガネや望遠鏡により近いものだということになるでしょう。銭氏は、まず論考の前半部で、このウォルトンの「透明性テーゼ」のポイントが「客観性」と「類似性」にあることを確認し、更に「透明性テーゼ」に対してなされうる反論[5]を検討しています。これを踏まえ後半部は、この「透明性テーゼ」が今日の私たちを取り巻く状況においてなお有効なものでありうるのかが問題とされています。というのも、「デジタル写真」が登場し、誰にでも容易に写真加工が可能になっているいま、写真経験は、ウォルトンの論文出版当時ほど「現実的」なものではなくなっているようにも思われるからです。けれども銭氏は、こうした「デジタルの挑戦(Digital Challenge)[6]」の時代にあってもなお、ウォルトンの「透明性テーゼ」は有効であり続けていると論じています。
三木氏の論考は、昨年10月に刊行されて以来、各方面に大きなインパクトをもたらし続けている、松永伸司氏の『ビデオゲームの美学』(慶應義塾大学出版会、以下ビデ美)についての(36ページにわたる!)本格的な書評論文です。
一言でいえば、ビデ美は、ビデオゲームを記号論的に分析することを目標とした本です[7]。もしビデオゲームが(言語と同じように)一つの記号体系をなしているならば、ビデオゲームは、それ独自の統語論や意味論を持っていることになります。それらは果たしてどのようなものになっているのかが、ビデ美(の主に第二部)では考察されています。
もうすこし補足をしましょう。統語論(syntax)とは、個々の記号同士の関係を支配する規則についての研究を行う記号学の一分野です。統語論は「I like cats.」のような文法的に正しい文と「Like cats I.」のような非文とを区別するものが何かを明らかにしていきます[8]。それに対し、意味論(semantics)とは、記号とそれが表す内容との関係を研究する分野です。松永氏は、ビデオゲーム(例えば、スーパーマリオ)のディスプレイに登場する、マリオや、土管や、キノコもまた(単語に相当するような)一つの記号であり、またそうである以上、記号同士の関係(例えばマリオとキノコ)を支配する規則や、記号とそれが表す内容との関係(例えば、画面のマリオは何を表象しているのか)についての理論を考えることが出来ると言うのです。
三木氏は、ビデオゲームに統語論と意味論を与えることが出来るという主張に同意を示しつつ、松永氏が提示した理論には二つの修正すべき点があると主張しています。ひとつは統語論が不十分であること、もうひとつは松永氏の言う「意味論」は別の観点から捉えられる必要があることです。三木氏はこれらをカバーするべく、複合的記号の統語論を補い、松永氏の言う虚構的「意味論」とゲームメカニクス的「意味論」がそれぞれ、実は語用論と準因果的情報関係なのではないかという提案を、言語哲学の専門家の立場から具体的に展開してみせています。内容的に批判を含んではいるものの、松永氏の試みをさらに前進させようとする、いわば「ラブレター」的な書評論文となっています。
佐藤氏の論考は、障害者と健常者とが共生していく中で求められている「合理的配慮(reasonable accommodation)」、すなわち、「個々の障害者の具体的なニーズや選好を把握し、障害者が被っている社会的障壁を除去する」ことはどうしたら可能なのかについて、現代認識論を理論的背景として考察を行うものです。佐藤氏はまず、論考の前半部で、近年の障害学研究をサーベイし、異質な他者との共生がどのように特徴づけられてきたのかを押さえます。そして、障害者との共生において、障害者と実際に関わり、お互いの差異を認識するための徳を身につけ、認識的に変容していくことの必要性が確認されます。それを受け、論考後半部では、こうした差異の認識に基づく認識的変容が、具体的にどのようなルートによって達成されることになるのかについて、二つの方向性を提示しています。一つは、障害者のニーズや選好といった「差異内容の認識」によって生じる認識的変容です[9]。二つ目は「差異の存在の認識」によって生じる認識的変容です。この論考を通じて、佐藤氏は、差異内容の認識を更新していくなかで相手との摩擦を減らし理解を深めていきつつも、理解が進んだからこそ見えてくる他者の原理的な「わからなさ」を受容していくことこそ、共生において求められる認識的変容なのだと主張しています。
(第3回に続く)
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フィルカル編集部
谷田
[1] ただし、ルイスとは別の仕方で可能世界概念を特徴づけることも可能であること、そしてルイスのやり方が反事実条件文の分析や因果分析に応用可能な唯一のやり方というわけではないということは、押さえておきましょう。
[2] Philosophical Papers Volume Iに収録されています。http://www.oxfordscholarship.com/view/10.1093/0195032047.001.0001/acprof-9780195032048)
[3] 2017年に、永井均氏による翻訳が刊行されています。http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211898
[4] マクタガートは、(i)時間の基礎をなすのはA-系列であるが、(ii)A-系列は矛盾を含んでいるから、時間は実在しないと論証しています。この手続きのうち、(i)を拒絶する立場が「無時制理論」、(ii)を拒絶する立場が「時制理論」と呼ばれます。永久主義は前者、現在主義と成長ブロック説は後者に属します。
[5] 銭氏がここでメインでとりあげている反論は、写真の生成プロセスに、作者の意図や信念が関与する以上、「写真は『客観性』の条件を満たさない」というタイプのものです。時代の前後はあるものの、Snyder and Allen(1975)Photography, Vision, and Representation(https://www.journals.uchicago.edu/doi/abs/10.1086/447832?mobileUi=0&)がこのタイプの反論の代表として挙げられています。
[6] 「デジタルの挑戦」については、Gooskens (2011)のThe Digital Challenge: Photographic Realism Revisitedが参照されています。こちらからpdfをダウンロードできます。http://proceedings.eurosa.org/3/gooskens2011.pdf
[7] 三木氏は、ビデ美の第二部「一つの画面と二つの意味」を「理論上の心臓部」と位置づけ、議論をここの箇所に絞っています。ただビデ美では、この他にも、ビデオゲームの定義や、虚構世界論、プレイヤーの行為といった、様々なトピックが扱われています。詳しくは、慶應義塾大学出版会のHPをご覧ください→http://www.keio-up.co.jp/np/detail_contents.do?goods_id=3928
[8] チョムスキーは、『統辞構造論』のなかで、言語Lの統語論の目標を「Lの文となる文法的なシークエンスをLの文とならない非文法的なシークエンスから区別し、文法的なシークエンスが持つ構造を調べること」としています。「Lの文法的なシークエンスのすべてを生成し、非文法的なシークエンスのいずれも生成しない装置」としての文法を追求するのが統語論ということになるでしょう。この点、三木氏の論考を参照しています。
[9] この箇所で佐藤氏は、差異に対する感受性を性格徳とみなし、徳認識論の知見を大いに参照しています。