レポート:代官山蔦屋書店トークイベント「ネタバレのデザイン」(2019年6月26日)

去る6月26日、代官山蔦谷書店にて、弊誌主催トークイベント「ネタバレのデザイン」が開催されました。これは、フィルカル最新号での特集「ネタバレの美学」にちなんだもので、そこでの議論をより発展させたものです。登壇者は分析美学から森功次氏と松本大輝氏、そして現代思想に造詣の深い批評家の仲山ひふみ氏のお三方です。この記事では、大変盛り上がった当日の様子を報告したいと思います。

まず企画者である森さんが全体的な説明をしてくれました。森さんは、これまでのイベントや雑誌特集でネタバレについて論じ切れた、あるいは論じきろうとはまったく思っていない、と強調されました。森さんは、ここまでの活動を美学においてネタバレという新しいテーマを作り出すための運動と考えており、今後はさらにネタバレについての歴史学的、社会学的なアプローチも各分野の研究者と協力して展開していきたい、と展望を述べられました。

トーク中の森功次氏

ではそもそもなぜネタバレを論じようと思ったのか。世の中にはネタバレがよくないことだと考える人と、問題ない、むしろよい(より豊かな鑑賞ができる、感情を揺さぶられすぎずに落ち着いて鑑賞できるetc.)という人がいて、どちらもそれなりに根拠をもった説得力のある主張をしているように思える。そのうえ、こうした二つの考えが対立することも明らかで、ときには暴力事件を引き起こしたりもしている。にもかかわらずこの対立を解消、もしくは理解するための分析は行われていない。こうした状況が基本的な背景にあります。

そのうえで、少しネタバレについて哲学者が考えてみると、「ネタバレ」という言葉で意味されているものには、実際にはかなり異なるものが複数含まれていて(ネタバレ情報、ネタバレ行為、ネタバレ接触など)、多くの人が曖昧なままひとつの語を使うことで基本的に混乱した状況になっていることがわかる。こうした状況を見るとひとつ用語の整理をしたくなるのが哲学者の性というものだ、と森さんは言います。用語整理を行ってから問いを定式化し、その問いに答えようとする、というのは分析哲学の典型的な方法論ですが、確かにネタバレはまさにこうしたやりかたがぴったり当てはまる、分析美学にとってうってつけの題材と言えるのではないでしょうか。

松本さんの発表が森さんのフィルカル4-2号掲載論文への批判なので、ここで森さんはこの論文の内容をコンパクトに紹介しつつ、ネタバレをめぐるこれまでの議論を簡単にまとめます。結論としては、自分からネタバレ情報を見ることは、美的に悪いのは当たり前であるだけでなく、倫理的にも悪い、というのが森さんの主張です。理由となるのはおもに、作者への敬意を欠く、アートワールドの腐敗を招く(芸術作品やその鑑賞を可能としている文化や社会そのものを破壊する行為である)、の二点です。もうひとつ森さんがこの論文で言いたかったのは、犯人や結末の情報だけでなく、事前に作品についてのなんらかの情報を得ていることで、清新な感動が薄れるということがかなりある、したがってネタバレにあたるものを、あえてもっと広くとったほうがいいのではないか、ということです。ここで例に挙げられていたのは、展覧会の前にその展覧会のパンフレットを見る、という『美味しんぼ』で取り上げられている事例でした。最後に、ネタバレ許容派の言い分への批判も具体的にこの論文では述べられています。ネタバレ許容派のいうことは基本的には何度も繰り返し見たくないから、という鑑賞効率を優先としたものであって、効率を優先するということが作品を鑑賞する場の価値観とは別の領域の価値観に従っている、というのが森さんの大筋の議論です。効率という別種の価値を優先しているのに、〈より良く楽しめる〉といった芸術性を擁護するかのような弁明をしているのは欺瞞だ、と森さんは考えます。

ここで松本さんにバトンタッチ。松本さんによる森さんの論文への批判は、自発的にネタバレ情報を見に行くことは悪ではない、少なくとも擁護できるタイプのものがある、というものです。その根拠となるのは二点、森さんは自発的なネタバレ接触をする人は、ネタバレ情報によって一回で効率的に作品を理解しようとするのではなく複数回見るべきであると主張していますが、この主張は森さん自身の議論と不整合であるということと、ネタバレ接触はアートワールドを必ずしも腐敗させるとは言えず、むしろネタバレ接触によってしか達成できない望ましい鑑賞がある、というものです。

トーク中の松本氏

まず松本さんは、ネタバレ接触を本質的なものと非本質的なものに分けます。なにが本質的なものになるかは作品によって異なりますが、たとえば推理小説を読んで、犯人が明確に説明されているにもかかわらず、誰だかわからなかったという人がいたら、その人は「その小説を読んだ」とは言えない、と言えるでしょう。そうした情報、この場合は誰が犯人であるかという情報を事前に知ることは本質的なネタバレ接触です。それに対して、ある映画の1シーンが別の作品のオマージュになっていることに気づかなかったからといって、その映画を見たことにならない、とは言えないという場合がありえます。このとき、このオマージュについて事前に知ることは、非本質的なネタバレ接触である、というわけです。森さんの議論は、積極的にネタバレを広く取ることによって、非本質的なネタバレ接触をも攻撃の対象としており、松本さんはそこに異議を唱えたいわけです。

ネタバレ擁護派には、批評などを読んでから鑑賞することでより豊かな鑑賞ができるようになる、と主張する人がいます。確かに鑑賞をよりよいものにするのは、作品批評の重要な役割でしょう。これに対し森さんは論文中で、それなら初回は批評を読まずに見て、初回鑑賞時の驚きをきっちり経験し、それから批評を読んで、面倒がらずに二度目以降の鑑賞をすればよい、と批判しています。松本さんはこの点をついて、森さんはネタバレが初回鑑賞では許されず、二度目以降では許されるという、初回鑑賞の特権性を前提している、と言います。ここで、二度目以降で許されるとされるネタバレは、非本質的ネタバレであることになります。というのも、本質的ネタバレになるような情報は定義上、初回鑑賞で見逃されないことを前提とするような情報だからです。したがって森さんは、非本質的ネタバレ接触に関しては、二度目の鑑賞以降許される、と考えていることになります。しかしこれは森さん自身の立場では許されない帰結ではないでしょうか。

松本さんによれば、このツッコミに対する森さんの取りうる態度は二つあります。ひとつは、悪とされるネタバレ接触の種類を本質的ネタバレ接触のみに縮小する、というものです。これはネタバレの概念を広げたいという動機を断念することになるので、森さんにとって些細な修正とは言えないと思いますが、松本さんはこの路線を取るなら、特にこれ以上批判する点はないと言います。もう一つは、初回鑑賞特権を捨てて、二回目以降の非本質的ネタバレに関してもこれを悪とみなす、というものです。この場合、いくら鑑賞回数を重ねても作品に含められた情報をすべて把握できるとは限らないので、批評を読めば可能になったであろうより豊かな鑑賞経験が禁じられてしまう可能性があります。すると森さんは、初回で読み取れる情報のネタバレとそうでない情報のネタバレという区分を受け入れる限り、ネタバレ擁護派が必ずしも効率重視ではなく、豊かな鑑賞経験のために擁護している可能性を見落としているとは言えないでしょうか。

初回鑑賞特権という考え方は、森さんに限らず、広く受け入れられているようにも思えます。それは我々の芸術作品をめぐる実践を規定するアートワールドが、初回鑑賞特権を受け入れているということです。ですがこのことは、ネタバレはアートワールドを腐敗させるという森さんの用いるもうひとつの論拠を突き崩す可能性がある、と松本さんは言います。もしアートワールドが初回鑑賞特権を認めるなら、それはアートワールド自体が非本質的なネタバレ接触、二回目以降の鑑賞におけるネタバレ接触を肯定していることになります。そして、アートワールドがこうしたネタバレを容認しているということは、発見の楽しみという芸術的価値と、より豊かな鑑賞という芸術的価値のあいだの「取引」を肯定しているということです。そうであるなら、ネタバレを通して、批評活動などによる「分業」によって、どの芸術的価値をどのように配分した鑑賞がもっとも理想的であるのかを追求する場をアートワールド自体が構成しているとすら主張できる可能性があります。以上が松本さんの発表の骨子でした。非常に重厚な内容ですが、明解で、あっと言わせる指摘の数々に、聞いていて何度も息を飲むような瞬間がありました。

続いて三人目の登壇者、仲山さんです。仲山さんは森さん、松本さんのような分析美学の研究者ではなく、批評家としてという自らの立ち位置にこだわり、ネタバレを論じるというこの場の営みそのものをメタ的に論じる、ということを念頭においていると初めに話されました。仲山さんによれば、分析哲学(美学)は、人文系の学問の中でも特に議論の作法が明確に定まっており、限られた時間やリソースをなるべく無駄にしないような、緻密な議論を作るために学問全体が構成されています。このように組織化されていることを、仲山さんは「アーギュメント」がある、と表現するのですが、フランス現代思想がアーギュメントを積極的に排除していった結果、理論としてでなく、実践や政治思想としてしか顧みられなくなってしまった、それに対する反省として、思弁的実在論のような、フランス現代思想を継承しつつもアーギュメントをもった思想が現在生まれつつある。そのようなアーギュメントの復権という流れのなかに、仲山さんは分析哲学も位置づけられると考えているようです。

トーク中の仲山氏

仲山さんが今回のトークで目指されたのは、ネタバレ概念を極限まで一般化する、というものです。まず、ネタバレを論じることは情報を論じることのうちに含まれるわけですが、情報がすなわち権力と捉えられる文脈が存在することを、原爆の開発状況をめぐる大国間の情報戦についての柄谷行人の発言、サイバネティクスを西洋形而上学の完成とみなしたハイデガー、さらにはアインシュタインの一般相対性理論などを引きつつ、力、情報として一元論的に世界をのものが捉えられるようになった、というスケールの大きい話によって示されました。

ネタバレを一般化する二つ目の観点が、資本としての情報、というものです。知的財産権自体の原型はすでに15世紀のイタリアに見られますが、1990年代以降、情報は資源という概念の中核に位置するようになりました。こうした情報のやりとりから生まれる認知労働の主体が、ネグリとハートがその主著である『帝国』でマルチチュードと呼んだものです。現在の資本主義は、いわばネタバレされてはいけないものとしての情報を中心に成立しています。また、四、五年前に、シェア経済、限界費用ゼロ社会ということが盛んに論じられたことがありました。これはYouTubeのようなサイトが典型的なのですが、音楽を無料でシェアするなど、デジタル化によってコストをかけることなく作品の情報が共有される社会のことなのですが、こういった社会は一般化されたネタバレ行為を前提としたユートピア、と表現することもできます。また、ネタバレについての論争が生じてきたタイミングと、作品の情報を共有することによる二次創作的な空間の可視化は同時に起こってきたようにも思えます。この二つの動きは、我々の社会における作品概念の変容と軌を一にしているのではないでしょうか。

最後に、享楽という観点からネタバレを捉えることができます。ここでいう享楽とは、ジャック・ラカンに慣れ親しんでいる人にはわかりやすいものですが、快楽と対になる概念で、ネガティブな振る舞いによってもたらされるような快のことです。この場合では、作者の意図した仕掛けにのっとって作品を鑑賞する楽しみを快楽とするなら、ネタバレを禁じたり、あるいはそうした禁止にしたがうことで感じるのが享楽だといえます。最近では『カメラを止めるな』で、制作者側がすでに鑑賞した観客にネタバレしないようにと積極的に働きかけたということがありました。このとき観客側が実際にネタバレしないことで、ある種の伝言ゲームの楽しさを共有するという現象が見られました。このように、ネタバレされる側が保証されるべきであった、ネタバレから守られるべき快楽だけでなく、ネタバレをする側、あるいはネタバレを我慢する側の快楽や享楽といったものも同時に論じることで、ネタバレというものをより広い観点から論じることができるのではないでしょうか。このように分析哲学とは異なるやり方でネタバレを論じる仲山さんの発表は、一気に視界を広げるような刺激と興奮を会場にもたらしていました。

ここからは、登壇者と会場のみなさんが入り混じっての議論になりました。会場からの質問に登壇者が答え、それにまた別の登壇者が疑問を挟み、呼応したかたちで会場からまた別の質問があがり、というふうにテーマが自然と収束し、ライブなやりとりのなかで共同作業のように議論や分析がどんどん進んでいく様子が大変面白かったです。

会場の様子

そうして会場でできあがっていったテーマのひとつが、ネタバレの「ネタ」とはなにか、という問題でした。これも最初に会場からの質問というかたちで始まった議論ですが、ここでいうネタとは、いわゆる命題的な、言語的に表現されうるような情報である必要はない、たとえば映画の予告編において、実際の作品とまったく同じものが部分的に経験される場合、ここで経験されているものは必ずしも命題によって表象可能ではないかもしれないが、それもネタバレになる。また、ネタバレを問題にすることは、作品そのものを情報としてみているということでもない。たとえば、このボタンを押すとこの作品に含まれている情報がすべて得られます、と言われても多くの人は押さずに作品自体を鑑賞しようとするだろう、人は情報を得るために作品を鑑賞するのではなく、作品を味わうために鑑賞するのである。ネタバレにおいてはあくまで、情報を得ることによって鑑賞という経験が損なわれることが問題なのであって、情報を得ることそれ自体は作品鑑賞の主眼ではない、といった感じに議論が進行していきます。また、宗教画を鑑賞する際にはそこで描かれている聖書のエピソードを知っていることはネタバレになるのか、あるいは逆に知っているほうがよりよい鑑賞を可能になるのか、という質問も寄せられ、それはたとえば現代と中世では異なってくる、したがってなにがネタバレになるのかというのは、同一作品であっても、時代や文脈によって異なる、あるいは個々の鑑賞者ごとに異なるものでありうる、という議論がそこから生まれ、トーク中には直接論じられることのなかったネタとは何か、ということが目の前で次々分析され、明確化され、思いもよらぬ展開を見せていました。

このように会場全体の共同作業として哲学がいわば生まれていくその瞬間を目の当たりにし、自分もそこへ参加するという楽しみは、こうしたイベントならではのものだと思います。フィルカルでは今後も様々なテーマでイベントを企画しています。専門的な知識などは特に必要としませんので、ほかではなかなか味わえない知的作業の興奮をぜひ会場で直接経験してみてください。

フィルカル編集部 佐藤 暁

イベントの元となった特集「ネタバレの美学」は、最新号でお読みいただけます。

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Vol. 4, No. 2を刊行しました。

分析哲学と文化をつなぐ雑誌『フィルカル』のVol. 4, No. 2を7月1日に刊行しました。
特集「ネタバレの美学」は、ネタバレをめぐる史上初の真剣な学術的議論。
シリーズ「ドキュメンタリー映画は思考する」は、『祝の島』や『ある精肉店のはなし』の纐纈あや監督へのロングインタビュー。
シリーズ「ポピュラー哲学の現在」では、哲学の玉田龍太朗氏と自己啓発の百川怜央氏の対談をお送りします。
好評の時間論入門は第2回「変化とは何か」、そして「文化の分析哲学」枠には気鋭の研究者・谷川嘉浩氏による鶴見俊輔論が掲載。
読みやすい哲学コラムやレビューも充実して、他では読めない魅力的な話題をつぎつぎに開拓中です。

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目次

特集:ネタバレの美学
謎の現象学—ミステリの鑑賞経験からネタバレを考える—(高田 敦史)
なぜネタバレに反応すべきなのか(渡辺 一暁)
観賞前にネタバレ情報を読みにいくことの倫理的な悪さ、そしてネタバレ許容派の欺瞞(森 功次)
ネタバレは悪くて悪くない(松永 伸司)
見破りましたか?騙されましたか?—「ユージュアル・サスペクツ」感想文の分析—(竹内 未生)

シリーズ:ドキュメンタリー映画は思考する
纐纈あや監督インタビュー—人が生きることを撮る—

シリーズ:ポピュラー哲学の現在
対談「哲学と自己啓発の対話」(企画:稲岡大志/文責:玉田 龍太朗)

哲学への入門
時間論入門 第2回「変化とは何か—延続説・耐続説・段階説—」(大畑 浩志)

文化の分析哲学
倫理としての「不自然な自然さ」—鶴見俊輔のプラグマティズムと社会運動をつなぐ—(谷川 嘉浩)

イベント
トークイベント「哲学者と編集者で考える、〈売れる哲学書〉のつくり方」@東京堂ホール(2019年3月10日)(登壇者:長田 怜、稲岡 大志、酒井 泰斗、朱 喜哲、小林 えみ、山田 政弘)

コラム、レビュー、新刊紹介
花はそれ自体で美しい:小原流いけばなの実践から(青田 麻未)
Pokémon GOとわたし(佐藤 暁)
「ボカロは哲学に入りますか?」と青島ビール(谷川 嘉浩)
「リツイート」と道徳的運(川瀬 和也)
副産物と「穿った見方」、あるいは解釈しすぎることについて(長門 裕介)
研究費獲得手段としてのクラウドファンディング(松井 隆明)
サッカー嫌いの哲学者が、哲学者の書いたサッカー本を読んでみた(八重樫 徹)
2019年春書評(長門 裕介)
ミゲル・シカール『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』訳者による紹介(松永 伸司)

投稿募集中

編集部では次次号(Vol. 5, No. 1)へ向け、分析哲学と文化をテーマとした原稿を募集しています。

投稿締切:2019年12月31日(火)
投稿先:philcul[at]myukk.org(「at」を「@」に変えてください)
原稿は、メールの件名に「フィルカル投稿」と明記したうえで、添付ファイルでお送りください。

投稿の詳細については「投稿募集」ページをご覧ください。
熱意のこもった原稿をお待ちしております。

6月26日 森功次×仲山ひふみ×松本大輝トークイベント「ネタバレのデザイン」@代官山蔦屋書店 開催のお知らせ

楽しみにしていた新作映画を観る直前に、ストーリーの重要な部分をネタバレされたら、あなたは怒り心頭でしょうか、それとも全然へっちゃらでしょうか。ネタバレはすべて悪いことなのでしょうか。それとも、許せるネタバレとそうでないネタバレがあるのでしょうか。 SNSでもたびたび話題になるこうした問題について、いま、美学者たちが真剣に議論しはじめています。

昨年の秋には、大妻女子大学でネタバレをテーマにした学術ワークショップが開催され、4人の登壇者が豊かな論点を提供し大変な盛り上がりをみせました。

分析哲学と文化をつなぐ雑誌『フィルカル』の最新号は、ネタバレについての論文を多数掲載したネタバレ特集号となっています。

今回の刊行記念イベントでは、「ネタバレ反対の急先鋒」森功次氏コーディネートのもと、新たな論客として批評家の仲山ひふみ氏、美学者の松本大輝氏にも参戦してもらい、ネタバレの悪さや必要性について真剣に議論します。

ネタバレに一家言ある方もそうでない方も、ぜひご参加ください!

(代官山蔦屋書店のお知らせページからお申し込みいただけます。)

【基本情報】
会期:2019年6月26日(水)
定員:70名
時間:19:00~21:00
場所:蔦屋書店1号館 2階 イベントスペース
主催:代官山 蔦屋書店
共催・協力:株式会社ミュー
問い合わせ先:03-3770-2525

【参加条件】
代官山 蔦屋書店にて、いずれかの対象商品をご予約・ご購入頂いたお客様がご参加いただけます。
※対象商品は、イベント当日に店頭でのお渡しとなります。 発送はございませんので、ご注意くださいませ。

【お申込み方法】
以下の方法でお申込みいただけます。
①代官山 蔦屋書店 店頭 (1号館1階 レジ)
②電話 03-3770-2525 (人文フロア)
オンラインストア

【対象商品】
・書籍『フィルカルVol.4 No.2』(1,944円/税込)+イベント参加券500円/税込)セット2,444円(税込)
・イベント参加券1,500円(税込)

【ご注意事項】
*参加券1枚でお一人様にご参加いただけます。
*イベント会場はイベント開始の15分前からで入場可能です。
*当日の座席は、先着順でお座りいただきます。
*参加券の再発行・キャンセル・払い戻しはお受けできませんのでご了承くださいませ。
*止むを得ずイベントが中止、内容変更になる場合があります。
*書籍付きチケットの対象書籍は先行販売のため、当日のお渡しになります。

お店の詳しい情報:
代官山 蔦屋書店
【住所】渋谷区猿楽町17-5
【電話】03-3770-2525
【HP】https://store.tsite.jp/daikanyama/
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Vol. 4, No. 1の内容紹介(第2回)

前回(http://philcul.net/?p=861)に引き続き、フィルカル最新刊『Vol. 4 No. 1』の内容をご紹介いたします。

哲学への入門

  • 「デヴィッド・ルイス入門 第4回 フィクションにおける真理」(野上 志学)
  • 「時間論入門 第1回 永久主義・現在主義・成長ブロック説」(大畑 浩志)

哲学への入門記事、今号は、野上氏による「デヴィッド・ルイス入門」の最終回と、新たに連載がスタートしました、大畑氏による「時間論入門」の二本立てでお送りしています。

はじめに、過去3回にわたるルイス入門記事の概要を簡単に振り返っておきましょう。第1回記事(Vol. 2 No. 2)では、基礎編として、ルイス哲学全体の根幹を担っている「可能世界」理論の内容を紹介しました。「何かが可能であるとはどういうことなのか」という問題に対し、可能世界という概念を使って、ルイスがどのような説明を与えたのかを確認しました。そこでルイスによって特徴づけられた可能世界のあり方は、一見すると非常に奇妙なものでした。しかし、この可能世界概念が、じつはさまざまな応用可能性をもっているということが以降の記事で徐々に明らかになっていきます[1]。第2回記事(Vol. 3 No. 1)では、この可能世界概念を用いると、反事実条件文と呼ばれるようなタイプの文(「もしAだったら、Bだっただろう」)に対し、クリアな分析を与えられることが確かめられました。ただ、反事実条件文を分析できるということのメリットは、それほど自明なことではないかもしれません。このことの意義がより明確な仕方で「現金化」されたのが、因果性を扱った第3回記事(Vol. 3 No. 2)です。ルイスは、因果言明(「CがEを引き起こした」)を、反事実条件文(「もしCが起きなかったら、Eは起こらなかった」)として、さらにこの反事実条件文は、可能世界間の類似性によって分析できると考えました。可能世界という一見奇妙な概念は、因果という哲学上の重大トピックを理解するための新しい視座を与えるものであることが、この記事の中で確かめられたのでした。

さて、最終回となる今回は、可能世界理論の射程の広さを確認するための、言わば、応用編第三弾です。ルイスの「フィクションにおける真理(Truth in Fiction)」(1978)論文[2]を取り上げ、フィクションにおいて何かが真であるという事態が、可能世界概念を使うと、どのように分析可能なのかをご紹介します。「フィクションFにおけるP」を反事実条件文として読み、さらにそれを可能世界概念によって分析するという流れとなっているので、第1回記事と、第2回記事の前半を復習しながら読んでもらうと、理解がより深まるでしょう。

また記事の最後には、4回の連載では触れられなかった、ルイスの心の哲学、性質論、メタ倫理についての詳細な文献紹介もあります。ルイスの仕事の全容を把握するうえでも、今回の記事は、有益な資料になるはずです。

哲学入門記事、2本目は大畑氏による時間論入門(全3回を予定)です。「時間」というテーマは、古くから哲学の重大トピックであり続けてきましたが、現代の時間論における議論の文脈を作ったのは、イギリス観念論者であるジョン・マクタガートと言っても差し支えないでしょう。マクタガートは、「時間の非実在性」(1908)という論文において、時間には、過去・現在・未来という時制の区別によって記述される側面(A-系列)と、出来事の前後関係および同時関係によって記述される側面(B-系列)があることに着目しつつ、「時間は実在しない」という驚くべき主張を、説得力ある論証とともに提示しています[3]。大畑氏の入門記事はまず、このマクタガートの議論を丹念に追うところからスタートします。

マクタガートの論文は、とうぜん大きな反響を呼びました。しかし今日、ほとんどの哲学者がマクタガートの「時間は実在しない」という主張を受け入れていません。実は、マクタガートの論証をどのように拒絶するかによって、(大畑氏の言葉を借りれば)「現代の時間論のバトルライン」は形成されていると言ってよいのです[4]。記事の後半部分では、1、あらゆるものが永久に存在し続けると考える「永久主義(eternalism)」2、現在のみが存在すると考える「現在主義(presentism)」3、過去と現在が存在し、未来は存在しないと考える「成長ブロック説(growing block theory)」という三つの立場の特徴を、それらが抱える課題とともに、詳細に紹介しています。この記事を読むことで、読者は、現代の時間論に関する便利な見取り図を獲得することができるはずです。

文化の分析哲学

  • 「写真の「透明性」とデジタルの課題」(銭 清弘)
  • 「ビデオゲームの統語論と意味論に向けて: 松永伸司『ビデオゲームの美学』書評」(三木 那由他)
  • 「差異の認識と認識的変容」(佐藤 邦政)

文化の分析哲学記事に寄稿された3本の論考の主題は、それぞれ、写真の美学、ビデオゲームの美学、徳認識論(認識的変容)です。

銭氏の論考は、K.ウォルトンが「透明な画像: 写真的リアリズムの本性について(Transparent Pictures: On the Nature of Photographic Realism)」(1984)https://www.jstor.org/stable/2215023?seq=1#page_scan_tab_contentsで展開した主張を擁護し、さらにその今日的意義を示そうとするものです。ウォルトンはこの論文で、写真は透明であるという「透明性テーゼ」を掲げています。それによれば、われわれは、写真を通じて「文字通り」被写体そのものを見ているというのです。「視覚の補助」をなすという意味においては、写真は、手製の絵画やスケッチよりも、むしろ、メガネや望遠鏡により近いものだということになるでしょう。銭氏は、まず論考の前半部で、このウォルトンの「透明性テーゼ」のポイントが「客観性」と「類似性」にあることを確認し、更に「透明性テーゼ」に対してなされうる反論[5]を検討しています。これを踏まえ後半部は、この「透明性テーゼ」が今日の私たちを取り巻く状況においてなお有効なものでありうるのかが問題とされています。というのも、「デジタル写真」が登場し、誰にでも容易に写真加工が可能になっているいま、写真経験は、ウォルトンの論文出版当時ほど「現実的」なものではなくなっているようにも思われるからです。けれども銭氏は、こうした「デジタルの挑戦(Digital Challenge)[6]」の時代にあってもなお、ウォルトンの「透明性テーゼ」は有効であり続けていると論じています。

三木氏の論考は、昨年10月に刊行されて以来、各方面に大きなインパクトをもたらし続けている、松永伸司氏の『ビデオゲームの美学』(慶應義塾大学出版会、以下ビデ美)についての(36ページにわたる!)本格的な書評論文です。

一言でいえば、ビデ美は、ビデオゲームを記号論的に分析することを目標とした本です[7]。もしビデオゲームが(言語と同じように)一つの記号体系をなしているならば、ビデオゲームは、それ独自の統語論や意味論を持っていることになります。それらは果たしてどのようなものになっているのかが、ビデ美(の主に第二部)では考察されています。

もうすこし補足をしましょう。統語論(syntax)とは、個々の記号同士の関係を支配する規則についての研究を行う記号学の一分野です。統語論は「I like cats.」のような文法的に正しい文と「Like cats I.」のような非文とを区別するものが何かを明らかにしていきます[8]。それに対し、意味論(semantics)とは、記号とそれが表す内容との関係を研究する分野です。松永氏は、ビデオゲーム(例えば、スーパーマリオ)のディスプレイに登場する、マリオや、土管や、キノコもまた(単語に相当するような)一つの記号であり、またそうである以上、記号同士の関係(例えばマリオとキノコ)を支配する規則や、記号とそれが表す内容との関係(例えば、画面のマリオは何を表象しているのか)についての理論を考えることが出来ると言うのです。

三木氏は、ビデオゲームに統語論と意味論を与えることが出来るという主張に同意を示しつつ、松永氏が提示した理論には二つの修正すべき点があると主張しています。ひとつは統語論が不十分であること、もうひとつは松永氏の言う「意味論」は別の観点から捉えられる必要があることです。三木氏はこれらをカバーするべく、複合的記号の統語論を補い、松永氏の言う虚構的「意味論」とゲームメカニクス的「意味論」がそれぞれ、実は語用論と準因果的情報関係なのではないかという提案を、言語哲学の専門家の立場から具体的に展開してみせています。内容的に批判を含んではいるものの、松永氏の試みをさらに前進させようとする、いわば「ラブレター」的な書評論文となっています。

佐藤氏の論考は、障害者と健常者とが共生していく中で求められている「合理的配慮(reasonable accommodation)」、すなわち、「個々の障害者の具体的なニーズや選好を把握し、障害者が被っている社会的障壁を除去する」ことはどうしたら可能なのかについて、現代認識論を理論的背景として考察を行うものです。佐藤氏はまず、論考の前半部で、近年の障害学研究をサーベイし、異質な他者との共生がどのように特徴づけられてきたのかを押さえます。そして、障害者との共生において、障害者と実際に関わり、お互いの差異を認識するための徳を身につけ、認識的に変容していくことの必要性が確認されます。それを受け、論考後半部では、こうした差異の認識に基づく認識的変容が、具体的にどのようなルートによって達成されることになるのかについて、二つの方向性を提示しています。一つは、障害者のニーズや選好といった「差異内容の認識」によって生じる認識的変容です[9]。二つ目は「差異の存在の認識」によって生じる認識的変容です。この論考を通じて、佐藤氏は、差異内容の認識を更新していくなかで相手との摩擦を減らし理解を深めていきつつも、理解が進んだからこそ見えてくる他者の原理的な「わからなさ」を受容していくことこそ、共生において求められる認識的変容なのだと主張しています。

(第3回に続く)

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フィルカル編集部
谷田



[1] ただし、ルイスとは別の仕方で可能世界概念を特徴づけることも可能であること、そしてルイスのやり方が反事実条件文の分析や因果分析に応用可能な唯一のやり方というわけではないということは、押さえておきましょう。

[2] Philosophical Papers Volume Iに収録されています。http://www.oxfordscholarship.com/view/10.1093/0195032047.001.0001/acprof-9780195032048)

[3] 2017年に、永井均氏による翻訳が刊行されています。http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211898

[4] マクタガートは、(i)時間の基礎をなすのはA-系列であるが、(ii)A-系列は矛盾を含んでいるから、時間は実在しないと論証しています。この手続きのうち、(i)を拒絶する立場が「無時制理論」、(ii)を拒絶する立場が「時制理論」と呼ばれます。永久主義は前者、現在主義と成長ブロック説は後者に属します。

[5] 銭氏がここでメインでとりあげている反論は、写真の生成プロセスに、作者の意図や信念が関与する以上、「写真は『客観性』の条件を満たさない」というタイプのものです。時代の前後はあるものの、Snyder and Allen(1975)Photography, Vision, and Representationhttps://www.journals.uchicago.edu/doi/abs/10.1086/447832?mobileUi=0&)がこのタイプの反論の代表として挙げられています。

[6] 「デジタルの挑戦」については、Gooskens (2011)のThe Digital Challenge: Photographic Realism Revisitedが参照されています。こちらからpdfをダウンロードできます。http://proceedings.eurosa.org/3/gooskens2011.pdf

[7] 三木氏は、ビデ美の第二部「一つの画面と二つの意味」を「理論上の心臓部」と位置づけ、議論をここの箇所に絞っています。ただビデ美では、この他にも、ビデオゲームの定義や、虚構世界論、プレイヤーの行為といった、様々なトピックが扱われています。詳しくは、慶應義塾大学出版会のHPをご覧ください→http://www.keio-up.co.jp/np/detail_contents.do?goods_id=3928

[8] チョムスキーは、『統辞構造論』のなかで、言語Lの統語論の目標を「Lの文となる文法的なシークエンスをLの文とならない非文法的なシークエンスから区別し、文法的なシークエンスが持つ構造を調べること」としています。「Lの文法的なシークエンスのすべてを生成し、非文法的なシークエンスのいずれも生成しない装置」としての文法を追求するのが統語論ということになるでしょう。この点、三木氏の論考を参照しています。

[9] この箇所で佐藤氏は、差異に対する感受性を性格徳とみなし、徳認識論の知見を大いに参照しています。

レポート:東京堂ホール・トークイベント「哲学者と編集者で考える、〈売れる哲学書〉のつくり方」(2019年3月10日)

3月10日(日)、東京神田の東京堂書店内にある東京堂ホールにて、弊誌編集長長田怜の登壇したトークイベント「哲学者と編集者で考える、〈売れる哲学書〉のつくり方」が、オンガージュ・サロン主催で行われました。近年、ポピュラー哲学と呼ばれる従来とは異なるタイプの一般向け哲学書が次々とベストセラーとなり、哲学書の「売れ方」の新しい局面が目立ち始めています。『フィルカル』では、これまでにないこの動向に対し哲学研究者には何ができ何をするべきなのかを考えようと、4-1号にてポピュラー哲学特集を組みました。当日のイベントではこのポピュラー哲学特集の執筆者三名に加え、編集者二人を招き、精力的に発表と議論がおこなわれました。

登壇者は、弊誌編集委員で4-1号掲載のポピュラー哲学特集を企画した稲岡大志さん(現在は大阪経済大学)、マルクス・ガブリエルブームを牽引する堀之内出版から小林えみさん、我が国における分析哲学の出版物を常にリードし、分析哲学という分野そのものを開拓してきた勁草書房から山田政弘さん、さらに数々の人文・社会系ブックフェアを成功させてきたことで知られる酒井泰斗さん(ルーマンフォーラム/ブックフェアプロデューサー)、現役の哲学研究者でありつつ企業に籍を置くマーケティングの専門家である朱喜哲さん(大阪大学/マーケティングプランナー)という、いまこのテーマでやるならこれしかない、と言えるくらいの豪華メンバーです。それでは、当日の様子をかいつまんで紹介していきます。(なお、紹介文の最後には、会場ではお答えできなかったウェブ上でのご質問に対して、登壇者の方たちからの回答が寄せられています。ぜひ最後までお読みください。)

最初に朱さんが全体的なブリーフィングを行いました。朱さんはまず「売れる哲学書」とはなにかという話から始め、具体的に「売れた」哲学書や一般的な哲学研究書の例とそれぞれの販売部数をあげていきます。そのうえで、研究者と出版社では哲学書の販売部数に関してそもそもかなり感覚の違いがあると指摘します。研究者はどうしても出版を研究業績、いわば「出せばよいもの」と思いがちなので数百部規模で考えますが、出版社は採算を意識して数千~数万部というスケールで考えます。一方で両者には突き詰めて話し合ってみると実は「持続可能性」という点で共有できる意識があることもわかり、「売れる哲学書」を持続可能な哲学書と捉えることで、ともに「売れる哲学書」を共通の目標にできる、といいます。ここで持続可能性とは、研究者にとっては当該分野における研究の、出版社にとっては(その分野の)出版ビジネスを継続していける可能性のことです。さらにこうした持続可能性を確保できる最低限の目安として、出版部数1,500部、出来高(単価×販売部数)5,000,000円という具体的な数字をあげられました。

続いて弊誌編集長長田から、近年のポピュラー哲学の隆盛と関連づけるべく、三年前のフィルカル創刊の三つの背景について簡単な説明がありました。第一の背景は、分析哲学と大衆文化の一般化です。分析哲学はもともとドイツ語圏やフランス語圏の哲学に対し、英語圏の哲学として知られていましたが、現在では世界中どの地域においても広く研究されています。また、誕生期には論理学・数学・自然科学を主な研究対象としていましたが、現在ではかなり広範な領域(ほぼすべての哲学的テーマ)にわたって研究が行われています。一方、最近いわゆるインテリ層がアニメ、マンガ、ゲーム等の大衆文化を積極的に楽しみ、語るようになっているという一般的な傾向が見られます(これは哲学科の大学院生などに限ってもここ十数年で特に目立って感じられます)。この二つの「隆盛」をもとに、プロの批評家ではなく分析哲学の専門家が、哲学以外の文化的事象一般を批評的に論じてみようという試みがフィルカルを生んだというわけです。

第二の背景は、分析美学の存在感が近年ますます大きくなっている、という事実です。分析美学は、分析哲学の手法や概念を用いて美学的概念を研究する分野ですが、このところ日本語でも刊行物が相次ぎ、若手研究者の数も増えてきています。フィルカルスタッフにはこうした若手分析美学者が数多くいて、投稿原稿のかなり綿密な査読をしてくれたり、あるいは原稿検討のための研究会を開いてくれたりしています。そして美学がそもそも文化事象の批評を哲学的に行うにあたって強力な武器となるのは言うまでもありません。

第三の背景は、執筆者、読者、書店や出版社の方々などの「優しさ」です。創刊以来編集部が常に感じ、感謝しているのは、こうしたコンセプトをもとに雑誌を立ち上げようとしたときに、こちらが思っていた以上に多くの人々が好意的な反応をしてくださり、また応援してくださっている、ということです。今後はもっともっと多くの人に読んでいただいて、誌面を充実させたり、イベントを企画したり、応援してくださる「サポーター」とも言うべき方々に恩返しできるようにしていきたい。そうしたコメントで長田のトークは締めくくられました。

次の登壇者は稲岡さん、小ネタを挟みながら場を巧みに盛り上げつつ、なぜポピュラー哲学を特集しようと思ったのか、その企画意図をわかりやすく説明する手並みはさすがです。稲岡さんによれば、ポピュラー哲学とは、主に哲学の非専門家が哲学の非専門家である読者向けに書いた哲学書に象徴されるような哲学のことです。2010年の『超訳 ニーチェの言葉』(白取春彦訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン)の大ヒットを皮切りに、現在までポピュラー哲学書のブームが続いています。この新しい動きの背景となっているのが、それ以前の、もしくは潜在的に存在していた1.自分探しブーム、2.プチ教養書ブーム、3.自己啓発・スピリチュアル系読者層、4.ビジネス界からの熱い視線、の四つの要因であると稲岡さんは分析します。そのうえで現在のポピュラー哲学は大きく分けて雑誌、教養書系、ビジネス書系、エンタメ系へと枝分かれしていると指摘します。

専門家のコミュニティの外にあるこうした「哲学ブーム」に対して、専門家である哲学研究者はどうするべきなのか。関わらない、というのもひとつの答えかもしれません。しかし哲学の「ライトユーザー」層は専門家が思っている以上に広い、と稲岡さんは言います。専門家による哲学の研究活動も教育活動も、哲学の「ユーザー」を増やすための「営業」活動として見るならば、ポピュラー哲学はこうした営業の商業的に成功した部門であると言えます。またポピュラー哲学へ関心をもつことで専門家は自分たちの研究の社会的発信や波及効果のあり方について学ぶことができますし、さらにポピュラー哲学の成功による哲学系書籍(より専門的なものも含む)の市場拡大も期待できます。こうした理由から稲岡さんは専門家もポピュラー哲学に積極的に関心をもっていくべきだ、とうったえました。

三番目は、酒井さんです。 ブックフェア、研究会、学術書などのプロデューサーとして、 研究支援というほかに類を見ない独自の活動を続けてきた酒井さんが、まずこれまでの活動の概要を説明してくれました。酒井さんは自らを人文社会系研究の成果に対する「消費者運動」の「活動家」であると紹介しました。その根本にあるのは、自然科学の成果が我々の日常生活のインフラを生み出していくように、人文・社会系の思想も我々の社会のインフラを作っている、人は意識せずともつねに思想に従って行為している、という考えです。このように消費活動として思想の受容をとらえるなら、ほかの日常的な生産物の消費者運動と同様に、その生産過程に介入することで「生産物」のクオリティコントロールを行おうとするのは自然なことだ、と酒井さんは言います。

そこで具体的に過去に酒井さんが2014年に企画したブックフェア「実践学探訪:概念分析の社会学(エスノメソドロジー)からはじめる書棚散策」を題材に、生産者と消費者という観点から研究者と読者の新しい関係を構築した例が分析されました。一般的なブックフェアは、新刊の著者である有名人が、一般向けのやさしめの本を、自分のセンスの表現として選出する、というものです。これに対し酒井さんは、該当する分野全体において読むべき本、読んで間違いのない本を求めている読者層(コアな読書人)が広く存在していると考えます。実際、研究書というのは単独で読まれるものではなく、ほかの研究との関連で読まれるべきものです。そこで研究者のグループに、自分たちの研究を関連づけて読んでほしい本、自分たちの本を理解するために事前に読んでおくことが必要な本のネットワークを明示化し、紹介してもらうというアイデアにたどり着きました。これらのネットワークは研究者のあいだでは暗黙のうちに共有されており、論文中でわざわざ言及されることはありませんが、それこそが専門書にアクセスしたい読書人のハードルを正攻法で下げる情報なのです。そしてこうした明示化によって潜在的な読者の層を拡大し、本当であればその本が届いてよかったはずなのに届いていない人々へと本を届けることにもなる、と酒井さんは言います。実際この異例のブックフェアは異例の売上を残しました。酒井さんの視点は、徹頭徹尾社会関係のなかで研究やその成果の意味を捉える、というものです。研究とはどのようなものかという本質的な問題が著作の売り方の問題に直接つながり、具体的な成功例でそれを裏付ける、見事なプレゼンでした。

次は今回のイベントの司会もやってくださった朱さんの発表です。朱さんも『信頼を考える リヴァイアサンから人工知能まで』(小山虎編著、勁草書房、2018年)刊行記念(こちらも酒井さんプロデュースです)のブックフェア「リヴァイアサンから人工知能まで:信頼から始める書棚散策」を題材に、書き手が売り方に積極的にコミットして成功した事例を酒井さんとはまた異なる、マーケティングという観点から分析してくれました。具体的に朱さんが行ったのは、ブックフェア会場となった紀伊國屋書店さんから期間中毎週売上を報告してもらい、それをもとに主に売上の立っていない書籍について執筆者、推薦者にPOP作成やSNS上での宣伝を依頼、次週以降の売上データでこれらの施策の効果をみるというサイクルを六回繰り返す、ビジネスにおけるいわゆるPDCAサイクルを研究者自らが研究書について実践してみるという試みでした。

このように厳密にデータをとってみて、さまざまなことが明らかになりました。会場では各種グラフや数字をあげて実際に検証されていましたが、そのひとつは、SNSの影響力の圧倒的な大きさです。関連ツイートの三日後に売上があがるという明確な相関が全体的に見られましたが、POPの内容もSNSで発信することでさらに効果が高まることがわかりました。全体としてフェア内でツイートの多かったカテゴリは売上が大きかったということも明らかになりました。また、棚陳列、平積み、平積み+POPで比較すると、平積み+POPの売上が圧倒的に増えています。これはつまり、学術共同体において「お墨付き」の専門家によるリコメンドは明確な効果がある(特に初動において)、ということです。さらに興味深いのは、専門書に関しては高い本が売れないとはまったく言えない、という結果です。むしろ専門家による適切なリコメンドがあれば、フェアの終盤にかけて高い本ほど売れていく傾向があります。マーケティングのプロだけあって、朱さんによる数字とデータ分析による解説にはたいへんな説得力がありました。

続いてディスカッション、まずは編集者のお二人に研究者の側からの質問にお答えいただきました。そのうちのいくつかをご紹介します。

Q.『フィルカル』など哲学者側からのチャレンジは版元や出版業界全体のなかでどう位置づけられているのか?

「哲学の編集者とはいえませんので、以下、人文書にも携わる編集者という立場からわかる範囲でお答えさせて頂きます。また今回のイベントにかかわる所感は配布資料にまとめましたので、そちらをご覧下さい(「所感:2010年代の日本の商業出版における著者と編集者の協働について、営業担当者と書店との協働について」)。研究者には研究者にしかできないことがあるので、そういった点をどんどん発信していってほしいです」(小林さん)

「一般的に、編集者には限られた時間のなかでの出版点数の確保という問題があるので、内容や質の精査といった側面、ゲートキーピングをその分野により詳しい研究者が行ってくれるのはありがたいのではないでしょうか」(山田さん)

Q.そもそもアカデミックな研究者に期待することはなにか。

「あまり各方面に目配りしたり気を使ったりすると研究が「小さく」なっていく可能性もあります。自分の好きなことを積極的にどんどん研究してほしいです」(小林さん)

「最近の若手研究者は専門分化が目立つので、商業出版としては自分の専門を多少離れても大きな話ができる筆致を身につけていただけると助かります」(山田さん)

Q.「売れた本」というのは狙い通りなのか。

「通常の売れ行きに関しては、版元の努力である程度は売れるはずですので、その努力は版元の責任だと思って販促に努めます。それ以上のヒットに関しては外部要因が大きく、あらかじめの予測はできません」(小林さん)

「著者の過去の売上や分野ごとの規模感から、下限は予測できます。それ以上は偶然的です。弊社の「売れた」本に関して、初刷りから多めに刷ってあったものはあまりありません」(山田さん)

Q.分野ごとの規模感というのはどうやって知るのか。

「営業と書店との関わりや出版業界の横のつながりなどで情報収集します」(小林さん)

Q.そういった蓄積された規模感のない新しい分野の場合はどうなるのか。

「とりあえずその分野の翻訳を何点か出してみて様子を見るということはあります。また、必要だと考えれば粘り強く出版を続けることで日本でのその分野自体を開拓しようとすることもあります」(山田さん)

Q.ポピュラー哲学の読者が専門の研究書を読むようになるということはあるのか。

「ものによります。飲茶さんの本などは、科学哲学などを結構とりあげてくれているので、弊社の刊行物につなげてくれている可能性はあると思います」(山田さん)

「読んだ人がその分野全体へ興味をもったり、若い人が読んだ場合に進学先として選んだりなどの影響が考えられます」(小林さん)

ここで稲岡さんが発言し、大学のシラバスなどをみると、ポピュラー哲学書を入口にしてそこから専門家による入門書を読むなど、ポピュラー哲学書を段階的な導入に用いることで有効に活用している例が見られること、最近は研究者がポピュラー哲学のスタイルで書いたしっかりしたものが成功している例も見られること(津崎良典『デカルトの憂鬱』(扶桑社、2018年)、岸本智典編『ウィリアム・ジェイムズのことば』(教育評論社、2018年)、国分功一郎『NHK 100分de名著 スピノザ『エチカ』』(NHK出版、2018年)など)などをあげて、ポピュラー哲学による専門書への橋渡しが十分期待できることを指摘しました。

最後に、ウェブ上や会場でいただいた質問に登壇者が答える時間が設けられました。そのうちのいくつかを紹介します。

Q.フェアで一時的に売上がのびるのはわかったが、その後の持続的な影響はあるのか。

「それが直接わかるデータはありません。しかし、各フェアそれぞれについてフェアパンフレットを再現したWEBページが複数あり、そこからは継続的に売れていますし、書店の方はフェア終了後も全国の図書館や大学にフェア・パンフレットをもって営業しており、双方をあわせると、フェア期間中の書店店頭よりも多く売れているだろうと思います」(酒井さん)

Q.表紙やタイトルをポップなものにすると読者が手に取りやすいというのはあると思うが、出版社側はどのように決めているのか。

「基本的には編集者の好みが大きいですが、著者が強く希望を出して決まることもあります。タイトルは分野がなんであるかを明示したいときはポップなメインタイトルにサブタイトルで分野名をいれたりもします」(山田さん)

「書籍の内容や販売計画から考案します。著者も要望を言ったほうが良いです。タイトルは著者の要望と、読者、書店で置いて欲しい棚などを考えて総合的に決めることが多いです」(小林さん)

「ポピュラー哲学を出している出版社の本を見ていると、明らかに表紙やタイトルで売れるように様々な工夫を凝らしているので、学術出版社もそういった方向に冒険してみると面白いのではないでしょうか」(稲岡さん)

Q.ポピュラー哲学は非専門家による非専門家のための哲学入門書とのことだが、専門家が書いたものもあるように思える。どういう区分なのか。

「非専門家による非専門家のための、というのはおおまかな定義で、そうしたポピュラー哲学のスタイルというものがあり、それを専門家が真似て書いた場合はポピュラー哲学と言えると思います。ここでいうスタイルには表紙、タイトル、版元がどこか、といったことまで含みます」(稲岡さん)

「この点については『フィルカル』4-1の特集冒頭で企画者の稲岡さんが詳しく敷衍しています。ぜひご覧ください」(酒井さん)

ウェブ上には多数の質問をよせていただきましたが、会場では十分にお答えできませんでした。そこでその一部について、登壇者のみなさんからのお答えをここに掲載します。

Q.ポピュラー哲学書が売れる意義はわかったのだが、学術書が商業的に売れる必要はあるのか。

「《読まれる》と《売れる》が商業的にはほぼイコールですが、大事なのは《読まれる》ことだと考えているので、必ずしも商業ベースであるべきとは思っておらず、《読まれる》ためには研究者主体によるオープンアクセスなども可能性があると思っています」(小林さん)

 「確かに売れなくとも(商売の継続性を除いて)すぐにどうこうということはないが、量が積み重なると、質が変容する(高まる)ということはありますし、それがないと、全体としてまずいのではと考えています」(山田さん)

「この質問は、イベントタイトル内の〈売れる〉という表現の曖昧さと、ポピュラー哲学と専門的な哲学との関係を専門的な研究者たちがどう考えているのかに関する曖昧さの双方から出てきたものではないかと思います。後者については、専門的な哲学者の側の現在のステージがまだ、「専門的哲学者がこれまで考慮してこなかったポピュラー哲学との関係をきちんと考えたい」というくらいのところにあり、これに対する明確な方向性が示されたわけではありませんでした。前者については、会のなかでは「学術書もポピュラー哲学と同様に売れるべきだ」という主張がなされたわけではなく、述べられたのは、学術書にも「適正な・売れないと困る規模」がある、ということでした」(酒井さん)

Q.データ分析を行ったとしても、すぐにそれをフィードバックするのに耐えられない取次によるサプライチェーンの問題はどうすれば解決できるのか。コンビニができるきめ細やかな流通を出版業界はできてないと思う。

「例えば取次流通ではない直取引流通は手段の一つですが、直取引だけが唯一絶対の手法ではないと思います。コンビニとは扱う商品点数の桁や商品鮮度が違うので、それを「できていない」という比較にあまり意味を感じられません。ただ読者に対してストレスなく必要な書籍を届けられているか、ということに業界内も読者も合格点に達していない、という認識があることは確実で、意見や改善提案はされているところなので(直取引もそのひとつ)、それが実を結ぶといいなと思っています」(小林さん)

「おっしゃるとおりだとは思いますが、きめ細やかな流通を実現したところで、全体としてうまくまわるかはまた別のようにも思いますが、ちょっとそこらあたりの知見ははずかしながらもちあわせていません」(山田さん)

「データ分析とひとくちに言っても、分析対象となるビジネスごとに有効な手法は異なります。それはとりわけ対象ビジネスごとに介入できる単位と粒度が異なるからです。今回のPDCA事例でも検証して有望と思われる施策があっても商慣習上できないことがありました。一方で外からの分析者の示唆から商慣習を改訂できないか考慮してみることと、他方でそもそも出版商慣習とリソース具合にマッチした分析、PDCA手法を開発することは、同時に両輪で取り組めるのではないかと思います」(朱さん)

Q.出版社が出版点数を追うのは何故か。ブックフェアの成功が示唆しているのは「新刊じゃなきゃ売れないというのは幻想だ」ということではないのか。

「会社によって考え方は異なるので、違う場合もあると思いますが、《一般的に》新刊売上が既刊本を売るより経済的な効率は良いからです(弊社がそういう考え方をしているということではありません)」(小林さん)

「わたし個人としてはそのとおりであると思います。ただ、新刊を出すと、一気に売れますからね」(山田さん)

「「新刊じゃなきゃ売れないなんてことはなかった」というのは幾つかのフェアの経験にもとづいて私が述べたことでした。「幻想だ」というのはさすがに言いすぎですが、それでも「新刊なしという前代未聞のフェアが、にもかかわらず成功した」という事例を少数であれつくれたことは間違いありません。これを真面目に受け止めてくださる書店さん・出版社さんが増えることを期待したいと思います」(酒井さん)

「今回のイベントでの示唆のひとつに、ご指摘の点および出版社にとって「予想外に爆発的に売れ、以降は売れない(大量返品が出る)」本よりも「ある程度予想が立ち、安定的に売れる本」がありがたい、というものがありました。これを念頭に置くと、買い手や書き手たちが考えられる手法の幅は広がるだろうと思います」(朱さん)

Q.個人的には哲学書と自己啓発書が近づいているイメージがある。両者の違いについてどう考えているか。例えばその違いは、内容的な面なのか、著者なのか、出版社なのか。それともそんなに意識的に分けていないのか、など。

「読者対象の違いでしょうか。広く一般を想定するのか、学生・院生・研究者を想定するのか」(山田さん)

「「自分自身の認識や能力を向上させる」という本来の意味での自己啓発と哲学書はそもそも相性がよく、ポピュラー哲学書には自己啓発書として読まれることを想定して出版されたものも多いです(詳しくは本誌4-1号のポピュラー哲学特集をお読みください)。ですので、「哲学書と自己啓発書が近づいている」というよりは、哲学書の自己啓発的な側面に着目した(ポピュラー)哲学書や哲学書のテイストを織り交ぜた自己啓発書の出版が目立っている、という方が適切かもしれません」(稲岡さん)

Q.本を宣伝、販売するときの工夫(執筆者によるツイート、PDCAなど)に加えて、書籍の企画や執筆、編集の段階での〈売る〉ための工夫はあるか。

「あまりかわったことはしていないかもしれません。なにかあればいいのですが、勁草書房レベルの商売の規模において費用対効果の問題をクリアする方策がなかなかないというのが現状かと」(山田さん)

Q.ポピュラー哲学の本を、ガチな哲学書の読者を増やすためのツールとして生産するというのはありだと思うが、これまで哲学にふれてこなかった層ではポピュラー哲学の本でとどまる人のほうが多い気がする。ポピュラー哲学の本の影響力は実感しているか。

「影響力を実感しているかといわれると、あまり感じていないということになりますが、長期的には、裾野を広げることは絶対にあるので、期待しています」(山田さん)

「これはポピュラー哲学本ばかりの影響かはわかりませんが、ビジネスでも「哲学・倫理学」に向けられる視線が、ここ5年くらいでもかなり好意的ないし期待を帯びたものになっていると実感します。自分なりの仮説もありますが、この辺りはぜひ『フィルカル』特集をご参照いただければと思います」(朱さん)

「たとえば哲学教育の現場でポピュラー哲学の影響力(ポピュラー哲学本のおかげで哲学に興味をもった、など)を実感するかというと、正直それはあまりありません。しかし、ポピュラー哲学本でとどまる人が多いこと自体は悪いことだとは思っていなくて、とにかく哲学に触れる機会が増えることは重要だと思います。ただ他方で、「ガチな哲学書の読者」になる道をもう少し整備してもいいのでは(たとえば、橋渡しするレベルの本を増やしたり、そういう本をどのような順番で読めばいいかなど紹介したり)、とは思っており、『フィルカル』はそれに貢献していきたいとも思っています」(長田)

「ポピュラー哲学書の書き手には、それ自体で完結した読まれ方を想定してされている著者もいれば、より進んだ内容の哲学書への橋渡しを意図されている著者もいます。ただ、そうした著者の意図とは別に、教育現場でポピュラー哲学書を活用する試み自体はもっとなされてもよいと私自身は思います。実際に私はポピュラー哲学書を用いた授業を行っています。効果を分析する段階にはまだなく、あくまでも肌感覚レベルですが、手応えのようなものは感じています。教育現場でのポピュラー哲学書の活用は探求する意義のある課題だと考えています」(稲岡さん)

Q.「リコメンドをすれば高い本も売れる、むしろ売上数を増やすために安易に値段を下げる必要性が薄いのでは?」とのことだったが、結局高価な本を買う層は潜在的に購入意欲がある層で、その分野の人間なのではないのか。ライト層への普及に繋がっているのかが気になる。

「ブックフェアの結果をみるに、その分野の人だけともいえない成果があがっているように思います。ライト層をどう定義するのかにもよりますが、「教養人」とされる方々はいらっしゃって、そこに届けば、ありがたいです」(山田さん)

「マーケティング一般の知見として、売上を顧客ユニーク単位でみたならば、その大半がごく少数の顧客で占められている(少数顧客が売上の大半を構成している;パレートの法則)という構造が認められます。この傾向は商材の嗜好性が高いほど顕著で、今回は顧客ユニーク単位では分析できないデータ環境でしたが、単価と売れ行きから推定すると学術書は嗜好性の高い商材でしょう。そのため「(ボリュームゾーンである)ライト層が重要」という言説は、いちど疑ってみてもよいかもしれません。もちろん、通時的にみれば明日のヘビー層を育成するための活動は重要ですが、それは出版セクターだけに課されるべき任務ではないでしょう」(朱さん)

「これまでのフェアの経験からしても、〈潜在的に購入意欲がある層=その分野の人間〉とは必ずしも言えません。適切な仕方で情報の提示があればお金を出すつもりのある読書人層というのは実際におり、私がおこなってきたフェアでは、むしろそこをコア・ターゲットとして設定し、その層の要求に耐えうる情報を提供しようと試みてきました(だからこそ「読書人による読書人のためのブックフェア」と銘打ってきたわけです)。またヘビーな読書人も当初はライト層だったはずです。これまで私主催のフェアでは詳しめの紹介文とともに150〜200冊の本を一気に紹介していますが、これはもちろん、ライト層からヘビー層への橋渡しのことも念頭においています。さらにまた、ライト層には研究を指向している学部生・院生が含まれていることも重要です。ブックフェアのリストを頼りに数年間にわたって系統的な読書をおこなったうえで研究会の場に登場する若い研究者はすでに出現しはじめており、その意味で、ブックフェアはライト層と専門的研究者の橋渡しにもすでに実際に役立ちはじめています」(酒井さん)

Q.専門書を選ぶ層は著者が誰なのかについても注意を払い、大家の本を買いがちだと思う。『信頼を考える』の著者陣はみなさん若手(研究員、講師、准教授レベルという意味で)だが、売るに当たって危惧はあったか。また若手研究者の本を「売れる本」にする工夫はあるか。

「学術書の編集者としては、良い内容となるようにお手伝いするほかないとは思いますが、わかりきったことをあえてあげるとすると、大家が取り組まない、先進的、チャレンジングなものにして、話題になれば、ということでしょうか」(山田さん)

「『信頼を考える』については、出版企画を聞いた当初から「厳しいだろう」と想像していました。その点、ブックフェアを開催できてほんとうによかったと思います。なにもしなければ手にとってもらう以前に負けていた可能性が高い本ですが、フェアのおかげで、内容の広がりと面白さを、無理なく、そして充分にアピールすることができたと思います」(酒井さん)

「少なくともブックフェアにおけるSNS上での宣伝効果に限定した話ですが、大家の先生によるPOP告知より、当該分野で認められている「若手」が発信した際の方が効果が大きかったりもしました。それこそ「大家」も巻き込みながら、学術コミュニティにおいて信頼されていたり、評価されている「若手」を可視化することが、哲学マーケット全体の活性化という意味でも効果的なのだろうと思います」(朱さん)

会場ではいくつもの「ここだけの話」があったので、この記事では触れられていない面白い話題もまだまだ聞けました。フィルカルでは今後もポピュラー哲学関連のものを含め、様々なイベントを展開していきますので、ご期待下さい。また最新刊4-1号では、今回のイベントの登壇者が原稿を執筆していてイベント開催のきっかけともなったポピュラー哲学特集が掲載されています。こちらでは具体的な書名を多くあげてより突っ込んだ議論が行われていますので、是非手にとってみてください。

フィルカル編集部
佐藤暁