レポート:ジュンク堂書店池袋本店トークイベント「スポーツの哲学へのいざない」

11月7日(土)、ジュンク堂書店池袋本店にて、弊誌主催のトークイベント「スポーツの哲学へのいざない」が開催されました。今回はそのレポートです。

このイベントはフィルカル最新号の「小特集:スポーツ」に連動したもので、登壇者はフィルカル編集委員でもある若手研究者、長門裕介氏(倫理学)と松本大輝氏(美学)のお二人です。それぞれ、スポーツを倫理学、美学の観点から分析することの面白さを語ってもらいました。トーク後のディスカッションではホールから次々に質問が飛び交い、イベント終了後に登壇者と参加者のあいだでさらに個別に議論が交わされている様子も見られました。この記事では、フィルカル編集部なりの観点から、当日の議論の内容をまとめてみたいと思います。

トーク中の長門裕介氏

長門氏のお話は、一言でいえばスポーツを「卓越性」という観点から分析するというものでした。我々はスポーツ選手を「偉大な」と形容したり、そのような人物になりたいと思ったりすることがあります。こうした事実は、我々がスポーツ選手を単にある特定の技術や身体的能力の水準が高い人として理解しているわけではない、ということを意味しているのではないでしょうか(実際、子供向けの「偉人」伝にはスポーツ選手が当たり前のように含まれていますよね)。スポーツ選手における卓越性とは、こうした「偉大さ」「立派さ」のことです。

この卓越性の面白いところは、もう一方でそれが単なる道徳的な美点とも異なる、ということです。というのも多少道徳的に問題を抱えた人物、私生活であまり好ましくない振る舞いをする人物であっても、偉大なスポーツ選手として称賛されることもまたありふれているからです(逆に、人格者として知られているスポーツ選手についても、同じくらいに人格者であるような市井の人々もいくらでもいるのだから、その人は優れたスポーツ選手だからこそその人格的な面も称賛されているのでしょう)。ではそれは具体的にどのような評価、称賛なのだろうか、我々は優れたスポーツ選手を称賛するとき、なにをしているのだろうか、そうしたことを考えるのが、スポーツにおける卓越性という独特な概念を倫理的な観点から分析する、ということです。

我々観客はスポーツ観戦を通じてこうした卓越性を目の当たりにしたいと思っているのだとは言えそうです。一方で我々は、競技においてどちらの選手が勝利するかを常に知りたいと思っているのも確かです。スポーツの試合では卓越している者同士が競い合って、選手(卓越者)のなかで誰が一番卓越しているか(卓越者のなかの卓越者)を知りたい、と思うのではないでしょうか。つまり、単純に考えると、卓越した選手=勝った選手であり、要するに我々は試合の勝敗を通してどちらがより卓越した選手であるかを知りたがっているのだ、ということになりそうですが、そうならないところがまた面白い点です。最近でもW 杯日本代表の対ポーランド戦での時間稼ぎのパス回しが話題になりましたが、勝ったけれどもなんらかの意味でフェアでなかったと評価され、「よい試合でなかった」と言われることはよくあります。勝つことが卓越していることと同じであるならば、勝ったのに称賛されない、ということは原理的にありえないはずです。このとき、勝利と卓越性の関係はどのようなものになっているのでしょうか。

ひとつには、こうした「よくない」試合は、勝利によって卓越性がうまく示されていない、負けたほうが実は卓越していたかもしれない試合だからよくないのだと考える手があります。これは、勝敗とは独立に卓越性というものが決まっていて、我々は勝敗を通して間接的に卓越性を知りうるが、それがうまく機能しないこともある、と考えることになります。一方で、あれはそもそもよくない試合ではなかった、「勝った方が強いのだ」、という見方もあるでしょう。このように考えるときには、卓越しているとは勝ったということだ、と逆に勝敗によって卓越性を定義していることになります。このとき、勝敗とは別に卓越性というものが存在しているわけではありません。さらには、卓越性は勝敗とは別のものであるが、あらかじめ決まっているわけではなく、実際の試合での勝敗によってその都度創られていくものだ、と考える両者の中間のような立場もあります。我々は実際の試合を通して卓越性とはなにかを理解し、あるいは何が卓越していることなのかという基準を新たに創造したり修正したりしていっているのだという考え方です。

以上の三つの考え方は、たとえば裁判における判決の意味とは何かという問題にもパラレルにあてはまるような、より一般的な問題の一例になっています。もっと話を広げてしまえば、哲学における実在論、反実在論といった議論(大雑把に言って、何かが我々人間の行為、認識、言語といったものから独立に存在するか否かといった議論です)に当然かかわってきます。このように長門氏の発表のポイントは、スポーツにおいて目指されている卓越性とはなにかという問題が、卓越性と勝敗の「存在論的な」関係をどう捉えるかという問題にたどり着くということを示す点にあったように思いました。

トーク中の松本大輝氏

二人めの登壇者、松本大輝氏はスポーツにおける「華麗なプレー」とは何かをテーマに、分析美学の観点から話をされました。スポーツにおいて存在する様々な美のうちのひとつに、「華麗なプレー」が含まれるのは間違いないことでしょう。こうした美しさ、華麗さとは結局のところなんなのでしょうか。

選手の身体動作のもつ特徴(リズム、スピード、正確さ、ダイナミズムetc.)がプレーの「素晴らしさ」や「華麗さ」において重要であるというのは間違いないでしょう。しかしそれだけでしょうか?たとえば競技としてのフィギュアスケートと、エキシビションでは、評価の基準が異なりますが、原理的には全く同じ演技をすることが可能です。このとき同じように四回転ジャンプをしたとしても、我々がそこに感じる「華麗さ」には違いがあるのではないでしょうか。そこで行われている身体的動作はまったく同じであり、その身体的な難易度もまったく同じであるにもかかわらず、です。このことは、華麗さが、純粋に身体的動作だけによって決まるわけではないということを意味しています。

あるいは、ボウリングと良く似た「ホウリング」という競技を仮に考えてみましょう。ボウリングとの違いは、指定されたピンだけを倒すことが目的であり、他のピンを倒すと減点になる、という点にあるとします。このとき、全部のピンを倒すという身体的動作は、ボウリングにおいては華麗であっても、ホウリングにおいてはそうではないでしょう。たとえ後者において選手が全部倒すことを(何らかの事情から)意図していて、その通りに実現できていたのだとしてもです。

これらの例は、プレーの華麗さは競技のルールによっても決定される、ということを示しています。それでは、我々が好き勝手にルールを決定することによって、どのプレーに華麗さ、美を感じるかも、好き勝手に決められるのでしょうか。そうではないように思えます。そもそもスポーツのルールというのは、いっぺんに決められてその後全く変化しない、といったものではありません。たいていの競技のルールは、長い時間の中での実践を積み重ねていくことで、少しずつ変えられていっています。重要なのは、このようにルールを修正していくとき、我々は無軌道にやっているわけではなく、なんらかの方針をもち、そうした方針をなるべく実現できるようなルールの改正を行おうとしている、ということです。ルールの変更には、明らかに「方向」や「目指すべき価値」があるのです。たとえばごく一般的なものに限れば、一定の身体性に依拠している、練習による上達が見込める、運に左右されにくい、などです。

そしてルールにはプレーの華麗さを決定するという役割もあるのなら、こうしたルール改定の方針には、華麗さを決定するための側面も含まれていると考えるのが自然でしょう。スポーツのルールには、より華麗なプレーが行われうるように改定されていく面があるということです。では、こうしたルール改定の方針とはどのようなものなのでしょうか。

それはどこかに明示的に書かれているわけではないし、誰かひとりが知っていて決めることではありません。その競技が実際に何度も行われていく歴史のなかで、その競技に関わる人々からなる一定の言説の空間が、なにが目指されるべきスポーツの価値であるべきなのかということ自体の了解が、少しずつ作られていくのです。松本氏は以上のダイナミックな空間を指して、何が芸術であるかを決める社会的・文化的空間を意味するものとしてアーサー・C・ダントーが発案した「アートワールド」に倣い、「スポートワールド」という概念を提唱できるのではないか、と述べました。こうした松本氏の話は、スポーツにおける美しさが「作られる」ものであるという側面を、ルールの改定という具体的な実践の観点から明らかにしたものだとも言えるように思います。

会場の様子

会場では二人のトークのあと、参加者から活発に質問が飛び交いました。どれも意外な観点を提示していたり、説得力のある反例であったりして、登壇者と参加者がひとつのことを一緒になって明らかにしていく、共同作業のような楽しい時間になりました。そのうちのいくつかをここで紹介したいと思います。

  • スポーツの卓越性ということで、スポーツを通して実現される普遍的な価値や能力ということを念頭に置いていたように思うが、たとえば実際の野球選手の能力は、野球においてのみ機能するような、かなり特化した能力ではないだろうか。一般にそのような価値は、倫理学において評価される価値とは異なるのでは?
  • お互いの実力が伯仲しているほど「よい試合」であるとみなされるというのは、観客は試合における偶然的な結果を評価しているということであり、どちらがより卓越しているかを知りたがっているわけではないということでは?本当にどちらがより卓越しているか知りたいなら、同じ対戦相手の組み合わせで何度も試合をして「誤差」を減らしていけばよいわけだが、そのようなことは興ざめである。偶然的な勝利や敗北を、我々は鑑賞したがっているのでは?
  • メジャーな球技のような観客の多いスポーツほど、運の要素を残しているように思える。ルール整備で排除しようとしているのは偶然性ではなく不公平さではないか?
  • アートワールドでは、これまでの芸術に対する「反芸術」の存在にポイントがあるが、スポートワールドではこれに対応する「反スポーツ」にあたるものがなにかあるのか?

実際のトークや質問にはここでは紹介しきれていない面白い内容も盛りだくさんでした。参加してくださったみなさま、ありがとうございました。イベント後、登壇者のお二人からもコメントをいただきました。

    • 松本氏から一言:ルール改定とプレーの華麗さとの間には、長門さんが取りあげた「よい試合とは何か」という観点がどうも不可避的に絡んできそうです。その辺りをもっと掘り下げられたら面白いかな、と思います。みなさんもぜひ考えてみて下さい。当日は刺激的な質問をいくつもいただきありがとうございました。

長門氏から一言:今回のイベントでは「勝利とは何を意味するのか」「試合をすることにどんな意味があるのか」といったことを扱いましたが、これはスポーツ倫理学の話題のひとつをごく狭い仕方で切り取ったものにすぎない、ということを改めて強調したいと思います。この話題を出発点にするにしても、松本さんが発表されたようなスポーツの審美的な側面や法哲学的な側面からの検討などが必要だということは容易に想像がつきます。あるいは、スポーツ批評において批評者は何をしているのか、といったことについても立ち入った分析が必要でしょう。このイベントがみなさまを触発して「こんなアプローチもあるかもしれないよ」ということを思いつくきっかけになったらなによりです。またどこかでお会いしましょう。

最新号には、ここでのトーク内容とはまた角度の異なる長門裕介氏のスポーツ倫理学論考や、高橋志行氏による合気道をめぐる論考が掲載されていますので、興味をもたれた方はぜひお手にとってみてください。

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さて引き続きフィルカルでは、明日11月23日に公開ワークショップ「ネタバレの美学」を現代美学研究会と共催いたします(http://d.hatena.ne.jp/conchucame/20181002/p1)。こちらもきっと面白いものになると思いますので、今回参加していただいた方も、この記事を読んで面白そうだなと感じてくれた方も、ぜひご参加ください。

フィルカル編集部
分析哲学と文化をつなぐ雑誌