ディスカッション記録:フィルカルVol. 3, No. 1刊行記念イベント @Readin’ Writin’(2018年4月21日)

2 岩切氏への質問と応答

創造概念の扱われ方

参加者D
「創造と複製」というタイトルですが、そのわりに、「アプロプリエーション・アートには剽窃と違って創造が含まれている」という消極的な仕方でしか創造が扱われていないですね。今後は創造について積極的に語るつもりはあるのでしょうか。それとももう少し違う方向性があるんでしょうか。

岩切
僕が念頭に置いている「創造」というのは「芸術作品を一個新しく作る」という程度のことで、創造について定義を出したり、創造に必要な要件を探したりといったことにあまり関心はないです。論文では、否定的に扱われがちな複製についての見方をアプロプリエーション・アートの例から改訂し、創造についての考え方を一部改訂できることを示したかっただけなので、創造についての研究は今後はやらないかなと思います。

参加者D
創造概念が一部改訂されるというのはどういう意味での改訂なのでしょうか。

岩切
「複製だったら創造じゃない」という考え方〔の改訂〕です。アプロプリエーションも複製に含めているので、アプロプリエーションが創造だったら、複製全部が創造じゃないとは言えない、ということです。
それ以外にも贋作についても似たような話ができます。メーヘレンの贋作は一個の作品とは言えますよね。そういうふうにスタイルのパクリでも新しい対象として見なされるということはあると思うので、今回の議論を類型に「…であれば創造じゃない」のような論証に対して応用できるかな、とも思います。「贋作であれば創造じゃない」のような議論に対しても。最初はそういう〔贋作の場合への〕モチベーションがあったんですけど、今回はアプロプリエーションを扱っているという感じです。

参加者D
「創造と複製」というタイトルだったので、「創造」が入ってるんだから創造の話しろよ、と思ったのですが、今のお話を聞いたらいいぞ、と思いました。でもタイトルに入れるのはどうかな。

岩切
タイトルとかセクション名や立場の名付けに関しては他からもいろいろ指摘を受けていて、それはひとえにネーミング力のなさかなと思います。

参加者B
「新しい作品ができれば創造である」という定義は別にネガティブではないのではないかという気がします。実践ベースで考えたときに、美学者ではなく批評家や受容者がこれが新しい作品だと評価していれば新しい作品だ、とすれば〔先の〕定義は十分だと思われる。レヴィーンの場合にはそれが成り立っている。新しい作品(パクリに見えるような作品)が出てきたときに美学者が判断できるわけではない、という立場をとれば、別にネガティブな定義ではないのではないかと思います。

岩切
一つ補足しておくと、アプロプリエーション・アートはパクリをしながら創造を行える最強のジャンルじゃないか、みたいな誤解があるかもしれないけれど、実はアプロプリエーション・アートは失敗のリスクが非常に大きい実践です。ちゃんと芸術家の意図や目的が伝わらない場合には失敗する。そのことは論文に少し書きました。なので、それこそ実践で意図の表明に成功するのか、失敗するのかが直接創造の成功・失敗に直結してしまうと僕は考えています。

参加者D
アーティストのスキルとは何か、という問題に関わっていますね。アートという制度を熟知していて、どういう場合に作品と呼ばれるかすごくよく理解していないといけない。

岩切
フェルメールの時代にフェルメールの作品を真似して自分の絵です、と言っても通用しなかったでしょう。アプロプリエーション・アートは今だからこそ出てきた芸術作品ではあると思います。

参加者D
そのスキルを一つ一つ明らかにしていけば、すばらしい研究になるのでは。

岩切
そうですね…一つ言っておくと、アプロプリエーション・アートの創造に含まれている独自の要素は、手を動かすといった物理的なものというよりは、意図や目的にかかわる知的なものなのかなとは思います。

アプロプリエーションと剽窃の評価軸の違いは程度問題ではないのか

参加者B
評価軸が元作品と異なるかどうかが剽窃とアプロプリエーションを区別するポイントの1つとなっていたが、この区別は程度問題なところがあるのではないかという気がします。まだレヴィーンとかプリンスの場合ははっきり別と言えるかもしれません。〔しかし、〕私はvaporwaveが好きでよく聴くんですが、基本山下達郎とか竹内まりやをそのまま流してるわけじゃないですか。ほとんど変わらないんですよ、山下達郎聴いているときの評価軸と。少なくともかなりかぶっている。逆に山下達郎や竹内まりやをvaporwaveとして聴くこともできる。その場合、評価軸はそこまではっきり分かれていなくて、程度問題だと思うんですが、岩切さんはどう思うんでしょうか。

岩切
程度問題というのはまったくそうだと思います。ピカソの例など、部分的なアプロプリエーションでは評価軸がかなり近くなってくるとは言えます。今回は、レヴィーンやプリンスの例をもとに贋作、剽窃、アプロプリエーション・アートの比較の表を作りました〔291頁、表1〕。評価軸が別ということで僕が考えていたのは、「全体として見ると評価軸が別」というぐらいのことです。

参加者B
先ほど「認知的なレベル」と言ったが、確かにエヴァンズの元作品とは違ってレヴィーンの作品はコンセプチュアルな理解が必要なので、ここでは認知のレベルが質的に異なりますよね。でも、音楽の場合は同じ音構造を評価することは変わらないので、同じレベルで評価していると言えないですか。

岩切
誰が作っているのかが関わるだろうという気はしますね。ただの山下達郎と、山下達郎をもってきた別の音楽家では、後者の人はこれまで何を作ってきていて、何年にその作品を作っていて、というような区別があるのでは。

高田
山下達郎はやさしい気持ちを伝えようとして作っているけれど、vaporwaveの人はそういうやさしい気持ちとかをバカにしようとしているとか。

参加者B
バカにしてないですよ、別に。やさしい気持ちになりますよ。


それはちゃんと聴けてないんじゃない。サンプリングとか無視して音だけ聴いちゃうようなことになってる。

参加者B
vaporwaveはそういうものじゃないのか。レトロ感はあるけど。


ちゃんと評価する人たちはどこからとってきたかを見るのでは。

参加者B
そういうのは全部コメント欄に書かれる。聴き方としては元の構造をそのまま聴くんですよ。

岩切
評価軸っていう言い方がよくなかったかもしれないですね。

参加者B
別のレベルで評価する場合はよいが、同じレベルで評価するものはあるので、剽窃とアプロプリエーション・アートの間ぐらいのものを入れてもよいのではないですか。

高田
ヒップホップの曲をヒップホップがサンプリングするみたいな場合は?

参加者B
ヒップホップの曲が元ネタじゃなくても、パッヘルベルのカノンにラップ載せるみたいな場合にはパッヘルベルのカノンのよさは残っているわけじゃないですか。

高田
しかしその場合評価軸が変わっていると言っても僕は違和感はないですけどね。


アプロプリエーション・アートという1980年代以降の西洋芸術史の一ジャンルの話をしているのか、ピカソの例のように広い意味でのアプロプリエーションの話をしているのかを分けたほうがよいのでは。

岩切
そうですね。ここで念頭においているのは前者で、後者は例で挙げただけですぐに退けたつもりでしたが、伝わっていなかったかもしれないです。後者はカルチュラル・アプロプリエーションと呼ばれることもあって、最近だとダウンタウンの浜田さんがガキ使で顔を黒塗りにして非難された件とか、着物を白人が着て「ジャパニーズ!」みたいな感じで提示したものがアメリカで非難された件とかが、その例です。そういうふうに勝手に特定の文化の要素をもってきて勝手に改ざんしたりいいとこどりしたりするのはダメだ、という考え方もあって、それらが文化的盗用という意味でのアプロプリエーションがそれに相当する。しかし、ここで念頭においていたのはレヴィーン以降の芸術ジャンルで、ハイカルチャーの狭いところで行われているアプロプリエーション・アートです。


広い意味でのアプロプリエーションだと〔表のように区別しようとすると〕あいまいなものがいろいろ出てくる。

参加者B
その意味での文化的盗用だとスタイルを盗んで用いるというレベルであって、作品間の関係ではなくてジャンルの特徴とその作品の関係の問題になるので、今回のような比較にはあまりならないと思いますね。

アプロプリエーションは因果説でも扱えるのでは

参加者C
因果説では〔レヴィーンのような〕アプロプリエーション・アートを扱えないという話でしたが、因果説をもうちょっと厳密になるよう改訂すれば因果説も採用できるような気がします。というのも、レヴィーンの写真がエヴァンズの写真と別の作品なのは、前者は後者と同じフィルムから現像したわけではなく後者を別のカメラで撮っているからで、この場合因果的に切れているとも言えるのではないでしょうか。

岩切
〔因果説ではダメである根拠の〕一つは、因果説で定式化したときにトマソンなどは「一連の複製のグループに含まれる」のように複製という概念を使うわけですが、因果説の人たちはこの複製という概念を分析しておらず、雑にしか扱っていないので、それはよくない、ということです。もう一つは、その複製という概念を僕が論文の中で分析しましたが、その結果、レヴィーン作品は複製に含まれないといけない、という判断になりました。三つ目は、もしそうじゃない形で複製ではないと言おうとするなら論点先取になると論文に書きました。創造であれば複製でない、つまり、これは創造で作り方も違うから複製ではない、という点を先取りして結論を出しているのではないか、ということを論証として取り出して検討しています。もし、そうではなくて実践レベルとして作り方が異なるではないかと言おうとするなら、僕が論文で最後に定式化した実践説でいいのではないか、と思います。つまり、実践で芸術作品の鑑賞に関与するものが芸術作品の同一性にとって大事だ、という説で、論文ではこれを擁護しています。タイトルとか制作方法とかが同一性の判断に関わってくるというのはこの説では言えますが、そのままの因果説では言えない。僕も因果性があることは否定しないですが、ここでいう因果説というのは非常に条件のきつい立場です。
それから、この例は写真メディアなので作り方が違うから作品として違うと思われるかもしれないですが、そうでないケースもあります。紹介した『ライ麦畑でつかまえて』をアプロプリエーションしたプリンスの作品は、単に印刷しているだけなので事例の作り方は現代の文学作品とほとんどいっしょだろうと思います。それから、音楽の例だと、聴いたものを演奏する場合、たとえば、僕がパッヘルベルのカノンを聴いて真似した場合はパッヘルベルのカノンの演奏だと言えますよね。しかし、マイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』というアルバムを音構造やノイズまでほとんど完全に再現して演奏した別のバンド(Mostly Other People Do the Killing)の『ブルー』というアルバムが存在しています。『ブルー』の制作方法は、聴いて真似するという点では普通の音楽実践と同じなのだが、だからといってこれを同じ作品だと考えるのは誤りだと思います。つまり、作り方が普通の制作方法と同じようなアプロプリエーション・アートは存在します。レヴィーンのケースは作り方が違う点から反論できても、あらゆるアプロプリエーション・アートにそれで反論することはできないと思います。それぐらいアプロプリエーション・アートには多様な作品が含まれており、それらすべてを因果説で説明するのは難しいのではないかと思います。

アプロプリエーション・アートは初見の新鮮さを奪っていないか

参加者E
岩切さんはアプロプリエーション・アートを好意的に評価すべきポイントを提示していますが、問題としては法的なものがあったり、芸術家の側でも釈然としない人はいるのではないかと思いました。作品をそのまま借用するタイプの作品は芸術的にもまったく無害ではないのではないかという気が若干しています。たとえば私は素朴な芸術鑑賞観をもっているので、作品との出会いみたいなものを大事にしたい。初めて見たときの新鮮さが欲しいんだけど、レヴィーンの作品を見てしまうとエヴァンズの作品を見たときの新鮮さが奪われてしまう。これは芸術的にも悪いことをしているのではないか、という気もします。

岩切
難しい点ですね。複製(画集から複製画までいろいろありますが)は現物を見られない人に同じ見た目を提供することで美的判断は可能にさせる、という議論はあります。これはメリットとして言われているかと思いますが、逆にそれが直面したことの喜びを減らしているということと表裏一体かな、と思います。それ以外に芸術的に見て悪だと言えるところがあるかというと、ちょっと思いつかないのですが、逆にみなさん、何かありますか。

参加者B
Eさんの言っていることが悪いことだとすると、教科書の図版なども悪いということにならないか。

参加者D
そういう意見はあるんじゃないですか。私が通っていた高校で廊下に名画の複製が張り出されたことがある。校長先生が朝のあいさつで「これはあくまで複製なので、オリジナルを見せずに複製を見せることにはいろいろ異論もあると思いますが」と言い訳していたから、悪いと思っているんだなと。


僕も授業で見せるときには言いますよ、「これはあくまで複製で、授業だから見せますけど、できれば現物見てください」と。

参加者B
それは現物のほうがいいという話であって、複製を先に見せることが悪いということではないですよね。現物を最初から見るのと複製を見てから現物を見ることで価値は違うのでしょうか。


違うんじゃないですか。出会いを大事にする人はいるわけで。

参加者E
みんながそういう価値観をもっているとは限らないのですが、そういう価値観をもった人がいたときに、複製に先に接しさせてしまうことがある種のタイプのアプロプリエーション・アートに避けられないことだとすると、それに憤る人はいるかな、と思います。

岩切
その人の出会い方がまずいのではないの、という気がします。完全に見た目だけ見ている人が先にアプロプリエーション・アートのほうに出会ってしまったならば問題になるかもしれませんが、その作品に対して、その作者の意図や目的も含めた紹介を受けながら理解のある出会い方をすればそんなに憤らないかな、という気がします。


でもこれ最初に見ちゃったら、もう未見の無垢の状態には戻ってこれないでしょ。

参加者E
そうそう。

参加者F
でも〔逆にいい点として〕元ネタ的価値が加わるじゃないですか。レヴィーンの作品を見ることで、元ネタがあることを知って、エヴァンズの作品に返ると、芸術実践の中で繰り返し使われるほど価値のあるものであることがわかり、しかも〔エヴァンズ作品を実際に見たときに〕元ネタをようやく見ることができたという喜びが加わる可能性もあるじゃないですか。


その喜びは、元ネタのエヴァンズの作品を先に見たあとにでも、いくらでも加えることができる。〔取り返しのつかない形で〕失われているのは、最初にエヴァンズ作品を見るときの感動でしょうね。

高田
しかしそれはネタバレ程度の悪でしかないのでは。ネタバレでめちゃくちゃ怒る人はいるけれど。

初見の感動とネタバレ問題

参加者D
芸術の鑑賞における生の体験みたいなものと作者のオリジナリティのようなものに何か関係がありますか。


初見の感動を重視する作品とそうでない作品ってあるじゃないですか。推理ものとかミステリとかは初見じゃないと全然面白くなかったりするし。僕は「ネタバレは悪」派なんですが。

岩切
ネタバレ擁護派の人たちは何回も見ないとよさがわからないとか、ストーリーを知っていてもどう描いているかが鑑賞の対象だとか、いろいろありますよね。


〔ネタバレ擁護派は〕一部の評価軸だけしか見てない。他方、それとは別の評価軸における大事な要素が失われるからネタバレは悪だ、というのが私の立場です。

高田
どのレベルのネタバレまで許されるのかとかもありますよね。

参加者B
ある作品鑑賞の理想的な条件みたいなところで直観がばらけるというような話ですよね。それは誰が決めるのかという話で。森さんは森さんの立場で主張していますけど、作者が最初からバラしている場合はどうですか。


ネタの定義によると思います。「バラされてダメなものというのはネタである。バラされてもどうでもいいものはネタではない」というように、ネタの定義をある程度はっきりさせればネタバレは悪だというのは定義から出てきます。

参加者B
クイズで最初から答えが出ていたら台無し、というぐらいのことですよね。ミステリはそういうクイズ的、謎解き的な要素があって、最初から答えが出ているとまずい、というぐらいの直観だと思うんですけど。


ミステリはネタバレを悪とするジャンルの典型例ですけど、多くの物語作品には同じような要素があると思います。ほとんどの物語作品には、サスペンス感や期待をどう操作するかみたいなところが仕掛けとしてあって、作者もそこを大事にする。

参加者B
サスペンスのパラドクスってあるじゃないですか。先を知ってても楽しめる、というのをどう説明するのかという。


あれは私は完全に疑似問題だと思っていますね。何回でも楽しめるサスペンスなんてないと思います。

参加者C
理想的な鑑賞状況を誰が決めるのかという話を聞いていて、思い出した話があります。聞いた話なのでどこまで本当か知らないんですけど、高校か何かの漢文の先生がしていた話で、中国人はネタバレを許すどころか、最初から結末を知っていないと楽しめなくて、『ハリーポッター』の中国語版は【?】の正体が最初の人物紹介のところに書いてある、と。

高田
それは僕も聞いたことがあります。都市伝説かもしれないけれど、まあ文化差はあるだろうなと。

参加者D
ネタバレの話と芸術作品のオリジナルの感動を得るための初見の体験の重要性のような話はちょっと違うような気もするんですけど、初見の体験の重要性はヨーロッパ・ローカルな話かな、という気もします。そのへんを明らかにしてよ。

高田
経験の真正性のような発想はどっちにも共通していて、ということですかね。それはそうかもしれない。

フィルカル編集部
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