レポート:ジュンク堂書店池袋本店トークイベント「スポーツの哲学へのいざない」

11月7日(土)、ジュンク堂書店池袋本店にて、弊誌主催のトークイベント「スポーツの哲学へのいざない」が開催されました。今回はそのレポートです。

このイベントはフィルカル最新号の「小特集:スポーツ」に連動したもので、登壇者はフィルカル編集委員でもある若手研究者、長門裕介氏(倫理学)と松本大輝氏(美学)のお二人です。それぞれ、スポーツを倫理学、美学の観点から分析することの面白さを語ってもらいました。トーク後のディスカッションではホールから次々に質問が飛び交い、イベント終了後に登壇者と参加者のあいだでさらに個別に議論が交わされている様子も見られました。この記事では、フィルカル編集部なりの観点から、当日の議論の内容をまとめてみたいと思います。

トーク中の長門裕介氏

長門氏のお話は、一言でいえばスポーツを「卓越性」という観点から分析するというものでした。我々はスポーツ選手を「偉大な」と形容したり、そのような人物になりたいと思ったりすることがあります。こうした事実は、我々がスポーツ選手を単にある特定の技術や身体的能力の水準が高い人として理解しているわけではない、ということを意味しているのではないでしょうか(実際、子供向けの「偉人」伝にはスポーツ選手が当たり前のように含まれていますよね)。スポーツ選手における卓越性とは、こうした「偉大さ」「立派さ」のことです。

この卓越性の面白いところは、もう一方でそれが単なる道徳的な美点とも異なる、ということです。というのも多少道徳的に問題を抱えた人物、私生活であまり好ましくない振る舞いをする人物であっても、偉大なスポーツ選手として称賛されることもまたありふれているからです(逆に、人格者として知られているスポーツ選手についても、同じくらいに人格者であるような市井の人々もいくらでもいるのだから、その人は優れたスポーツ選手だからこそその人格的な面も称賛されているのでしょう)。ではそれは具体的にどのような評価、称賛なのだろうか、我々は優れたスポーツ選手を称賛するとき、なにをしているのだろうか、そうしたことを考えるのが、スポーツにおける卓越性という独特な概念を倫理的な観点から分析する、ということです。

我々観客はスポーツ観戦を通じてこうした卓越性を目の当たりにしたいと思っているのだとは言えそうです。一方で我々は、競技においてどちらの選手が勝利するかを常に知りたいと思っているのも確かです。スポーツの試合では卓越している者同士が競い合って、選手(卓越者)のなかで誰が一番卓越しているか(卓越者のなかの卓越者)を知りたい、と思うのではないでしょうか。つまり、単純に考えると、卓越した選手=勝った選手であり、要するに我々は試合の勝敗を通してどちらがより卓越した選手であるかを知りたがっているのだ、ということになりそうですが、そうならないところがまた面白い点です。最近でもW 杯日本代表の対ポーランド戦での時間稼ぎのパス回しが話題になりましたが、勝ったけれどもなんらかの意味でフェアでなかったと評価され、「よい試合でなかった」と言われることはよくあります。勝つことが卓越していることと同じであるならば、勝ったのに称賛されない、ということは原理的にありえないはずです。このとき、勝利と卓越性の関係はどのようなものになっているのでしょうか。

ひとつには、こうした「よくない」試合は、勝利によって卓越性がうまく示されていない、負けたほうが実は卓越していたかもしれない試合だからよくないのだと考える手があります。これは、勝敗とは独立に卓越性というものが決まっていて、我々は勝敗を通して間接的に卓越性を知りうるが、それがうまく機能しないこともある、と考えることになります。一方で、あれはそもそもよくない試合ではなかった、「勝った方が強いのだ」、という見方もあるでしょう。このように考えるときには、卓越しているとは勝ったということだ、と逆に勝敗によって卓越性を定義していることになります。このとき、勝敗とは別に卓越性というものが存在しているわけではありません。さらには、卓越性は勝敗とは別のものであるが、あらかじめ決まっているわけではなく、実際の試合での勝敗によってその都度創られていくものだ、と考える両者の中間のような立場もあります。我々は実際の試合を通して卓越性とはなにかを理解し、あるいは何が卓越していることなのかという基準を新たに創造したり修正したりしていっているのだという考え方です。

以上の三つの考え方は、たとえば裁判における判決の意味とは何かという問題にもパラレルにあてはまるような、より一般的な問題の一例になっています。もっと話を広げてしまえば、哲学における実在論、反実在論といった議論(大雑把に言って、何かが我々人間の行為、認識、言語といったものから独立に存在するか否かといった議論です)に当然かかわってきます。このように長門氏の発表のポイントは、スポーツにおいて目指されている卓越性とはなにかという問題が、卓越性と勝敗の「存在論的な」関係をどう捉えるかという問題にたどり着くということを示す点にあったように思いました。

トーク中の松本大輝氏

二人めの登壇者、松本大輝氏はスポーツにおける「華麗なプレー」とは何かをテーマに、分析美学の観点から話をされました。スポーツにおいて存在する様々な美のうちのひとつに、「華麗なプレー」が含まれるのは間違いないことでしょう。こうした美しさ、華麗さとは結局のところなんなのでしょうか。

選手の身体動作のもつ特徴(リズム、スピード、正確さ、ダイナミズムetc.)がプレーの「素晴らしさ」や「華麗さ」において重要であるというのは間違いないでしょう。しかしそれだけでしょうか?たとえば競技としてのフィギュアスケートと、エキシビションでは、評価の基準が異なりますが、原理的には全く同じ演技をすることが可能です。このとき同じように四回転ジャンプをしたとしても、我々がそこに感じる「華麗さ」には違いがあるのではないでしょうか。そこで行われている身体的動作はまったく同じであり、その身体的な難易度もまったく同じであるにもかかわらず、です。このことは、華麗さが、純粋に身体的動作だけによって決まるわけではないということを意味しています。

あるいは、ボウリングと良く似た「ホウリング」という競技を仮に考えてみましょう。ボウリングとの違いは、指定されたピンだけを倒すことが目的であり、他のピンを倒すと減点になる、という点にあるとします。このとき、全部のピンを倒すという身体的動作は、ボウリングにおいては華麗であっても、ホウリングにおいてはそうではないでしょう。たとえ後者において選手が全部倒すことを(何らかの事情から)意図していて、その通りに実現できていたのだとしてもです。

これらの例は、プレーの華麗さは競技のルールによっても決定される、ということを示しています。それでは、我々が好き勝手にルールを決定することによって、どのプレーに華麗さ、美を感じるかも、好き勝手に決められるのでしょうか。そうではないように思えます。そもそもスポーツのルールというのは、いっぺんに決められてその後全く変化しない、といったものではありません。たいていの競技のルールは、長い時間の中での実践を積み重ねていくことで、少しずつ変えられていっています。重要なのは、このようにルールを修正していくとき、我々は無軌道にやっているわけではなく、なんらかの方針をもち、そうした方針をなるべく実現できるようなルールの改正を行おうとしている、ということです。ルールの変更には、明らかに「方向」や「目指すべき価値」があるのです。たとえばごく一般的なものに限れば、一定の身体性に依拠している、練習による上達が見込める、運に左右されにくい、などです。

そしてルールにはプレーの華麗さを決定するという役割もあるのなら、こうしたルール改定の方針には、華麗さを決定するための側面も含まれていると考えるのが自然でしょう。スポーツのルールには、より華麗なプレーが行われうるように改定されていく面があるということです。では、こうしたルール改定の方針とはどのようなものなのでしょうか。

それはどこかに明示的に書かれているわけではないし、誰かひとりが知っていて決めることではありません。その競技が実際に何度も行われていく歴史のなかで、その競技に関わる人々からなる一定の言説の空間が、なにが目指されるべきスポーツの価値であるべきなのかということ自体の了解が、少しずつ作られていくのです。松本氏は以上のダイナミックな空間を指して、何が芸術であるかを決める社会的・文化的空間を意味するものとしてアーサー・C・ダントーが発案した「アートワールド」に倣い、「スポートワールド」という概念を提唱できるのではないか、と述べました。こうした松本氏の話は、スポーツにおける美しさが「作られる」ものであるという側面を、ルールの改定という具体的な実践の観点から明らかにしたものだとも言えるように思います。

会場の様子

会場では二人のトークのあと、参加者から活発に質問が飛び交いました。どれも意外な観点を提示していたり、説得力のある反例であったりして、登壇者と参加者がひとつのことを一緒になって明らかにしていく、共同作業のような楽しい時間になりました。そのうちのいくつかをここで紹介したいと思います。

  • スポーツの卓越性ということで、スポーツを通して実現される普遍的な価値や能力ということを念頭に置いていたように思うが、たとえば実際の野球選手の能力は、野球においてのみ機能するような、かなり特化した能力ではないだろうか。一般にそのような価値は、倫理学において評価される価値とは異なるのでは?
  • お互いの実力が伯仲しているほど「よい試合」であるとみなされるというのは、観客は試合における偶然的な結果を評価しているということであり、どちらがより卓越しているかを知りたがっているわけではないということでは?本当にどちらがより卓越しているか知りたいなら、同じ対戦相手の組み合わせで何度も試合をして「誤差」を減らしていけばよいわけだが、そのようなことは興ざめである。偶然的な勝利や敗北を、我々は鑑賞したがっているのでは?
  • メジャーな球技のような観客の多いスポーツほど、運の要素を残しているように思える。ルール整備で排除しようとしているのは偶然性ではなく不公平さではないか?
  • アートワールドでは、これまでの芸術に対する「反芸術」の存在にポイントがあるが、スポートワールドではこれに対応する「反スポーツ」にあたるものがなにかあるのか?

実際のトークや質問にはここでは紹介しきれていない面白い内容も盛りだくさんでした。参加してくださったみなさま、ありがとうございました。イベント後、登壇者のお二人からもコメントをいただきました。

    松本氏から一言:ルール改定とプレーの華麗さとの間には、長門さんが取りあげた「よい試合とは何か」という観点がどうも不可避的に絡んできそうです。その辺りをもっと掘り下げられたら面白いかな、と思います。みなさんもぜひ考えてみて下さい。当日は刺激的な質問をいくつもいただきありがとうございました。

    長門氏から一言:今回のイベントでは「勝利とは何を意味するのか」「試合をすることにどんな意味があるのか」といったことを扱いましたが、これはスポーツ倫理学の話題のひとつをごく狭い仕方で切り取ったものにすぎない、ということを改めて強調したいと思います。この話題を出発点にするにしても、松本さんが発表されたようなスポーツの審美的な側面や法哲学的な側面からの検討などが必要だということは容易に想像がつきます。あるいは、スポーツ批評において批評者は何をしているのか、といったことについても立ち入った分析が必要でしょう。このイベントがみなさまを触発して「こんなアプローチもあるかもしれないよ」ということを思いつくきっかけになったらなによりです。またどこかでお会いしましょう。

最新号には、ここでのトーク内容とはまた角度の異なる長門裕介氏のスポーツ倫理学論考や、高橋志行氏による合気道をめぐる論考が掲載されていますので、興味をもたれた方はぜひお手にとってみてください。

Amazonでもご購入いただけます。

さて引き続きフィルカルでは、明日11月23日に公開ワークショップ「ネタバレの美学」を現代美学研究会と共催いたします(http://d.hatena.ne.jp/conchucame/20181002/p1)。こちらもきっと面白いものになると思いますので、今回参加していただいた方も、この記事を読んで面白そうだなと感じてくれた方も、ぜひご参加ください。


11月7日トークイベント「スポーツの哲学へのいざない」@ジュンク堂書店池袋本店 開催のお知らせ

11月7日(水)19:30~、ジュンク堂書店池袋本店にて、『フィルカル』最新号刊行記念のトークイベントを開催します。
最新号で「スポーツ」を特集していることにちなみ、今回はスポーツの哲学に、倫理学と美学の観点から迫ります。
いい試合とは何か? フェアプレーとは? スポーツとアートの違いは? プレーの華麗さとは?
そうした問いの哲学的な分析の入口へと、本誌編集委員の長門裕介(倫理学)と松本大輝(美学)が、漫画や実際の試合などの実例を通してご案内します。
質問・疑問も受け付けて、議論のできるイベントになるかと思います。
実はスポーツには面白い哲学的問題がたくさん潜んでいます!
ぜひお気軽にご参加ください。
(ジュンク堂書店からのお知らせページはこちらです。)

【日時】11月7日(水)19:00開場 19:30開演
【場所】ジュンク堂書店池袋本店
【料金】入場料1,000円(ドリンク付き。当日、会場の4F喫茶受付でお支払いください)
【予約】事前のご予約が必要です。ジュンク堂書店池袋本店1階サービスコーナーもしくは書店お電話(03-5956-6111)までお願いいたします。または、フィルカルまで直接(ご予約フォームから)お申し込みください。【10月20日付記:予約フォームでの受付は終了しました。ジュンク堂書店までお申込みください。】なお、ご予約をキャンセルされる場合、ご連絡をお願いいたします(電話:03-5956-6111)。

お店の詳しい情報:
ジュンク堂書店池袋本店
【住所】東京都豊島区南池袋2-15-5
【電話】03-5956-6111
【HP】https://honto.jp/store/detail_1570019_14HB320.html
【地図】


ディスカッション記録:フィルカルVol. 3, No. 1刊行記念イベント @Readin’ Writin’(2018年4月21日)

2018年9月30日刊行の『フィルカル』Vol. 3, No. 2には、トークイベント記事が掲載されています(262-291頁)。これはそのひとつ前の号『フィルカル』Vol. 3, No. 1の刊行を記念して2018年4月21日にReadin’ Writin’で行われたイベントの記録ですが、紙幅の関係上、発表者による発表部分だけが掲載され、ディスカッション部分を収めることができませんでした。ここではそれを補うため、ディスカッション部分を掲載します。(当日の様子はこちらの記事でも簡単にご紹介しております。)

あらためてイベントの内容を簡単に紹介しておきますと、メインスピーカーとして『フィルカル』Vol. 3, No. 1に論文の掲載された高田敦史氏と岩切啓人氏、司会・コメンテーターとして弊誌編集委員の森功次氏を迎えて行われました。高田氏と岩切氏にそれぞれの論文、「スーパーヒーローの概念史―虚構種の歴史的存在論―」(Vol. 3, No. 1, 170–222頁)および「創造と複製―芸術作品の個別化―」(同128–169頁)の内容やモチベーションを一般向けにわかりやすく伝えてもらったうえで、参加者との間でディスカッションを行いました。両氏の発表内容はVol. 3, No. 2でご確認いただけます。そちらをお読みになったうえで、ここにまとめたディスカッションをお読みいただけたらと思います。なお、当日のディスカッションでは、高田氏と岩切氏に対して順序関係なく質問がありましたが、ここではそれぞれに対する質疑応答をまとめて掲載します。また、ページ参照のある箇所は弊誌Vol. 3, No. 2からのものです。

ディスカッションの最後は思いがけず「ネタバレ問題」へと到達して、盛り上がりを見せています。なお、「ネタバレ問題」については、現代美学研究会主催、弊誌共催で新たなイベントが開催される予定です。 2018年11月23日(金) 大妻女子大学 千代田キャンパス 本館F棟632にて、登壇者は森功次、松永伸司、高田敦史、渡辺一暁の各氏、コメンテーターには稲岡大志氏を迎えます。ここでの議論はその「予習編」になっているとも言えますので、ぜひご確認のうえ、イベントをお待ちいただけたらと思います。

1 高田氏への質問と応答

「スーパーヒーロー」という概念の規定

参加者A
「スーパーヒーロー」という言葉の文献上の初出はあるんですか。

高田
それはけっこう微妙です。『スーパーマン』以前の用例は確認されていますが、現在とは違う意味で使っていると言われます。『スーパーマン』に影響を受けたキャラクターという意味での「スーパーヒーロー」の初出がどこかはわかりません。私が調べた限りでは、41年にすでにそういう用法がある。41年にコミックの描き方ハウツー本みたいなのに「スーパーヒーローを描きたいなら」みたいなフレーズが出てきている。

参加者A
では発表の中で38年とした根拠は。

高田
38年は作品『スーパーマン』が生まれた年で、そこに「スーパーヒーロー」という用語は出てこないんですが、今の「スーパーヒーロー」の用語は〈『スーパーマン』に影響を受けたキャラクターたち〉という意味で使われているからです。


38年に生まれたのは「スーパーヒーロー」という言葉で指せる対象ということですね。

参加者A
言葉自体が確認できているのが41年だと。

統語論的には「スーパーヒーロー」は「ヒーロー」に「スーパー」という形容がかかっていると解釈しますが、「ヒーロー」自体はギリシャ起源で、その後もずっと使われている。「スーパー」は超越性みたいな意味があるかと思います。「ヒーロー」と「スーパーヒーロー」の違いは何でしょうか。

高田
スーパーヒーローの定義に関しては〔試みが〕いろいろあるんですが、僕は定義できないのではないかと思っています。コミックブックというメディア自体は34年にできていて、そこからスーパーマンが出てくるまで4年しか経っていない。当時のスーパーヒーロー概念は、あえて言えば「スーパーマンに影響を受けた、コミックブックというメディアにおけるキャラクター」みたいなものです。「ヒーロー」という抽象的な内容にこれを足したら「スーパーヒーロー」になるといったものではなく、〔スーパーヒーローという概念は〕個別的なメディアに結びついたかなり特殊なものだということです。

参加者B
「スーパーヒーロー」という言葉の「スーパー」という部分は「スーパーマン」からきたということでいいんですか。

高田
そうではないです。「スーパーヒーロー」で固有名詞化している。英語では「super hero」という二単語ではなく「superhero」という一単語になっています。

参加者A
「スーパーヒーロー」が日本に輸入された時点というのがあると思います。日本の側でも〔その後発展したものを?〕そのまま「スーパーヒーロー」と呼べるのか、「正義の味方」のような違うものに近いのか、どちらなのでしょう。

高田
「スーパーヒーロー」の定義をやっている人たちはいて、それは論文の中で紹介しているんですが、私はそういう抽象的な定義が立てられるとは思っていないんですね。
〔スーパーヒーローには〕いろいろな特徴があって、日本のものも基本的な特徴は似てはいる。人間以上の力をもっているとか、コードネームをもっているとか、特別な衣装を着ているとか。でも違いもあります。日本のスーパーヒーローは変身するがアメコミのほうはそうではないというようなことです。ジャンル自体が日本とアメリカで二分していて、同じ「スーパーヒーロー」の語で呼ばれていても、本当に同じものなのかどうかはわからない。
この論文ではスーパーヒーローの概念を一切定義しようとせず、なぜ人々は一群のキャラクターを同じスーパーヒーローという名前で分類するのかを追うことに専念しています。

アメコミの場合はなぜスーパーヒーローが虚構内的概念になったのか

参加者C
スーパーヒーローという概念が虚構内でも使われるようになるというのは面白くて、他に探そうと思ったのですが、なかなか見つからない。たとえば日本の特撮のスーパーヒーローの場合もいろいろなヒーローがみんな集まって、という回はあるが、自己言及的なものにはなっていない。日本の場合は子供向けだから複雑なことをやらない、という事情もあるかもしれないですが、アメリカの場合にそれが成り立った事情はあるのでしょうか。

高田
なぜ定着したかは僕もわからない。日本の場合でも単発では同じようなことがあって、オールスター映画などでは、仮面ライダーやプリキュアが集まって、「俺たち仮面ライダーだから」とか「私たちプリキュアだから」みたいなことを、普段の作品では「仮面ライダー」という言葉を使わないくせに、突然言い出すわけです。アメコミの場合はそれが常態化していて、それはユニバース制度のようなものができたからだと思います。
だんだん時が経ってくるとジャンルの中にジャンルが繰り込まれるという現象自体はいろんなものにあって、ホラー映画でもメタ・ホラーのようなものが出てきて、ホラー映画の登場人物がみんなホラー映画を見ていてホラー映画に詳しくて、ホラー映画のジンクス(夜中プールに行くとやばい、とか)を言い始めて、というのはあるけれど、それが当たり前の状態になっているのは珍しくて、それはユニバースのようなものができたせいなのではないかと思っています。

参加者C
ユニバースは独特ですよね。いろんな作品が全部いっしょになったら、という発想自体はいろんな人が抱きがちだけど、そういうものは普通定着しないですよね。

高田
実際作るのはたぶん難しいと思います。映画でも結局マーベルぐらいしかうまくいっていない、という話もありますね。DCはうまくいっていないし、ダークユニバースというユニバーサルのモンスター映画のやつがあったんですが、それも1作目でこけた。そんなに簡単にいくものではないのではないか、と思います。

参加者C
逆に言うとなんでマーベルはそんなにうまくいったのでしょう。

高田
スーパーヒーロー像が変わった、みたいなのと本当はリンクしていて、ただ作品をつなげればよいという話ではなくて、ジャンル全体に対するメタな楽しみ方をセットにしないとうまく回らないというのが本当はあるんじゃないかな、と思います。

虚構内的概念の使用を描くことにはいまだメタ的・パロディー的な意味があるのか

参加者B
ルーク・ケイジの例〔274頁、図2〕では先ほど笑いが起きて、笑えるんですが、笑いを意図したものとして出しているのでしょうか。

高田
パロディーとしての視点はたぶんあると思うんですけど、1970年代ぐらいからこれがむしろ当たり前のことになっています。自分で衣装を作るシーンはだいたいあります。

参加者B
メタレベルのときはある種のパロディーというか、標準からのずらしでやっている感じだと思うんですが、常態化するともうメタではなくなっていて、ジャンルの中に組み込まれている、という感じでよいのでしょうか。それともまだメタ的なものとしてそういう表現があるのでしょうか。

高田
それは難しいですね。メタ的な面白さもある気がするんだけど、表現としては一般化しているという感じがあるのかな。


最近の作品の物語世界の中では「変な格好をしている」という含意はあるんですか。

高田
昔は衣装について何も言わないけれど、最近の作品では、むしろそうしたメタな発言がわざとでてきて、それがかっこいいという感じがありますね。

岩切
こういうのは作品外で作者が読者に語りかけている(完全にメタである)のではなくて、完全に作品内に落とし込まれているということでよいのでしょうか。

高田
持ち込まれているとは思うのですが。

参加者B
メタフィクションっていうのは本来作者と読者の関係であるものが、キャラクター内部の者が言っている、ということで、そうであるのは確かなんじゃないですか。それがどういうふうに機能するか〔が問題ではありますが〕。

高田
読者に対する目配せはあるだろうとは思います。

作品内の人々はスーパーヒーローをフィクションとして知ることがあるか


最初にフラッシュが2人出てくる作品(「二つの世界のフラッシュ」)があるじゃないですか。1人のフラッシュが先代のフラッシュがいる世界に行って、コスチュームのまま行くんだけど、そこでホットドッグかハンバーガーか何か売っている店員に「お前はなんでそんな変な格好してるんだ」と言われる。あの世界の人たちの間には「スーパーヒーローというのは変な格好している奴だ」という共通認識がもしかしたらないんじゃないか。

高田
ないと思います。それはやっぱり時代的にユニバース形成前なので、スーパーヒーローがいるのが当たり前って世界にはなっていない。60年代のマーベルだとスーパーヒーローが出てきたときにそのへんの普通の人が「また新しいスーパーヒーローか」みたいなことを言ったりする。


我々現実世界の人たちがもっているスーパーヒーロー概念からしたら、スーパーヒーローというのはあくまで作り物、フィクションなんだけど、中〔虚構世界内〕の人たちのスーパーヒーローの理解の仕方はちょっと特殊で、「その世界にいて相互関係できるような存在」としてとらえている。ただそこにたぶんもう1個特殊な理解の仕方が混ざってる気がしますね。中の人たちは、読み物としてもスーパーヒーロー概念を理解しているんです。フラッシュの場合はそのへんが変なぐあいになっている。別の世界に行ったフラッシュは「俺が読んでいたあの人がいる」のようなことを言っていて、そのへんが混乱していて面白いですね。

参加者B
「虚構内的な虚構外的概念」みたいな。

高田
マンガの中にマンガが出てくる場合はそうなりますね。

岩切
ユニバースとかだとニューヨークの人は隣人としてスーパーヒーローを知っているということで、コミックを通して知るわけではないということですか。

高田
マーベル・ユニバースにマーベル・コミックはあるのかというのは今一つ一貫していなくて、あるようにも見える。マンガ読んでるときもあるんだけど、実話が描かれたマンガが売っているのかどうかはよくわからない。


〔実話だったら〕フィクションじゃなくてレポートになっちゃう。

参加者B
スーパーヒーローが活躍していることを虚構内の人々が知る場合にはどうやって知るんですか。


ニュースですよね。「バットマンが現れました」みたいなのがニュースに出るでしょ。

高田
作中でノンフィクションとしてスーパーヒーローコミックスが売っているみたいな描写があるときもあります。そこは今一つ一貫はしていないんですけど。

参加者D
描いている人は年代によって全然違う人だからつじつまが合わないことも出てくるでしょうね。

高田
そうですね。

ハッキング的な手法の「分析哲学」や「分析美学」という哲学カテゴリーへの適用可能性

参加者E
高田さんの今回の概念史のハッキング的な手法というのは、フィクションのカテゴリーとかジャンルの変遷を追う際に有効じゃないかというお話だったと思います。分析哲学・分析美学という哲学のカテゴリーの変遷に関してもこれは使えるんじゃないかとも思うのですが、分析哲学の概念史のようなものをやるおつもりはないのでしょうか。

高田
面白いとは思うんですが、大変ですよね。笠木〔雅史〕さんのやっていることはそれに近いですね。分析哲学という言葉の意味はだいぶ変わっているという話はよくされています。

参加者E
ちなみに「分析美学」という言葉の初出はいつなのでしょう。

岩切
1950年代では今分析美学の主流の雑誌では全然分析美学はやっていない。むしろ、Journal of PhilosophyとかMonistとかで分析哲学者が美学について論じている。分析美学をやっています、というような人はいなかったと僕は思ってます。


アメリカ美学会は昔はもっと雑多な学会だったのだが、徐々に哲学者に侵食されていって最近は分析美学者っぽい人しかいなくて、それはむしろよくないと言われている。

参加者D
ハッキング的な手法の応用例としては『概念分析の社会学』がありますよね。哲学というジャンルへの応用としては、ハッキング自身の『言語はなぜ哲学の問題になるのか』

次ページ「岩切氏への質問と応答」へ続く