Vol. 4, No. 1の内容紹介(第1回)

おかげさまで、創刊四年目を迎えることになりました「分析哲学と文化をつなぐ」フィルカル。先日、3/31に最新刊『フィルカルVol. 4 No. 1』が刊行されました。今回は、その最新刊の内容をフィルカル編集部が簡単にご紹介致します(全3回を予定しています)。

「リズムの時間遡及的本性についての哲学ノート―「音楽化された認識論」への小さなインタールード―」(一ノ瀬 正樹)

一ノ瀬正樹東京大学名誉教授(現:武蔵野大学教授)が長らく研究主題として掲げ、取り組んでこられた「音楽化された認識論」に関する論考です。(一ノ瀬氏の「音楽化された認識論」については「「音楽化された認識論」の展開 ―リフレイン、そしてヴァリエーションへ―」http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/ron31/01-ICHINOSE.pdfをご覧ください)

「前と後に関しての運動の数」(『自然学』)というアリストテレス以来の定義、そしてそこで言われている「運動」がしばしば「リズム」と解されてきた(cf. アウグスティヌスの『音楽論』)点を踏まえつつ、「過去から未来へと一方向的に流れていく」ものとしての、常識的な時間理解が揺さ振りにかけられます。

一ノ瀬氏が着目するのは、規則性としての「リズム」の「本質的に遡及的」な性格です。例えば「タン、タッタッ」というリズムは、「タン、タッタッ」とリフレインされれば、それが三拍子であるように感じられますが、しかし「タン、タッタッ、タタ」と続けば、4拍子に感じられます。つまり、最初の「タン、タッタッ」というリズムがどのようなものであるのかは、未来にどのような音列が続くかによってはじめて定まることなのです。リズムは、次に続く音列のいかんによって、その意味を変容させる可能性につねに開かれた状態にあるのです(一ノ瀬氏は、こうした性格を「浮動的安定」というタームを使って表現しています)。

この洞察を手掛かりとし、さらにウィトゲンシュタインやダメット、グッドマンらを参照しつつ、一ノ瀬氏は「未来から過去へと遡及的に定まる」ものとしての新たな時間概念の可能性を探っています。

特集1: ポピュラー哲学

  • 「「ポピュラー哲学」で哲学するためのブックガイド」(稲岡 大志)
  • 「教養としての大学入試と哲学」(石井 雅巳)
  • 「『君たちはどう生きるか』をどう読むのか」(石井 雅巳)
  • 「キャラ化された実存主義:原田まりる『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』を読む」(酒井 泰斗)
  • 「哲学はいかにして「武器になる」のか?—山口周試論—」(朱 喜哲)
  • 「哲学の国」のポピュラー哲学:ミシェル・オンフレ『〈反〉哲学教科書』について」(長門 裕介)

今号の特集第一弾は、「ポピュラー哲学」です。

「ポピュラー哲学(popular philosophy)」とはそもそも何でしょうか。一概に答えることは難しいのですが、ここではOxford Companion to Philosophy (https://www.amazon.co.jp/Oxford-Companion-Philosophy-Companions/dp/0199264791)の「popular philosophy」の項目を参照してみたいと思います。そこで「ポピュラー哲学」は、

  1. 処世についての手引き(general guidance about the conduct of life)
  2. アマチュアによる哲学問題の考察(amateur consideration of the standard, technical problems of philosophy)
  3. 哲学の大衆化(philosophical popularization)

という形で紹介されています。おそらく「哲学」というタームで世間一般にイメージされているのは、1の意味でしょう[1]。2は(哲学のプロと対比された意味での)アマチュアによる哲学実践を、3は、逆に、哲学のプロによる啓蒙の試みをそれぞれ意味しています[2]

日本においても、『超訳 ニーチェの言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)が刊行されたとりわけ2010年以降、(哲学の専門家ではない著者によって書かれたという意味での)ポピュラー哲学書が書店でよく見かけられるようになりました。こうしたポピュラー哲学の一大ブームは果たして何を意味しているのでしょうか。そしてポピュラー哲学には、哲学の専門家による哲学研究と比べて、どのような意義があるのでしょうか。こうした問題意識のもと、今号では、ポピュラー哲学を大々的に取り上げて議論を喚起しています。

内容としては、1.我が国のポピュラー哲学書の出版動向を概観する記事と、2.(数多くあるポピュラー哲学書の中でもとりわけ個性的だと思われる)ポピュラー哲学本6冊の書評、の二部構成となっています。

稲岡氏はポピュラー哲学書を、教養志向系・エンタメ系・ビジネス書系・翻訳書の4つに分類し、それぞれのジャンルの特徴を、代表的な著作を紹介しながらわかりやすくまとめています(第二部で取り上げられているポピュラー哲学書は、石井氏が教養志向系、酒井氏がエンタメ系、朱氏がビジネス書系、長門氏が翻訳書のジャンルからそれぞれ、選出をしています)。2010年代のポピュラー哲学書を満遍なくカバーしているという点でも資料的価値の非常に高い記事です。また、最近の動向で見逃せないのが哲学の専門家によるポピュラー哲学書の執筆ですが[3]、稲岡氏の記事ではこのへんの事情についても触れられています。

書評として取り上げられているのは、以下の6冊です。

  • 『試験に出る哲学―「センター試験」で西洋思想に入門する』(NHK 新書)
  • 『バカロレア幸福論:フランスの高校生に学ぶ哲学的思考のレッスン』(星海社新書)
  • 『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)/『漫画 君たちはどう生きるか』(マガジンハウス)
  • 『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(ダイヤモンド社)
  • 『武器になる哲学』(KADOKAWA)
  • 『〈反〉哲学教科書』(NTT出版)

研究者たちの目には、こうしたポピュラー哲学書は果たしてどのようにうつっているのでしょうか。本誌のポピュラー哲学特集を通じて、また取り上げられている6冊のポピュラー哲学書を手に取ってみて、「ポピュラー哲学で哲学するとはどういうことか」ぜひ、みなさまにも一緒に考えていただけたらと思います。

特集2: 『映画で考える生命環境倫理学』

  • 「ハイデガー、ウォルトン、アリストテレス―虚実とアスペクト知覚の諸問題―」(横地 徳広)
  • 「人は人ならざるものと恋愛することができるのか―『シェイプ・オブ・ウォーター』と『エクス・マキナ』を題材に―」(山田 圭一)

今号の特集第二弾は『映画で考える生命環境倫理学』です。二月に勁草書房より刊行された『映画で考える生命環境倫理学』(http://www.keisoshobo.co.jp/book/b432307.html)のスピンオフ企画となっています。(同書で横地氏は、「生命環境倫理学とは何か―生命圏と技術圏」と「〈絶対戦争〉後の世界を考えること―『風の谷のナウシカ』とわれわれ」を、山田氏は、「人はAIと恋愛することができるのだろうか―『her/世界でひとつの彼女』と『エクス・マキナ』を題材に」をそれぞれ執筆されています。そちらも併せてご覧ください)

横地氏の論考は、K. ウォルトンの論文Fearing Fictions(1978)(https://www.jstor.org/stable/2025831?seq=1#page_scan_tab_contents)を取り上げ、その「ハイデガー的要素」を浮き彫りにするという意欲的な内容となっています。ウォルトンとハイデガーがともに、アリストテレス解釈・批判を重視していたという点を押さえつつ、横地氏は、丹念なテキスト読解を通じて、ウォルトン論文が持つ射程の広さを示そうとしています。ウォルトンという分析哲学のスターと、ハイデガーという大陸哲学のスターが、(アリストテレスを経由して)一本の線で繋がるという点も非常に重要なポイントです。

山田氏は、映画『シェイプ・オブ・ウォーター』と『エクス・マキナ』を題材に、人ならざるものとの恋愛の可能性を探究しています。この「人ならざるもの」ということで焦点が当てられているのは、(鶴の恩返しのように)「人間の形をしているが、実際は異なる種類の存在」でもなければ、(『美女と野獣』のような)「人間とは異なる姿をしているが、実際は同じ種類の存在」でもなく、両方の規定を含んだ「異種かつ異形の存在者」という、われわれ人間とは、生活形式を全く異にするような、そういった完全な「他者」です。そのような存在者を、われわれは、真に愛することが出来るのでしょうか。この哲学的問いに山田氏は、愛の哲学[4]や情動の哲学[5]の知見に目を配りつつ、2本の映画の解釈を通じて回答を与えようとしています。哲学研究者によってなされた優れた映画批評でありかつ愛の哲学、情動の哲学の入門にもなっています。

今回は、フィルカル最新刊Vol. 4 No. 1の内容紹介前編をお届けしました。次回更新は、次週を予定しております。フィルカル最新刊は、AmazonやBASE、一部書店にてお求めいただけます。「分析哲学と文化をつなぐ」フィルカル、是非お手にとってご覧ください。読者の皆様からのご意見・ご感想をお待ちしております。

フィルカル編集部
谷田


[1] 1に関しては「『哲学』という語で日常的に意味されていて、多くの人が哲学者から得られることを期待するが、多くの場合得られずに失望するもの」と書かれています。またこの意味での今世紀最大のポピュラー哲学者として、アランの名前が挙げられています。

[2] ラッセルの『哲学入門』(Problems of Philosophy)が、典型的なものとしてあげられています。

[3] 例えば『デカルトの憂鬱 マイナスの感情を確実に乗り越える方法』(扶桑社)は、ビジネス書系のテイストを持ちつつ、学術的にも信頼のおける入門書となっていますし、『ウィリアム・ジェイムズのことば』(教育評論社)は、形式やタイトルは『超訳 ニーチェの言葉』に倣いつつ、こちらも、専門家による優れた入門書となっています。

[4] “Love as a Moral Emotion”(D. Velleman)(https://www.jstor.org/stable/10.1086/233898?seq=1#page_scan_tab_contents)や『愛の哲学的構成』(伊集院利明)などが参照されています。

[5] 『情動の哲学入門』(信原幸弘著)、『はらわたが煮えくりかえる:情動の身体知覚説』(ジェシー・プリンツ著、源河亨訳)が参照されています。


Vol. 4, No. 1を刊行いたします。

分析哲学と文化をつなぐ雑誌『フィルカル』のVol. 4, No. 1を3月31日に刊行いたします。
400頁を優に超える大ボリュームの今号、巻頭を飾るのは一ノ瀬正樹氏による「音楽化された認識論」の哲学。
2つある特集のひとつ「ポピュラー哲学」では、『ニーチェの言葉』以降のポピュラー哲学書の流れを一望するガイドや、各種レビュー(対象は『君たちはどう生きるか』、原田まりる、山口周、オンフレらの著書)を掲載。
もうひとつの特集では『映画で考える生命環境倫理学』(勁草書房)の「スピンオフ」論文を2本収録。
今号は入門記事も2本掲載。デヴィッド・ルイス入門最終回のテーマは「フィクションにおける真理」、そして新たに時間論入門も始まります。
さらに「文化の分析哲学」枠にも、写真論、ビデオゲーム論、障害者との共生論、という中身の濃い論文を3本並べ、ドナルド・ジャッド「特種な物体」という現代アート批評における古典の翻訳も所収。

質・量ともに大充実の『フィルカル』Vol. 4, No. 1。
ぜひお手にとり、議論にご参加ください。

Amazonでもご購入いただけます。

目次

特別寄稿
「リズムの時間遡及的本性についての哲学ノート」(一ノ瀬 正樹)

特集1:ポピュラー哲学
「​「ポピュラー哲学」で哲学するためのブックガイド」(稲岡 大志)
「教養としての大学入試と哲学」(石井 雅巳)
「『君たちはどう生きるか』をどう読むのか」(石井 雅巳)
「キャラ化された実存主義:原田まりる『ニーチェが京都にやってきて17 歳の私に哲学のこと教えてくれた。』を読む」(酒井 泰斗)
「哲学はいかにして「武器になる」のか?—山口周試論—」(朱 喜哲)
「哲学の国」のポピュラー哲学:ミシェル・オンフレ『〈反〉哲学教科書』について」(長門 裕介)

特集2:『映画で考える生命環境倫理学』
「ハイデガー、ウォルトン、アリストテレス」(横地 徳広)
「人は人ならざるものと恋愛することができるのか」(山田 圭一)

哲学への入門
「デヴィッド・ルイス入門 第4回 フィクションにおける真理」(野上 志学)
「時間論入門 第1回 永久主義・現在主義・成長ブロック説」(大畑 浩志)

文化の分析哲学
「写真の「透明性」とデジタルの課題」(銭 清弘)
「ビデオゲームの統語論と意味論に向けて: 松永伸司『ビデオゲームの美学』書評」(三木 那由他)
「差異の認識と認識的変容」(佐藤 邦政)

翻訳
​ ドナルド・ジャッド「特種な物体」(翻訳:河合 大介)

イベント
公開ワークショップ「ネタバレの美学」(発表者:高田 敦史、渡辺 一暁、森 功次、松永 伸司/司会:稲岡 大志)

報告
「哲学研究者が共同研究に関わること:アナログゲーム制作/研究プロジェクトの事例を通じて」(谷川 嘉浩、萩原 広道)

コラム
「​異世界って何なんだよと思ってなろう小説を読んでみたら異世界転移モノに俺だけがどハマリした 第2話」(しゅんぎくオカピ)

新刊紹介​
セオドア・グレイシック『音楽の哲学入門』(源河 亨)

投稿募集中

編集部では次次号(Vol. 4, No. 3)へ向け、分析哲学と文化をテーマとした原稿を募集しています。

投稿締切:2019年6月30日(日)
投稿先:philcul[at]myukk.org(「at」を「@」に変えてください)
原稿は、メールの件名に「フィルカル投稿」と明記したうえで、添付ファイルでお送りください。

投稿の詳細については「投稿募集」ページをご覧ください。
熱意のこもった原稿をお待ちしております。


レポート:ジュンク堂書店池袋本店トークイベント「スポーツの哲学へのいざない」

11月7日(土)、ジュンク堂書店池袋本店にて、弊誌主催のトークイベント「スポーツの哲学へのいざない」が開催されました。今回はそのレポートです。

このイベントはフィルカル最新号の「小特集:スポーツ」に連動したもので、登壇者はフィルカル編集委員でもある若手研究者、長門裕介氏(倫理学)と松本大輝氏(美学)のお二人です。それぞれ、スポーツを倫理学、美学の観点から分析することの面白さを語ってもらいました。トーク後のディスカッションではホールから次々に質問が飛び交い、イベント終了後に登壇者と参加者のあいだでさらに個別に議論が交わされている様子も見られました。この記事では、フィルカル編集部なりの観点から、当日の議論の内容をまとめてみたいと思います。

トーク中の長門裕介氏

長門氏のお話は、一言でいえばスポーツを「卓越性」という観点から分析するというものでした。我々はスポーツ選手を「偉大な」と形容したり、そのような人物になりたいと思ったりすることがあります。こうした事実は、我々がスポーツ選手を単にある特定の技術や身体的能力の水準が高い人として理解しているわけではない、ということを意味しているのではないでしょうか(実際、子供向けの「偉人」伝にはスポーツ選手が当たり前のように含まれていますよね)。スポーツ選手における卓越性とは、こうした「偉大さ」「立派さ」のことです。

この卓越性の面白いところは、もう一方でそれが単なる道徳的な美点とも異なる、ということです。というのも多少道徳的に問題を抱えた人物、私生活であまり好ましくない振る舞いをする人物であっても、偉大なスポーツ選手として称賛されることもまたありふれているからです(逆に、人格者として知られているスポーツ選手についても、同じくらいに人格者であるような市井の人々もいくらでもいるのだから、その人は優れたスポーツ選手だからこそその人格的な面も称賛されているのでしょう)。ではそれは具体的にどのような評価、称賛なのだろうか、我々は優れたスポーツ選手を称賛するとき、なにをしているのだろうか、そうしたことを考えるのが、スポーツにおける卓越性という独特な概念を倫理的な観点から分析する、ということです。

我々観客はスポーツ観戦を通じてこうした卓越性を目の当たりにしたいと思っているのだとは言えそうです。一方で我々は、競技においてどちらの選手が勝利するかを常に知りたいと思っているのも確かです。スポーツの試合では卓越している者同士が競い合って、選手(卓越者)のなかで誰が一番卓越しているか(卓越者のなかの卓越者)を知りたい、と思うのではないでしょうか。つまり、単純に考えると、卓越した選手=勝った選手であり、要するに我々は試合の勝敗を通してどちらがより卓越した選手であるかを知りたがっているのだ、ということになりそうですが、そうならないところがまた面白い点です。最近でもW 杯日本代表の対ポーランド戦での時間稼ぎのパス回しが話題になりましたが、勝ったけれどもなんらかの意味でフェアでなかったと評価され、「よい試合でなかった」と言われることはよくあります。勝つことが卓越していることと同じであるならば、勝ったのに称賛されない、ということは原理的にありえないはずです。このとき、勝利と卓越性の関係はどのようなものになっているのでしょうか。

ひとつには、こうした「よくない」試合は、勝利によって卓越性がうまく示されていない、負けたほうが実は卓越していたかもしれない試合だからよくないのだと考える手があります。これは、勝敗とは独立に卓越性というものが決まっていて、我々は勝敗を通して間接的に卓越性を知りうるが、それがうまく機能しないこともある、と考えることになります。一方で、あれはそもそもよくない試合ではなかった、「勝った方が強いのだ」、という見方もあるでしょう。このように考えるときには、卓越しているとは勝ったということだ、と逆に勝敗によって卓越性を定義していることになります。このとき、勝敗とは別に卓越性というものが存在しているわけではありません。さらには、卓越性は勝敗とは別のものであるが、あらかじめ決まっているわけではなく、実際の試合での勝敗によってその都度創られていくものだ、と考える両者の中間のような立場もあります。我々は実際の試合を通して卓越性とはなにかを理解し、あるいは何が卓越していることなのかという基準を新たに創造したり修正したりしていっているのだという考え方です。

以上の三つの考え方は、たとえば裁判における判決の意味とは何かという問題にもパラレルにあてはまるような、より一般的な問題の一例になっています。もっと話を広げてしまえば、哲学における実在論、反実在論といった議論(大雑把に言って、何かが我々人間の行為、認識、言語といったものから独立に存在するか否かといった議論です)に当然かかわってきます。このように長門氏の発表のポイントは、スポーツにおいて目指されている卓越性とはなにかという問題が、卓越性と勝敗の「存在論的な」関係をどう捉えるかという問題にたどり着くということを示す点にあったように思いました。

トーク中の松本大輝氏

二人めの登壇者、松本大輝氏はスポーツにおける「華麗なプレー」とは何かをテーマに、分析美学の観点から話をされました。スポーツにおいて存在する様々な美のうちのひとつに、「華麗なプレー」が含まれるのは間違いないことでしょう。こうした美しさ、華麗さとは結局のところなんなのでしょうか。

選手の身体動作のもつ特徴(リズム、スピード、正確さ、ダイナミズムetc.)がプレーの「素晴らしさ」や「華麗さ」において重要であるというのは間違いないでしょう。しかしそれだけでしょうか?たとえば競技としてのフィギュアスケートと、エキシビションでは、評価の基準が異なりますが、原理的には全く同じ演技をすることが可能です。このとき同じように四回転ジャンプをしたとしても、我々がそこに感じる「華麗さ」には違いがあるのではないでしょうか。そこで行われている身体的動作はまったく同じであり、その身体的な難易度もまったく同じであるにもかかわらず、です。このことは、華麗さが、純粋に身体的動作だけによって決まるわけではないということを意味しています。

あるいは、ボウリングと良く似た「ホウリング」という競技を仮に考えてみましょう。ボウリングとの違いは、指定されたピンだけを倒すことが目的であり、他のピンを倒すと減点になる、という点にあるとします。このとき、全部のピンを倒すという身体的動作は、ボウリングにおいては華麗であっても、ホウリングにおいてはそうではないでしょう。たとえ後者において選手が全部倒すことを(何らかの事情から)意図していて、その通りに実現できていたのだとしてもです。

これらの例は、プレーの華麗さは競技のルールによっても決定される、ということを示しています。それでは、我々が好き勝手にルールを決定することによって、どのプレーに華麗さ、美を感じるかも、好き勝手に決められるのでしょうか。そうではないように思えます。そもそもスポーツのルールというのは、いっぺんに決められてその後全く変化しない、といったものではありません。たいていの競技のルールは、長い時間の中での実践を積み重ねていくことで、少しずつ変えられていっています。重要なのは、このようにルールを修正していくとき、我々は無軌道にやっているわけではなく、なんらかの方針をもち、そうした方針をなるべく実現できるようなルールの改正を行おうとしている、ということです。ルールの変更には、明らかに「方向」や「目指すべき価値」があるのです。たとえばごく一般的なものに限れば、一定の身体性に依拠している、練習による上達が見込める、運に左右されにくい、などです。

そしてルールにはプレーの華麗さを決定するという役割もあるのなら、こうしたルール改定の方針には、華麗さを決定するための側面も含まれていると考えるのが自然でしょう。スポーツのルールには、より華麗なプレーが行われうるように改定されていく面があるということです。では、こうしたルール改定の方針とはどのようなものなのでしょうか。

それはどこかに明示的に書かれているわけではないし、誰かひとりが知っていて決めることではありません。その競技が実際に何度も行われていく歴史のなかで、その競技に関わる人々からなる一定の言説の空間が、なにが目指されるべきスポーツの価値であるべきなのかということ自体の了解が、少しずつ作られていくのです。松本氏は以上のダイナミックな空間を指して、何が芸術であるかを決める社会的・文化的空間を意味するものとしてアーサー・C・ダントーが発案した「アートワールド」に倣い、「スポートワールド」という概念を提唱できるのではないか、と述べました。こうした松本氏の話は、スポーツにおける美しさが「作られる」ものであるという側面を、ルールの改定という具体的な実践の観点から明らかにしたものだとも言えるように思います。

会場の様子

会場では二人のトークのあと、参加者から活発に質問が飛び交いました。どれも意外な観点を提示していたり、説得力のある反例であったりして、登壇者と参加者がひとつのことを一緒になって明らかにしていく、共同作業のような楽しい時間になりました。そのうちのいくつかをここで紹介したいと思います。

  • スポーツの卓越性ということで、スポーツを通して実現される普遍的な価値や能力ということを念頭に置いていたように思うが、たとえば実際の野球選手の能力は、野球においてのみ機能するような、かなり特化した能力ではないだろうか。一般にそのような価値は、倫理学において評価される価値とは異なるのでは?
  • お互いの実力が伯仲しているほど「よい試合」であるとみなされるというのは、観客は試合における偶然的な結果を評価しているということであり、どちらがより卓越しているかを知りたがっているわけではないということでは?本当にどちらがより卓越しているか知りたいなら、同じ対戦相手の組み合わせで何度も試合をして「誤差」を減らしていけばよいわけだが、そのようなことは興ざめである。偶然的な勝利や敗北を、我々は鑑賞したがっているのでは?
  • メジャーな球技のような観客の多いスポーツほど、運の要素を残しているように思える。ルール整備で排除しようとしているのは偶然性ではなく不公平さではないか?
  • アートワールドでは、これまでの芸術に対する「反芸術」の存在にポイントがあるが、スポートワールドではこれに対応する「反スポーツ」にあたるものがなにかあるのか?

実際のトークや質問にはここでは紹介しきれていない面白い内容も盛りだくさんでした。参加してくださったみなさま、ありがとうございました。イベント後、登壇者のお二人からもコメントをいただきました。

    松本氏から一言:ルール改定とプレーの華麗さとの間には、長門さんが取りあげた「よい試合とは何か」という観点がどうも不可避的に絡んできそうです。その辺りをもっと掘り下げられたら面白いかな、と思います。みなさんもぜひ考えてみて下さい。当日は刺激的な質問をいくつもいただきありがとうございました。

    長門氏から一言:今回のイベントでは「勝利とは何を意味するのか」「試合をすることにどんな意味があるのか」といったことを扱いましたが、これはスポーツ倫理学の話題のひとつをごく狭い仕方で切り取ったものにすぎない、ということを改めて強調したいと思います。この話題を出発点にするにしても、松本さんが発表されたようなスポーツの審美的な側面や法哲学的な側面からの検討などが必要だということは容易に想像がつきます。あるいは、スポーツ批評において批評者は何をしているのか、といったことについても立ち入った分析が必要でしょう。このイベントがみなさまを触発して「こんなアプローチもあるかもしれないよ」ということを思いつくきっかけになったらなによりです。またどこかでお会いしましょう。

最新号には、ここでのトーク内容とはまた角度の異なる長門裕介氏のスポーツ倫理学論考や、高橋志行氏による合気道をめぐる論考が掲載されていますので、興味をもたれた方はぜひお手にとってみてください。

Amazonでもご購入いただけます。

さて引き続きフィルカルでは、明日11月23日に公開ワークショップ「ネタバレの美学」を現代美学研究会と共催いたします(http://d.hatena.ne.jp/conchucame/20181002/p1)。こちらもきっと面白いものになると思いますので、今回参加していただいた方も、この記事を読んで面白そうだなと感じてくれた方も、ぜひご参加ください。